第六章 私はあなたの中に
王女の意思は現実から乖離する
馬車の窓越しに見える街並みは、いまだ火災による煙の影響が深く、点在する街灯がぼやけて見えていた。
ルティアは不安を両手で抱えながら、落ち着かない瞳で周囲に意識を集中させる。耳を澄ませると、微かに聞こえてくる戦いの余波は、敵味方問わず、死を前にした嘆きが混ざっているようであった。
そんな権利すらないが、せめてもと、両手を固く合わせてひたすら祈りを捧げた。
なぜこれほどまでに、人は欲望に巻かれて多くを求めるのだろうか。
一〇〇〇年前に滅亡しかけた人々が得た教訓を活かせない自分たちは、このままでは二度と戻れない坂道を転げ落ちていく。
たとえフオグリオンに辿り着いて【ヘーヴァンリエ】の謎を解き明かしたとしても、この世界に何ができるのだろうか。人々を救うことなど、夢なのだろうか。
王女という立場をこれほどまでに呪うことなど、今まで一度もなかった。ただ一人だけ安全な場所に置かれて常に守られている自分。《陽愛》などという名を与えられて、雛壇の上に座る王女など、見せかけの装飾で煌びやかに見える置物にすぎない。
どこまでも自分は無力だ。
同じ年頃の二人は、まさに命をとして戦っているのに。
「エルシスどうだ! こっちは終了だ」
「あと少し! 車輪の検査だけよ。ジュリスディス、手伝いをお願い!」
「もちろんだ。手伝おう」
宿の前に馬車を移動したジュリスディスとエルシスは、入念に細部を点検していた。
ウィムフレアを抜けた先にあるイーリーは、まさに荒涼とした大地。
道らしきものはあるが、人の手が入る道路とは異なり、言われれば道だがむしろ獣道に近いため、車輪にかかる衝撃は通常とは随分とかけ離れている。
本来ならば交換すべき備品も多数存在するが、即座に出立しなければならない状況に、二人はせめてもと、万全な整備を施していた。
ハイアードはルティアと同じ後続の車中、強制連行に近いイネスは、その隣にちょこんと座っている。
十字路の方角から足音が聞こえてきた。
姿は見えないがどこか知っているような感覚に、ルティアは窓を開けて顔を出し、その人物を捉えようとした。あの人は……。
ルティアは馬車から飛び降りてエルシスに駆け寄った。
振り返ったエルシスは何か言おうとしたが、その前にルティアが言葉を被せる。
「エルシスさん、ケイさんが————」
エルシスは即座に道路へと飛び出した。続いたルティアの瞳に、弟を抱き締める軍人を脇に置いた姉の背中が映った。
「姉さん、く、苦しいよ」
「もう、心配かけないでよ。ケイ……」
仕方ないだろうと言いたげなケイと視線が合ったルティアは、それは駄目ですと瞳で訴えた。
ケイは抱き付かれたままであったが、思い出したかのように真顔に戻り、エルシスを両手で引き離した。
「姉さん、準備を急いで。団長たちは無事だ。でもここまで戻ることができない。戦局は押し込まれていたけど、ハリグレク師団長率いる重装兵大隊が間に合って、押し返している。十字路で全員を乗せて、そのままウィムフレアを離脱する」
「点検終了だ。これで二台とも出せるぞ。エルシス、人を乗せずに先行してくれ! ケイは後続の車両で、ルティア様の警備を!」
ジュリスディスは高らかと叫んだ。
天翔ける白馬たちは風を切って十字路へと向かう。
身を隠すように言われたルティアは、窓から死角になる場所に身を潜めていた。揺れる馬車の振動が心の不安定をさらに掻き立てる。
聞こえる外の喧騒は大きくなり、耳だけで感じる戦場は、混沌の濃度が限界まで引き上げられた極地であった。
震えが止まらないルティアは椅子ではなく馬車の床にぺたんと座り込んでしまう。イネスが大丈夫ですかと声をかけてくれたが、その言葉は身体を通り抜けてばらばらと床に落ちていくようで————ルティアは、はっとした。
その声をかけるべきは、自分ではないか。
この国の王女、全ての国民の命を守るべき存在は自分のはずだ。あの日、アニアース城で決意した信念はただの形骸なのか。ルティアは右手で力一杯に床を叩き、下を向いたまま縮まっている心を引き摺りだした。
ようやく双眸の深赤はまだらに燃え上がり、王女はその存在を取り戻す。
馬車が十字路に差しかかり、急制動がルティアの身体を揺らした。
エルシスがユウたちの呼びに戦線へと向かうが、既に待ち構えていたようで、彼女をみるやいなや、全員が馬車へと駆け寄ってきた。
窓からその様子を見ていたルティアは、ハイアードの制止を振り切って、戦場へと足を踏み出した。
ユウたちを引き連れて戻る途中のエルシスは、血相を変えてルティアに近づき、両肩を掴んで揺らした。
「駄目です。何をしているのですか! 敵はあなたを奪おうとしているのですよ!」
不退の決意に溢れた双眸は、誰にも止められない迫力を宿していた。
エルシスはその両手を自然に離してしまう。
ユウとシーレはルティアの両脇を固めるように従い、王女は最後尾から舞台に上がる。
「その耳を、わたしに傾けてください! アルティスティアが王女ソリューヴ・アルカーディナルです」
痩身の範囲を軽々と超えた甲高い声音が、戦場の隅々まで響きゆく。
身を隠すべき存在からの突然のしらべは、両軍の足をすぐさまに止めた。
「ダストリア兵の皆さん。すぐに剣を下ろして引きなさい。その手は人を殺すために、父母が育てたものでしょうか。考えてください。あたなの家族は人から奪うもので幸せを感じるのでしょうか。わたしたちは争うために、この世界に生を受けたのではありません。それでも……それでも、このアルティスティアに刃を向けるとあらば!」
言葉をあえて切った。それは、ここで踏み留まって欲しいという願望であった。
「アルティスティア軍は、国民の生命を守るために、全力を持って迎え撃ちます」
敵兵の顔に迷いが浮かび始め、対して矜持を揺さぶる激励を受けた友軍は、消えない焔を目に灯したようであった。
だがダストリア兵を撤退しない。いやできないのだ。
振り上げた拳を降ろさずに、相手に叩きつけることだけが矜持と教化された敵兵は、もはや心に触れられても迷惑と、嘆きの果ての怒りを全身にまとっているようであった。
様子を伺っていたハリグレクは、闇夜を突き刺すように手を掲げた。
「聞けぇっ! 王女の意を、我らは、しかと果たそうではないか。これほどの機会、またとあるまい。アルティスティアの軍人よ。前に進め!」
合唱のような何百もの咆哮。
見計らったようにシーレはルティアの手を取って馬車へと急いだ。
ルティアは乗る前に今一度、戦場へと目を向けると、雌雄は決するように見えたが、それは望むものには程遠い。
結局……何もできなかった。
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