崩落の火焔
それはイネスがあと少しで絵を描き終える頃だった。
ユウの感応は鋭利な牙をむいて何かを捕らえようと動きだしていた。あのぴりぴりとした感覚が再び脳に広がり、五感が活性化していることが自分でも分かる。先に鼻孔がむせかるような刺激と出会い、続いて聴覚が嫌音を捕捉した。
ユウがリーシュを見やると「こらっ! 動かないで!」とイネスから小言を貰う羽目になったが、目に映るリーシュの表情は薄暗く、瞳孔は揺れ動いているようだった。
イネスが「終了っ!」と声を上げた。
シーレとルティアが駆け寄って正確な描写に感嘆の声を挙げるが、その輪に加わらずに立ち竦むユウは、険しい表情をしていた。
「ユウ……いよいよ来る」
リーシュから声をかけてきた。やはり彼女も感づいている。
「ああ……もう始まっている」
ユウはシーレに鋭い視線を向けると、その意を汲み取ったようで、白いワンピースの裾を揺らしながら短い距離を駆け寄ってきた。
慄然が染み込んだ双眸が、ユウを捉えて離さない。
「ユウ……もしかして、敵…… なの?」
ユウはシーレの慄く瞳をなだめるつもりで、柔らかい表情を意識しながらこくりと頷いた。
「おそらく、街中で大規模な戦闘が始まっている……」
シーレは何も言わずにユウの右隣に立ち、突然、彼女の左手はユウの右手をさらって、隠すように彼の背後で握りしめた。初めてのシーレは、不自由な言語で例えるなら生命の発火で、ユウの手はじりじりと焦がされていく。
シーレは、ぎゅっともう一度、それはユウに確かな彼女を刻み込むように。
「さ、お二人さん……準備といきましょうか」
リーシュの一言に、シーレはさっとその手を離した。
「ユウ。生き残りましょう」
愁いなどまるでない濃厚な血が通った音調。
「あぁ」と答えてユウは瞬き、彼女の波長を吸い込んだ水膜は透明な鎧となる。
「ケレングさん。敵が来ます……」
闇夜に漂う妖雲は、べたつく賊心を降らせながら忍びよろうとしていた。
ケレングは黙視をユウに送り返し、遅れてその口は号令を響き渡らす。
「宿を立つ。ジュリスディスとエルシスは馬車の準備を。走れればいい。ルティア様とハイアード、イネスは荷物をまとめ次第、馬車に。私とリーシュ様、ユウとシーレは宿の前で敵兵を迎え撃つ。南の検問所を抜けて、そのままイーリーへ入る……生き残ろう」
「「はい」」
エルシスとジュリスディスは一糸乱れぬ返礼を披露し、階段を駆け上がっていった。
二人の背中を見ながら、ケレングは無念そうに呟いた。
「ハリグレクの増援は間に合わなかったか」
「まだ早いわよ。ケレング。最後まで可能性はある……無駄でも、あがきましょう」
「そうですな。リーシュ様。最後まで諦めないで待ちましょう。キタザワたちも反乱を起こすでしょうが、逃げ切ることを最優先にします。ユウ、シーレ……本当にすまない。再び戦いに巻き込んでしまった」
ケレングはユウとシーレに向けて深々と頭を下げた。
「大丈夫よ。ケレングさん。私もユウも、自分自身の意思と決断の結果、今ここにいる。そして最後までルティアを守る。そうよね……」
シーレは同じ決意を持つユウを見つめて、それを手渡すように。
「そうです。ルティアと【落ちる星の物語】はダストリアには渡しません。必ずフォグリオンに辿り着きましょう。もちろんその帰路の先は、アルティスティアです」
崩れそうな赤い目元を必死に取り繕うと、ルティアは何度も鼻を啜り、右手は漏れ出す声を固く塞いでいる。シーレはルティアに近づいて優しく抱きしめ、ルティアのそれはきっと崩れただろう。
何かに詫びるルティアの「ごめんなさい」は、かすんだ呻き声だった。
「さ、準備をしてルティア。私たちの旅はまだ終わらない」
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