色づく【星が落ちる物語】
今日は少しばかり南風が強い。
しっかりと閉じられた窓は余計に圧を受けて、ガタガタを震えていた。
————こうゆう日は火に気をつけなさい、ユウ。
そう母に言われた日々は、ほんの僅か月前のはずだが、今は途方もない過去に感じる。
部屋の寝床に横たわり、南の窓枠から見える空は、灰色から深闇に表情を変えていた。
ふと街の様子が気になったユウが窓を開けると、南風が一気に流れ込み、道路を往来する人々はまばらだが、街灯はこんこんと光源を振りまいていた。
ユウは窓枠のそばに椅子を移動させて腰を下ろし、街灯の明かりをただ眺めていた。
拡散する街灯の光域は立体の円環のようであり、背を向けていた猫は突然振り返って黄金色の目がぎらりと輝いた。
部屋に充満していた街の匂いは、いつのまにか芳しいスープの香りに移り変わっていた。
どうやら背後の扉の隙間から入り込んで来ているようで、【制配】を見ると夜の七時を回っている。夕食の時間が過ぎていたことに気づいたユウは、慌てて扉に向かった。
「すみません遅くなりました……あれ、みんなは」
テーブルに座り、書きものをしているエルシスにユウは目を向けた。
「あら、早いのね……あ、ごめん、ユウに言ってなかった。七時半になったのよ」
「よかったぁ〜。遅れたらシーレに怒られるかと。はは」
胸を撫で降ろす途中でエルシスの疑いの眼差しがちくりとユウに刺さる。
「シーレが気になるんだ……ふ〜ん……」
整った顔立ちの睨みは余計に怖いと思いながら、ユウは大きくかぶりを振った。
「遅くなってごめん! あと少し」
受付の奥の方から、エルリザの大きな声が聞こえた。
大変そうな声に、ユウは手伝いを申し出たが、客に仕事はさせられまいとエルリザに追い返される。しぶしぶとユウがテーブルに戻ると、シーレとリーシュが階段を降りてきた。
シーレは見たことがない白いワンピースを着ていた。
晴れた海辺に降り注ぐ透明な光の純然さを、彼女の奥底から引き出している服装に、ユウはおもわず目を見張った。総身が惹かれてシーレに近寄っていく。
リーシュは背後からシーレの両肩に手を置いて顔を出し、ユウの視線に割り込んできた。
リーシュのにやつく顔の訴えから逃れようと、ユウはシーレの顔に視線を移したが、彼女の存在に魅入られて、つい上から下へと視線が動いてしまう。
「なっ、なによ。ユウ……そんなに見ないでよ。恥ずかしいじゃない……」
楽しそうな背後の小悪魔は「どう、ユウ? 私が街で選んだのよ。ユ、じゃなかった、シーレの為に」とユウに噛みついてきた。
「似合うじゃないか。シーレ……とても似合う。いいと思う」
ユウの素直な言葉に、シーレはいつもの服よりも濃い赤を頬にまとい、それでも嬉しそうに微笑んだ。「あ、ありがとう……ユウ」
ケレングとジュリスディス、遅れてハイアードとルティアが姿を現した。
ルティアは嬉しそうにシーレに絡みつき、二人は黄色い声を挙げ合っている。
ひと時だが日常の営みを取り戻した二人を外郭から眺めるジュリスディスは、僅かに非難を帯びた口調を繰り出した。
「この状況で……まったく」
リーシュはその発言を拾い上げてジュリスディスに近づき、片肘で突いた。
「いいのよ、あれで。覚悟を決めた者が、守ろうとするものはなに? こんな瞬間が連なる日常でしょう。それを常に大切に感じなくて、どうやって最後まで意志を貫けるの。戦いに集中し過ぎると戦に魅入られ、最後は喰われるわよ。過去の人々は痛いほど経験した」
ジュリスディスはその言葉の重たさに目線をしばらく泳がせたが「リーシュ様。確かにそうです……そうでした。こんな日常を、私も望んでいるはずなのに……」
リーシュは撫でるような溜め息を小さくついた。
「あなたは真面目に気負い過ぎるのよ。いつ戦いになるか分からない。だからこそ、よ……こういう一瞬を大事にしましょう。ね」
「おまたせ!」
エルリザは叫んで、給仕たちと料理をテーブルに並べていく。
宿の経営はむしろ生活の種であり、本業は画家という彼女の感覚がふんだんに散りばめられた料理たちがテーブルへと躍り出す。
並べられた料理の構図は、まるで一枚の絵のようであった。
「あ〜おなかすいたぁ〜」
ユウたちが食事に取り掛かろうとしたとき、開いた扉から甘ったるい声の主が現れた。
眉間にしわを寄せた彼女の表情は、確かに限界的な空腹を主張している。
「イネスちゃん。どうしたのその顔……あ、また何も食べないで絵を描いてたんでしょう」
腰に両手をあて鋭い視線を送るエルリザは、まるで母のようであった。
「だってぇ〜食べるのが面倒で……」
「ダメよ。あなた。まだ育ち盛りでしょう。盛り付けてあげるから食べなさい」
喜びで瞳孔を大きくさせて、イネスは飛びつくようにエルリザの前に飛び出した。
「いいのぉ?」
見えない山猫の両耳がぴくぴくと感情を表しているようだ。
「いいも悪もないわよ。さ、おいで」
「よかったら一緒にどう? イネス……さん」
ユウは隣の椅子を引いてイネスに声をかけた。だがイネスはじっと警戒するようにユウを凝視している。エルリザはイネスの背中をぽんと叩いた。
「大丈夫よ。昼に会っているでしょ。それに私の昔からの親友と、その仲間」
いわば保護者たるエルリザの言葉に、イネスはするりと警戒を解いてユウの隣へ足を運んだ。
イネスはウィムフレアよりもさらに南の出身で、画家を目指してこの街に出て来たという。
今は秋に行われる美術学校の試験に備え、毎日外出しては街の風景や人物を絵に納めていた。
まだ途中だという鉛筆描きの下絵を見せてもらったが、圧倒的な描写力にユウは驚くばかりであった。
水を飲むようにごくごくとスープを飲み干して、満たされた胃袋を撫でた彼女は、ふっ——と深く息を吐いた。しばらくすると手持ち無沙汰になったのか、旅の目的をユウに尋ねてきた。ユウはどう答えるべきか思い悩み、向かいに座るルティアに視線を送ると「わたしたちはフォグリオン山脈付近の生態調査に行くのよ」と簡素に答えた。
だがイネスは意外にも目を輝かせた。
「わたし、その近くの出身なのです。フォグリオンの麓あたりっ」
「……あら偶然ね。私たち、山脈には入らないけど」
禁忌破りを強く否定するルティアだが「そっかぁ……あ、でもわたしの村では、証がある者は山脈に入れるって言われているよ」
テーブルの上に置かれた洋燈の灯が、イネスの言葉尻に合わせて偶然か必然に消えた。
「ごめん。油が切れたのかしら、ちょっと待ってね……」
エルリザは油を交換しようと洋燈を持ってその場から離れた。
ユウは【制配】を腕から外してテーブルに置き、明かりが点灯するボタンを押す。透明な光は華が咲くように周囲に広がっていった。
ユウの脳裏に新たな記憶が蘇った。恒星が光り輝く夜空の下、母が【制配】の明かりを頼りに【落ちる星の物語】を読んでくれた。
「子供の頃、【制配】の明かりで頁を照らしながら、母さんに本を読んでもらったな。懐かしい」
突然、ユウの隣に座るリーシュは立ち上がった。
何やら考え込むように【制配】を見つめて……リーシュは口を大きく開いた。
「思い出したっ! ユウ! その光源の使い方、そうだよっ!————」
リーシュは【落ちる星の物語】を出すようにルティアを急かす。
ルティアから本を奪うように受け取ると、何も書かれていない黒い頁を開き、【制配】の透明な光で照らした。
「見て……」
透明な光に照らされた黒い頁は、一〇〇〇年の眠りから目覚めるように黒から白へゆっくりと変化していく。何かは分からないが、機械の設計図とその細部についての記述が現れた。
「過去の歴史の一端……私はこれを隠したの」
理解はできなくても、その内容がもたらす功罪への畏怖を、ユウは敏感に感じ取っていた。
「どうやら私の記憶は消えているのではなくて、身体に保存されているけど引き出せないみたい。何かきっかけがあれば、おそらく……徐々に思い出しつつある」
冷たい発光はリーシュを深々と照らし、顔の陰影は荒涼のように厳しかった。
「ルティア。この《宇》編はね、フォグリオンに封印した過去の技術と兵器について書かれているの。一〇〇〇年前の人々でさえもその手に余り、戦争だけに使われた技術……そして、ただ人を殺すだけの兵器」
ルティアの表情はかつてないほど険しく、リーシュの瞳を深く見すえていた。
「私はこの本を作る時に、人を疑ってしまったの。だから本当に重要なことは封じて、正しく【制配】を扱える者だけが解けるようにした」
リーシュの言葉はユウの中で寂しげに反響していく。
だがユウは世界を壊した一族の末裔だからこそ言える、一つの答えをリーシュに伝えた。
「リーシュ。その判断は正しかったと僕は思う。だからいま僕たちは生き残っているんだ。僕たちはまだ、過去の遺産を背負えるほど成長していない」
リーシュは少しだけ頬を緩めたように見えた。
「私、自分が間違っていのかもしれないとずっと悩んでいたの。知識と技術を封じた結果、衰退した未来の世界の人々は、私を恨むんじゃないかって……」
「技術は生活を便利にするけど幸せにはしない。それは僕たちが作るしかないんだ」
ユウはルティアに視線を送り、ルティアは強く頷いた。
「しかし、この本は持つ者を選びますな。ルティア様が持つ限り安堵できますが、もしダストリアに渡ってしまったら……」
ハイアードの言及は重たくユウ肩にのし掛かる。
「その通り。ダストリアは危険だと思う」
リーシュは端的に答えた。
「そうなると、我々のやるべきことは【へーヴァンリエ】が弱まる謎を解いて【制配】を封じる、もしくは破壊するということですな……技術は惜しい気もしますが、我々には過ぎたもの。そうですな、リーシュ様?」
「そう。世界を壊す技術は恒久に封じた方がいいかもしれない。でも私は……ユウやルティアの判断に任せる。この時代はあなた方、一人一人のもの。私は……過去の亡霊」
リーシュはユウとルティアを交互に見つめた。
「リーシュ、この本には、他に【ヘーヴァンリエ】のことは書かれていないのでしょうか……何か手がかりは」
ルティアは必死に未来を探している。その視線には祈りが込められているようであった。
「……それは、わからない。この前も行ったけど、誰が名付けて、どうしてそんな名前になったのかしら? わたしの時代に毒風ってあったのかな……」
「でも【ヴァリ】は毒風で、吸い込んだら突然に死んでしまうんだろう? そしてそれを【ヘーヴァンリエ】が防いでいる。それは事実だよね」
ユウは最適解を持っていそうなエルシスを見つめた。
「そうよ。私たちでは解明できない突然死が発生している。それは海を隔てた北のドリスタ大陸から突発的に流れてくる【ヴァリ】によってもたらされる。南風【ヘーヴァンリエ】が防壁になっているけど、風の切れ目が発生することがあるの。その隙間から【ヴァリ】流れ込んでくると推測しているけど……とにかく、過去からそう言われているし、それが軍部の見解よ」
「と言うことは、突然死は……全て【ヴァリ】によるもの?」
釈然としない感覚に背中を押されて、ユウは聞き返した。
「ええ、そうよ。別に……おかしくはないでしょう?」
エルシスは特に疑問を感じていないようだった。
「そうですけど、人が死ぬ理由って老衰や事故、病気だと思いますが、病気って僕たちでは正体がわからないものも、あるんじゃないかと……」
「それはそう。でも突然死は【ヴァリ】によるものと、昔からそうなっているのよ。過去の医者たちが解き明かしたと思う」
「ですよね……」
ユウはいまいち腑に落ちないが、疑問の本質を掴むことができず、曖昧な返事を返しただけであった。
「あの……ユウさん。その手に巻いている黒いやつ、セイハイ?……って、名前だったり」
ずいぶんと遠慮気味にイネスは尋ねてきた。その名を知る一同の強烈な視線は、イネス目掛けて一直線に飛んで行き、えっ、とイネスは慌てふためく。
「ああ、そうだよ。【制配】って言うんだ」
引くに引けない表情のイネスは、申し訳なさそうに謝りから始めた。
「ごめんなさい……わたし、関係ないのに皆さんの話を聞いてしまって。あの……そこのお方」
失礼ながらと、イネスは深赤色の双眸の彼女に指先を向ける。
「この……国の……王女様だよね」
張りつめた声音を吐き出すイネスに、ルティアは笑顔を振り撒きながら頷いた。
「あぁ、やっぱり……なんかごめんなさぁい……そのね、本当は言っちゃいけないんだけど、わたしの村は、禁忌の山脈フォグリオンをずっと昔から見張っているの。そして腕に【制配】を巻く者が現れたら、山脈へ導くことが古くからの言い伝え……もし立ち寄ったら、何か役に立つ情報があるかもしれないです」
「じゃ、案内してよ。それが一番早いだろう。なっ!」
ユウがいたずらっぽくイネスの肩を叩くと、逆撫でされた猫のように、ぴくりと肩を震わせ、向けられたイネスの視線は引き気味であった。
「それだと助かる。中継地点があと一つ欲しかったのよ」
エルシスが綺麗に話に乗り、援軍が押し寄せてイネスは包囲されていく。
「そうしましょう。ね。私からもお願いします」
王女の命とは言わないが、相応の圧を乗せた笑顔は最後の出口さえも塞ぐ。
もはや逃げる術はないと悟ったのか、しょげた表情のイネスは、ぽつぽつと呟いた。
「はぁい……わかり、ました………」
「軍に協力した人には……協力金出が出るのよ……知ってた?」
最後の一押しとエルシスが光る玉を転がす。
「にゃぁ、なんと! 行く行くっ。案内します〜」
潤いに満ちた両眼を従えたイネスは、エルシスに飛びつきそうな勢いで、巧みな戦術を用いた大人の悪知恵にユウは苦笑いを作った。
「リーシュ。そうなると母さんが持っていた《陸》編も、【制配】の光で隠されたていた内容が現れる訳だよな」
「そう。《陸》編はもっと恐ろしいことが書いてある。世界が滅びる寸前まで追い込まれた経緯についての記述よ。だけど……細かい内容までは、今は思い出せない」
リーシュは本をめくり、スリード大陸の地図が描かれている頁を開いた。頁の下部にはスリード大陸、だが上部には何も描かれていない。リーシュは再び【制配】の光をその空白にあてると、毒風【ヴァリ】の発生源にして、人を拒絶する大陸の輪郭線がくっきりと姿を現しはじめた。ドリスタは、スリード大陸と同じ程度の大きさで、突然に丸く抉られた不自然な海岸線を所々に有していた。
「これがドリスタ。かつて最も栄えていた大陸の一部……そして過去の戦争の中心地。ここにも過去の技術が封じられている。今はその毒風【ヴァリ】で行くことができない……そうよね」
リーシュは最後の言葉に合わせて、小首を傾けた。
しばらく沈黙していたケレングがようやく重たそうに口を開いた。
「我々は早くフォグリオンを抑えないとまずいな。過去の技術がダストリアに渡ることは、なんとしても阻止しなければ。現段階では、フォグリオンの秘密はダストリアに漏れていまい……いや、キタザワから漏れているだろう。奴らも知っていると考えるべきだ」
遠巻きに様子を伺っていたエルリザが、見計らったように元気な手を差し伸べた。
「そろそろお茶にしましょう。まずは気を落ち着かせて、それからよ」
ユウもそう思った。深刻さを装ったところで何も解決しない。
「ねぇ、わたし、これでも画家の卵……だと、思うからさぁ、似顔絵を描いてあげるよっ! 記念と思ってさ! ねっ、いいでしょう?」
イネスの飛び跳ねるような口調に、重たい雰囲気はようやく吹き飛んでいった。
軍属たちは最初から及び腰で、絵の構図に収まったのはユウとシーレ、ルティア、リーシュの四人だった。
白い画用紙を取り出して鉛筆を構えるイネスは、さあ行くよっ、と可愛く舌なめずりをした。
ざらつきのある画用紙と鉛筆の出会いは、カリカリと乾いた摩擦音を奏でて、それはほんの十分程度、運命と意思によって束ねられた四人の物語の一節を描き出していく。
絵の中に描かれた白黒のシーレは、とても優しく微笑んでいた。
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