第4話
オレンジジュースという飲み物はとても美味しかった。
味もそうだが、まるで汲みたての湧水のように冷たく喉が潤う。
私にとってこのパンとジュースは最後の晩餐にようなものだ。
あのマスカット味のところてんはなんだったのか。
このパンとジュースがあれば、あんなもの必要ないじゃないか。
「助かった、ありがとう」
お礼を言って私は透明の容器を月比古に返した。
「おい、姉さん」
「私はシグリットだ、間違えるな。お前の姉じゃない」
一体何だというのだ?
眉間にしわを寄せて、何か不服があるようだが見当もつかない。
「全部飲むこたないんじゃない?僕の分も少しは・・・」
「そうか、それはすまなかった」
ジュースもパンも全部食べてもいいのかと思ったが、そうではなかったようだ。
なんとも細かいヤツだ。
まったく男という奴はユサールでも、天上でも変わらないようだ。
多くを言わないくせに後から文句をつけてくる。
「はぁまったく・・・、まぁいいや。
それよりもこの周囲ってなにがあんの?」
漠然とした質問で答えに困る。
周囲とは何を指しているのだろうか?
私が首を傾げていると、月比古は銀色の容器を地面に置く。
「ここがブリガンテ平原だとして、この北側には何があるん?」
月比古の指は銀色の容器の上、つまりは北側を指している。
彼はどうやら地理を知りたいようだ。
知識もなく天上から降りてきたのなら当然と言える。
彼のことを全面的に信じる事は出来ないが、紋章は誤魔化せない。
王である事は疑いようもないし、何よりもこのパンとオレンジジュースの存在が、天上の人間であることを物語っている。
携行食でありながらこれほど美味しい食べ物はユサールになく、味だけでいえば飛州国の団子に勝るとも劣らない。
透明の袋に至っては、もはや神の御業だ。
王でなくとも天上の人間でなければ、このような品々説明がつかない。
「確か、蓬莱山脈がある。そのさらに北には扶桑国があるはずだ」
飛州国は蓬莱山脈の東に位置するが、天生山脈という別の山脈だったはず。
蓬莱山脈と天生山脈の間の谷にあるのが鷲見砦・・・、のはずだ。
ブリガンテ平原はかなり広大で、ブリガンテ平原から見てきたは蓬莱山脈になる。
ブリガンテ平原から見れば天生山脈は東北に位置している。
「じゃあここは?」
銀色の容器の上を指していた月比古の指がすーっと右に移動する。
指は銀色の容器の右上の部分を指していた。
月比古はブリガンテ平原の周囲に何があるか知りたがっているようだ。
だが、しかし――。
「そこは天生山脈、飛州国という国がある。私はそこを経由してきた」
月比古の指は右上から下がり、銀色の容器の右側を指す。
「ここは?」
鷲見砦はブリガンテ平原の東北、つまり右上に位置している。
そこから南に60km南下するとナバレノという街があると、飛州国で聞いた。
「ナバレノという街がある。私はそこを目指していた」
「だとすれば、僕らは今このあたりにいる・・・。
ひょっとしてブリガンテ平原は、かなり広いのか?」
「どうだろうな、詳しい事はわからん」
「なんだって?」
月比古が目を見開いてこちらを見ている。
私はそれほどおかしな事を言ったのだろうか?
「なんだと言われても、私はこの国の人間ではないと言っただろう」
「おい、待ってくれ」
月比古の顔が引きつっている。
「異世界人ってのはみんなそうなのか?
それともシグリットだけがそうなのか?」
異世界人という言葉が少し引っかかる。
意味はよく分からないが、なんだか馬鹿にされているような、見下されているような、そんな気がしてならない。
だがそれよりも、月比古が『大陸』の知識を何も持っていない方が問題だろう。
ダークネスシャインとユサールがどれだけ離れているかもわかっていない。
分かっていれば、ユサール育ちの翼紋章人である私がブリガンテ平原について何も知らなくても疑問を抱くことはないだろう。
これは反省しなければならない、まずはそこから教えるべきだった。
「いいか?私の祖国ユサールはダークネスシャインより国と山脈を二つ越えた向こうにある。距離にするとおよそ1500kmぐらい離れている」
「お、おう」
「ユサールは、レハブアム公国、飛州国と同盟関係にあるが、この二国はダークネスシャインと敵対しているんだ。
そのためユサールは、ダークネスシャインと一切の国交がない。
私はこの国がどうなっているかとか、何があるかとか、何も知らない。
だからブリガンテ平原がどれぐらい広いとか、周辺に何があるかとかはわからない」
「なるほどなぁ。姉さんが旅をする能力がゼロだって事が、とてもよく理解できた」
「なんだと!?」
はぁー、と月比古がわざとらしいため息をつく。
何故、旅をする能力の話になるんだ?
私はユサールを出立して二か月も何の問題もなく・・・。
確かにブリガンテ平原で行き倒れたが、それまでは順調そのものだった。
「姉さんの旅は失敗、いや最初から破綻してるね」
「なんだとっ!?破綻などは・・・」
行き倒れているのだから否定はできない。
しかし破綻と言われると認めたくはない。
だいたい、月比古も失敗しているではないか。
天上から降りてくるのに、たった一回分の食事のみ。
自民族の近くではなくこんな何もない平原。
人の事は何も言えないではないか!
「それで提案、というよりはお願いかな?一緒に鷲見砦に行かないかい?」
鷲見砦へ向かうという提案は正しいと思えた。
ナバレノを目指して南下してきたが、ナバレノは見つからなかった。
食料を分けてもらう事で、なんとか生き長らえたが、長くはもたない。
お腹は全然満たされていないのだ。
頑張っても明日の夜にはまた行き倒れる。
南下してナバレノを探すよりは、来た道を戻り鷲見砦に向かうべきだ。
今度は『そんな装備で大丈夫か?』と言われないように、きちんと旅支度を済ませてから再び扶桑国を目指すべきだ。
月比古が言いたい事もそういう事だろう。
しかし、月比古と行動を共にする事は少しだけ抵抗がある。
月比古はもう食べ物を何も持っていないし、体力があるように見えない。
土地勘もなく大陸の常識も持ち合わせていない。
そして何よりもまだ見た事のない異民族の王のである。
私はユサール王に忠誠を誓う翼紋章民族だ。
王の許しなく異民族の王を助ける事は、褒められたものではない。
何故ならば、王とは民を導くものである。
今は一人こんな平原に立っている阿呆面の男だが、いずれは自分の民と出会い、新たな国を興すだろう。
その国が祖国ユサールを脅かさないと誰が保証できる。
それこそ、この国ダークネスシャインがそうである。
友好関係であった隣国を次々と滅ぼして巨大化した大国なのだ。
――だが。
私は月比古に手を差し出した。
「よろしく頼む」
月比古は私の手を取り、私達は握手を交わした。
我が王なら私の行いを責めはしないだろう。
私は曲がりなりにもリンゲン伯爵なのだ。
謎のところてんはともかくとして、パン二つとジュースを恵んでもらった恩を仇で返すわけにはいかない。
それに、私の旅は月比古が指摘した通り失敗している。
こんな装備では駄目だった。
食べ物も飲み物もないのだ。
南下しようが北上しようがどのみち助かる見込みは低い。
ならこの巡り合わせに意味があると信じて付いていった方がいいだろう。
握手した手を離し、私達は北へ向かって歩き始めた。
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