引き止めた者の責務

 憎悪に満ち溢れた声が、床に伏せて身を隠していたルティアの心を揺らした。

 事態の急変を感じたルティアはエルシスの制止を振り切って馬車から外に飛び出した。

 太陽は登り始め、陽の光はじんわりと辺りの空気に染めていく。

 ルティアは人の気配がする方向に視線を向けて——————絶句した。

 貫いた槍は陽光に照らされて輪郭を現し、それは墓標のごとく。

 

 シーレは、死んでいた。

 

 い、いやよ。そんなの……口が先に動き、足がようやく一歩前に出る。

 拒絶するように大きく頭を振って、乱れる髪は本来の潤いなど、とうに失っていた。

 どうして……一緒に帰ると、一緒に朝焼けを見ると約束したじゃない。

 倒れそうに前に進み、拳ほどの小さな石に足を取られて転ぶ。

 立ち上がろうとしても足は言うことを聞いてくれない。

 それでも這いつくばって前に進もうとするルティアの眼前で、ユウの狂歌は始まろうとしていた。

 ユウの全身から吹き出す憎悪は青い火となって顕現していた。シーレの前に跪いていたユウは何か言葉を発して立ち上がり、敵兵に向き合った。

 ルティアが一度だけ瞼を閉じて、すぐさま開けると、ユウの姿はない。

 朝暘を逆光に、ユウは青い火の粉を飛ばしながら敵兵の間を駆け抜けていた。

 ユウの軌跡のあとに、次々と生命を蒸発させていく様は絶望の景。

 ああ、また一人、死へと落ちていく。

 刹那にルティアの瞳が捉えたユウの顔はユウではない。

 嬉しそうに人を殺す、精神の平均を崩した青く光る双眸。

 それは駄目。ルティアは口に出そうとするが喉なんて動かなかった。

「あれが本来の力なの……イユキの戦闘経験が沈んでいたユウ本来の能力を覚醒させ、シーレの死が暴走させてしまった……」

 いつのまにか隣にいたリーシュの顔は、今にも泣き出しそうなルティアの心の写しであった。

「この菫色の髪……不思議じゃなくて、ルティア……」

 リーシュの言っている意味が分からずに、ただ同じ色の瞳を見つめ返した。

「人の髪は本来、黒や金髪がほとんど。菫色の髪は千年前、誰一人としていなかったの。私たちは投薬と精神操作、そしてDNAという身体の設計図を科学の力で改ざんして生み出された人間。ただ人を殺す為に、戦争の為だけに作られた人間。この髪の色は薬で汚染された証」

 リーシュは涙を流していた。口元に届く水滴に、ルティアは自分も泣いていることに気づいた。

「スリークは、その中でも最も成功した一族だった。そう……人を超える生命の創造を過去の世界は実現した。あの青い目は極限の能力を解放したしるし。シーレの……シーレの死が眠っていた狂気を呼び覚ましてしまった。制御を超えて暴走したら、もう誰にも止められない。ユウは命が尽きるまで人を殺す」

 

 ルティア。あなたが元に戻してあげて。きっとできる。

 

 明らかな幻聴が聞こえる。

 そうだ。まだできることがある。諦めるなんて似合わない。

「リーシュ。わたしが元に戻します」



 フォグリオン山脈に近いからだろう、この村の水は極端に冷たい。

 だが今はその刺すような冷たさが、彼の焼けるような苦しみを少しでも溶かしてくれるかもしれない。ルティアは水が張られた容器に布を浸し固く絞り、溶解するような熱さの額にそっとおいた。白い手はあかぎれに覆われて痛々しい。

 背後から扉を叩く音がして、誰かがそっと入ってくる気配がした。

「ルティア様、少し代わります。この三日間、ほとんど休んでないしょう」

「ありがとうございます。エルシスさん。では……少しだけ、代わってもらえると」

「少しと言わず、ゆっくり休んでください」

 ルティアは苦笑いをしてエルシスに頭を下げ、部屋を後にした。左腕の刀傷が包帯の下でじんじんと悲鳴をあげている。

 傷口には……シーレが持っていた傷薬、きっと自分で調合したものを使わせてもらっていた。エルシスが非常事態だからとシーレの鞄を開けたけど、使う前に、ごめんなさい、と謝ることしかできなかった。

 あの時、殺されることさえ覚悟してユウの元に走り寄っていった。ただユウを止めたくて身体に必死にしがみ付いた。自分でも何を叫んだか覚えていない。ユウはなぜか動きを止めてくれたけど、そのまま倒れ込んで意識を失ってしまった。それ以来、目を覚ましていない。不可抗力で小太刀が左腕をかすめて怪我をしてしまったが、ユウがシーレの死によって受けた心の傷に比べると蚊に刺された程度にも及ばないと思う。あの二人は確かに通じ合っていた。その片割れを目の前で失うなど……。

 ルティアは心が溺れそうになってそれ以上の思考を無理矢理に止めた。

 イーリーでの戦いで、ユウはポリアトを含む二十名以上をたった一人で殲滅した。再び示された圧倒的な力に、ジュリスディスはなかば呆れたように半笑いをしていたが、リーシュからその理由を聞いたケレングは、過去からの呪縛に囚われたユウが不憫でならないようだった。

 怪我の状態が思わしくないハイアードは、ケイが操る馬車でウィムフレアに引き返した。ルティアたちはイネスの故郷イサワ村へと足を進め、村長でもあるイネスの父親の家に身を寄せている。

 シーレの遺体は軍則に従うとウィムフレアの駐屯地で荼毘にふされるのだが、ケレングがそれは彼女に失礼と強固に反対し、村長の勧めもありイサワの墓地に葬られた。

 レイピアはケレングが責任を持ってシードフィカに届けると約束し、指にはめられていた黒石の指輪は、リーシュがせがんで形見として譲られた。

 ルティアは家の玄関を通り抜けて、ふらふらと誘われるように庭へと向かう。

 南に面している庭のはるか先に、禁忌の山脈フォグリオンが待ち構えていた。

 麓には樹林が生い茂るが中腹から上は雲に覆われ、全貌を掴んだ者は誰一人としていない。

 迫り来る風が纏う厳粛さに気圧されてしまったルティアは、かくんと膝が折れて倒れるように座り込む。はは、と乾いた笑いは、たった三日間看病しただけで音を上げる身体の情けなさに向けられていた。笑いはやがて嗚咽に近づくが踏ん張ってそれは塞き止めた。少し強めの南風が身体から熱を、心から感情を奪っていく。アニアーズ城でしゃがみ込んだ時、手を差し伸べてくれたのはシーレ。だけど彼女はもういない。

 下唇を噛んで鉄の味をちゃんと飲み込んで、まだ折れる訳にはいけないと心を鼓舞した。あと少しだけお願い。まだやることがある。


「そこにいては風邪をひいてしまいますぞ。ルティア様」

 イネスの父親に不意に声をかけられた。

 滲んだ目元を指で擦り、ルティアは振り返った。

「はい。そうですよね……あ」

 ルティアは慌てて立ち上がり、深々と頭を下げた。

「彼女、シーレというのですが、この地に埋葬して頂いて、本当にありがとうございます」

「シーレさんは残念なことですが、この地はイーリーとは違い、豊か自然に溢れています。少しでも魂が休まるといいのですが」

「そう願っています……ところで、【制配】とこの村、どのような関係があるのでしょうか」

「千年前、フォグリオンに技術を秘した一族の末裔が、守り人として居着いたのが最初だと言われています。イネスは【制配】を持つ者を受け入れると言っていたようですが、そうではありません。再び触れることを許される者は、【落ちる星の物語】も所有し、その本の意味を理解していなければならない。我々はそれを判断する一族ということです。ルティア様ならふさわしい。他の者なら、我々は追い返しておりました」

「いえ、わたしなど……守られてこの場所に辿り着いただけです。そして沢山の命を失ってしまいました……ですが、だからこそ、彼らの魂と共にわたしはフォグリオンに向かわなければならないのです」

「そうですな。それが進むべき道でしょう……ユウさんの具合はいかがですか」

 ルティアは何も答えられずに顔を横に振った。 

「そうですか。早く意識が戻るといいですね……」

 翌朝、ウィムフレアから派遣された部隊一〇〇名が到着した。

 先の戦いはハリグレクたちの活躍によってダストリア軍を撤退に追い込み、火災も鎮火して街は復旧作業を開始したという。だがキタザワ率いる反乱兵は依然、行方不明だ。

 ケレングが隊の長であるヒロミカに来訪の理由を尋ねると、ヤーカトが率いる小規模な分隊が後を追って南下している可能性があるということだった。ケレングの判断により二〇名だけがフォグリン山脈に同行し、残りは村の警備をすることになった。

 

 村に滞在してから六日目の朝、ユウは突然に目を覚ました。

 エルシスからの知らせに、別室で朝食を取っていたルティアは手に持っていたコップを投げ捨てて、ユウがいる部屋へと走っていく。しかし部屋に飛び込んだルティアの瞳に映るユウの姿は、何色も持たない人の形をした抜け殻だった。 


 ああ、また食べ物をこぼして。駄目! 


 意を込めて眉を顰め、ルティアは目に見える抗議を示す。

 少し強く感情を揺さぶらないと戻らないと思い、ルティアはおおげさな表情を作るようにしていた。

 ユウは感情を失い無反応のままだが、口を少しだけ動かして物を食べられるようになってきた。

 

 待っていて。必ず元に戻すから。

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