私はあなたの中であなたと共に世界を見つめる

 瞳にぼんやりと菫色の誰かが映っている。

 ユウはひどく疲れたと言おうと思ったが、口をうまく動かすことができず、やがてそれも億劫と何もしなことにして虚空に落ちていく。

 

 暗闇はなにもない。右も左も、上も下も、綺麗な風景、信頼できる仲間、ましてやあの人もいない。虚無だけに満たされた世界。

 何かが存在するといつか失われる。

 だったら最初からなければ喪失感に苛まれることもない。

 暗闇のさらに先、二度と戻れない深淵に落ちれば楽になれる。

 苦しみなんてない永遠に平坦な世界はひたすらに優しい。

 もう眠たい。あと少しで意識は深淵に沈み込む。ようやくこれで永遠に……

(こら! 何してんのよ。あなた)

(え、誰……ですか)

(私よ。わたし。え、ひどい! もう忘れてしまったの。え、まじでひどい!)

 女性の声音がどこからか響いてくる。この跳ねてくすぐるような声は……

(え、あ、シーレ? ど、どうして……死んだはずじゃ……)

 何も見えないはずの暗闇に彼女の輪郭線が発光しながら現れた。

 やがて輪郭の中に色が整い、艶のある赤髪も見事に再現されてシーレとなった。

(お、私の身体がちゃんとある! なんだ、しっかり覚えているじゃない! まあ、私の本当の身体は、残念ながらもう存在しないんだけどね……)

(どうして。ここは僕の心の中のはず)

(そうよ。私はあなたの記憶が作り出した幻想。【制配】が記録していたのかも……。でも嬉しい……こんなにちゃんと再現してくれるなんて。ま、そうよね、私のこと気になってず〜と見てたよね! ふふ)

 いつもの調子で話すシーレにユウは戸惑ってしまうが、言うことはすぐに浮かんだ。

(どうしてあの時、僕を庇ったんだ……どうして)

(それは……言ったじゃない。また言わせるの? もう……。ユウがいない世界なんて私はいらないの。あなたが生きている世界が私の世界なの。だからあなたを助けた)

(それでシーレが死んでしまったら、何も意味がないじゃないか!)

 ユウは溜め込んだ文句をシーレにぶつけた。

(まぁ、そうなんだけどね……ごめんね)

 シーレはちょろっと舌をだして、まるでいたずらがばれて謝る子供のようであった。

(でもね、ユウ。私はあなたの心の中いるの。だからこうやって話すことができる。そう、永遠にあなたの心は私のもの。なんてね〜。ちょっと恥ずかしい。はは……)

(でも、僕はシーレと一緒に生きて……)

(あ、こら泣かないの。聞いてユウ。もし再び同じことがあっても、私はあなたを庇う。大切な人を守るために、自分を失ったことに後悔などない。これは私の決断よ)

(シーレ……)

 流れるはずがない涙が、自分の頬を濡らす感覚が確かにあった。

(ユウ。私の大切なあなた。元の世界に戻って。ここはあなたがいていい場所ではないの。この下の深淵に落ちたら二度と戻れなくなる。今なら引き返せる。それにね、ユウ……私のこと覚えていて欲しいの。シーレという女性がいてユウという男性と、その……思いが通じ合ったという記憶を。ユウが忘れてしまったら、私……二度死んじゃうじゃない……そんなの嫌)

(シーレ)

 はっとしてユウが見つめた幻想の瞳は微かに泣きそうで、目尻が赤く滲んでいた。

(ユウ。左手に何か硬いものを感じるでしょう?)

(え、これは……金属)

(そうよ、ユウ。現実のあなたが触れているもの。そして、右手を想像してみて。何か感じない?)

 ユウはぐっと右手を想像してみた。最初は何も感じなかったが、やがて柔らかくユウの手を包む、暖かい存在に気づく。

(そう。それが人の暖かさよ。現実の世界であなたを待ちわびる人の)

(シーレ)

(さっきから、私の名前しか読んでないじゃない! もうっ! ふふ。でもユウらしいかな。わたしは……あなたの中でこれからも生き続ける。ユウが見たもの、感じたもの、嬉しいこと、辛いこと。全部、私も感じることができるの。私はあなたの半分になったの。だから生きて、私にこの広い世界を運んできて)

 それは最初に聞いたシーレの旅の目的であった。瞳を輝かせてこの世界の隅々まで知りたいと話したシーレの笑顔が、今になって鮮明に蘇る。それは僕だけがシーレにしてあげられることだ。

(……ああ、わかった。シーレ。正直、納得なんていかない……だけど……だけど僕の目の奥底から、この世界を見てくれ。そして、いつまでも僕の中にいてくれ)

(ありがとう。ユウ……さあ、もう戻らないと。右手の暖かさをもっと感じて。あなたを現実に導いてくれる。その手はこれからもあなたを未来へと導く。前を向いて。ユウ。そして、生き抜いて)

 ユウはもう一度、右手に意識を集中させた。

 暖かさは上方から訪れて、暗闇は段々と薄まっていく。ユウの意識は徐々に浮上していった。気がつくと、先ほどまで鮮明に聞こえていたシーレの声は消えていた。姿はもう、どこにも見えない。でも今は確信できる。

 

 シーレは僕の中で生き続けてくれる。

 現実に会えないのはひどく寂しいけど、いつでも心の中で、会える。

 

 身体が感じられて、やけに重たい。

 動かそうにも神経が嫌がってユウの指示を無視している。

 左手にひやっとする冷たい感覚。

 ぞっとするぐらい重たい瞼を開けると、シーレのレイピアを握っている左手がぼんやりと見えた。

 目を少しだけ右にずらす。この動きさえも今は苦痛だ。曖昧な菫色の輪郭とぐしゃぐしゃに泣きじゃくっている白肌の女性が見えた。

 右手は彼女に握られて、伝わる感覚は暗闇の中から現実に引き戻してくれたあの暖かさであった。僕は思わず手を握り返した。

 いきなり抱きついて、わんわんと泣き叫ぶ彼女の暖かさが今は何よりも現実で心地いい。

 

 シーレ。ありがとう。

 僕には、まだやることがあったんだ。

 

 目覚めてから十日後、ユウは庭で身体を動かして回復具合を確認していた。

 衰弱しきっていたが随分と動けるようになり、明日からでもフォグリオン山脈に向かえそうな勢いだ。

 両脇の小太刀に手をかけて一気に引き抜く。思い描く軌道は現実の軌跡と綺麗に重なり、狂いなく自分の意思が伝達されていた。

 鞘に戻して額に浮かぶ汗を手の甲でぬぐい、南に聳えるフォグリオン山脈に視線を向けた。麓の風はことさら強く、ユウの顔を洗うように流れていった。

「調子はいいみたいね。ユウ。若いってすごい……」

 振り向かずに、それは瓜二つの口が悪い方だと分かる。

「もう大丈夫だと思う。みんなに随分と迷惑をかけてしまったな」

 ユウが振り向くとリーシュは右手を差し出していて、手のひらには黒石の指輪があった。

 シーレが付けていたものだ。

「この指輪、私が持っていてもいいかな」

「ああ、いいよ。僕は、ちゃんとここにあるから」

ユウは大事そうに右手を胸に当てて、自分をこの世界に戻してくれたシーレを想った。

「ありがとう。でも戻ってきてくれて本当に良かった。正直、駄目だと思っていたの」

 リーシュは美しく涙ぐんだ。彼女は本当に人間なんだとユウは思う。義体と身体の差など何もない。心があれば人は形作られる。

「意識の中でシーレが現実の世界へと送り出してくれたんだ。そして最後はルティアが引き上げてくれた。シーレが死んだことに納得などしてないし、一生後悔すると思う。今でも心臓が張り裂けそうだ。それでも……彼女に生きろと言われたんだ。僕は一族の末裔として、結末を見届けなければならない。そして……彼女の目の代わりとして世界を見て届けたいんだ。だから、僕には生き抜く。二つの理由が、今、僕にはあるんだ」

 自分なりの答えはまだおぼろげだが、その輪郭線は薄く見えている。

「そう……シーレはね、ウィムフレアで白いワンピースを買ったでしょう……あの時、私にしきりに言っていた。『私に何かあったら、ユウのこと、お願いね』って……どこか予感めいたものがあったのかもしれない」

「そうか……白い服を見せてくれたのも、何か思うところがあったのかな」

 目を瞑り南風を背中に受ける。癖毛の先は、ちりちりとユウの頬に触れた。

「でもさ、その言葉を聞くと、僕はちゃんとシーレに思われていたんだなって実感できる」

「そうよ! 実は……今も泣いていたら、ぶん殴ろうかと思っていたのよ。そんなのシーレの思いとは違うから。彼女はどんなに苦しくても、前に進むことを望んでいると思う」

 いたずらっぽいところはシーレの影響だろうとユウは思った。

 彼女の生きた証はちゃんとリーシュにも残っていた。

「お二人〜! そろそろお昼だよぉ。」

 お腹を空かせた仕草をしながらイネスが駆け寄ってきた。

「今いくよ。イネス……ん? どうした」

 どこかモジモジしているイネスは、言いにくそうに切り出した。

「あのね、この前、書いた絵、覚えている? あれなんだけど……もう少し持っていていいかな。赤髪のお姉ちゃん、あんなことに……だからね、どうしてもあの絵に色を入れたいの。ウィムフレアに戻ってちゃんとした絵にしたい」

 ユウは目を細めて笑いながらイネスの頭を撫でた。

「ああ、もちろんだ。そのほうがシーレも喜ぶ。帰りにエルリザさんのところに寄るからさ。そこで待っていてくれ」

 イネスはユウを見上げて、それはまるまるとした笑顔だった。

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