灯篭の幻夜市は過去から良霊を呼び戻す 

 ユウたちは再び夜の街へと足を運んだ。

 行き先は女性陣の間で揉めそうな気がしたが、ルティアの強い要望により、昨日と同じ【幻色の食卓】にすんなりと落ち着いた。瓜二つ騒動によって味を楽しめなかったという理由だ。

 今日はハイアードも強制連行に近い形で同行している。

 昨日は本を貪って、食事すら取らなかったらしいが、ケレングが不摂生だと連れ出して、ユウと並んで最後尾を足取り重く歩いていた。

 飲食店までの道筋は昨晩よりも混んでいた。盛り上がる幻夜市のざわめきが演奏に聞こえるのだろうか、人々は踊るように歩き、時には小走りに。街は多彩な生命力に溢れていた。

 しかしざわめきの渦中、ユウだけは違和感を感じ始めていた。

 露店商の立ち寄れと催促する呼び声は、幻夜市の二日目とあってか、より高らかに繰り返され、吸い寄せられる人々も千姿万歳。昨晩との相違は必然と頭では理解しているが何かが違う。靴の中で見つからない小石のような違和感がユウの意識にちらつく。傭兵の感とは毛色が違う、不可解な感覚にユウの肌はざわめいた。

 その変化を感じ取ったのか、先を歩くシーレは速度を緩めてユウの隣に並んだ。

「どうしたの……ユウ」

「自分でもよく分からないけど、何か起こりそうな気がするんだ。警戒した方がいい」

 シーレは考えを巡らすように口に手をあてて、きょろきょろと周囲を見渡し始めた。

「ユウ……それって、まさか……」

「この街に隣国の兵士が侵入している、多分……それだ」

 ユウは喧騒に息を潜めている複数の視線を全身で感じ取っていた。

 ユウはルティアから視線を外さずに、声だけをシーレに向けた。

「シーレ、レイピアを……」

「ええ、わかった……」

「それとルティアの左側に。今から行くお店の前、確か広場になっているよな。狙うなら、そこか。僕は前に出る」

「わかった。ユウ、気をつけて、きっと命のやり取りがある」

 ああ、とユウは答えて、ルティアの脇をすり抜けて前に出ようとする。ケレングは何ごとかとユウに顔を向けたが、その視線に答えることなく、周囲に意識を散布した。先ほどより鋭さを増した複数の視線が、ルティアに向けられていた。

 【幻色の食卓】がユウの視線に入り込んでいた。窓からは明かりが漏れ、道路を行き交う人々をぼんやりと照らしていた。ユウは思ったより逃げ場がないと感じた。広場自体の広さは十分だが、いかんせん人が多すぎる。乱戦になると市民を巻き込む可能性がある。

「ユウ、どうした」

 ユウの体から放出されている警戒心が届いたのか、ケレングが話しかけてきた。

「きますよ……団長。そうですよね、ユウさん」

 いつのまにかユウの背後にいたケイは、そう告げた。

「はい……すでに周囲を囲まれています。おそらく、人出が多い広場で仕掛けて来ます。その混乱に乗じてルティアを」

「ジュリスディス、最後尾を固めろ。ケイとエルシスはルティア様の右側に。四方を固める」

 普段は温和に響くケレングの声が、人を動かす重圧を帯びていた。鍛えられている軍の三人は静かに指示に従い、所定の場所に移動する。

「どうしたのですか……皆さん————」

「————ルティア」

 薄暗い声を出したルティアを落ち着かせるように、シーレはその名を呼び、口元に人差し指をまっすぐに立てた。

 

 先頭を歩くユウとケレングが広場に入る。鋭く加速していくユウの感覚は、敵兵との距離を正確に捕らえていた。感覚が冴えるに連れて、脳にぴりぴりとした刺激が走り、じんわりと熱を帯びていく。

 ユウは左脇の小太刀に右手をかけた。ルティアに集まる視線がその濃度を増して、敵兵との距離が一気に近づいた。

 街の天井から垂れる無数の灯籠は風に揺れ、警戒を知らせるように赤から橙、再び赤と変化を繰り返えしていた。

「来ます!」

 ユウの貫くような銀色の声が後方に向けて放たれた。ケレングは棍棒のような厚みがある大剣を一気に引き抜いた。突然の光景に周囲は燃え上がるようにざわついた。ジュリスディスも軽量化された大剣を引き抜き、その柄頭から鍔には半円の護拳が取り付けられていた。

「きゃぁぁ————」

 前方から誰かの悲鳴が聞こえ、敵兵と思われる黒い影が人海を掻き分けてユウに突進して来た。ユウは腰を落として姿勢を構え、左脇の小太刀を引き抜く。外套を着ているらしく、ぼわぼわと布同士がぶつかり合う音を立てながら近づく敵兵は、鎌形刀剣を抜いて襲いかかった。

「やっ————」

 気迫をにじませた声が敵兵から聞こえ、斜め下から振り上げるように円形の軌道がユウを襲う。ユウは予測していたかのように仰け反って綺麗に避けた。縦方向に細い疾風が、ユウの服と前髪を続けざまに揺らしていった。

 敵兵は振り上げた剣の勢いのままに、体を捻って腕を回転させ、遠心力を乗せた渾身の二閃を真下からもう一度、振り上げた。

 仰け反りの姿勢から見下すように敵を観察していたユウの眼は、敵兵の微細な筋肉の動きを読み取って、二度目の攻撃さえも予測していた。

 轟音を伴って肉を切り裂かんと巻き上がる剣戟の軌道を、ユウは素早く右に逸れてかわす。空を切った刀剣が上がりきった瞬間。無防備な敵兵の胸元が空いた。

 寒冬の朝、開けた扉から冷気が入り込むように、ユウは無音で忍び込んだ。

 敵兵はあからさまな狼狽の色を顔にまとい、動くことができない。

 ユウは小太刀の鋒を敵兵の左腿に押し込んだ。ビリっ、と布地が悲鳴をあげると、ズブブッ、と深く肉に食い込む感触がユウの手に伝わる。

「ぎゃぁぁぁ—————……」

 ユウは目を合わせずに、耳だけで敵兵の戦意が削がれたことを確認し、刀を引き抜いた。

 敵兵は傷口を手でおおいながら倒れ込み、のたうち回る。刃傷から滲み出る赤い液体は石畳に染み込まず、瞬く間にドロっとした水溜りを作っていった。

ユウは心の中で数を数える————まずは一つ。

 その目は、数々の戦場をくぐり抜けた老獪な兵士だけが獲得出来る、鷹の目のような鋭さを備えていた。

 脳に現れた刺激は、いつの間にか小噴火に似た突発的な頭痛へと変化しつつあった。

「シーレ! ルティアは!」

 頭痛を引き剥がすようにユウは振り返り、突如に居場所をさぐる声が響いた。

 ひゅんひゅんとたわむ音と残像を残し、銀色の細剣は敵兵を牽制していた。

 その背後で、ルティアが心配そうにシーレを見守っている。

 敵兵は三人。前方からシーレを取り囲むように、じりじりと距離を詰めて来ていた。ユウが周囲を見渡すと、ケレング、ジュリスディスは一人ずつと対峙し、ケイとエルシスは襲撃に備える姿勢で警戒している。

 シーレと正対する指揮官と思われる敵兵は両手に短剣を携え、機敏な動きで迫り来るレイピア剣先を見事に叩いていた。シーレは指揮官の左右の敵兵に注意を奪われ、決定的な一突きを出せずにいるようだった。

「きゃっ——」

 レイピアを大きく引いた右肘が、ルティアの肩に当たった。小さな叫び声と共に姿勢を崩したルティアに、シーレは思わず振り返ってしまった。

「シーレ!————」「いけ!」

 ユウの叫びと指揮官のダミ声が不自然に重なり合う。指揮官の命に従い、左右の敵兵は突進しながらシーレめがけて鎌形刀剣を振り下ろした。

 このままだとやられる。ユウの足は俊足動物のように、淀みなく前後に回転する。屈んだ姿勢のまま地を這い、敵兵とシーレの間に瞬時に移動したかと思うと、振り下ろされる二本の刀剣を、まさに怒涛のごとく下方から払い上げた。

「せっ——」

 ありったけの加重を乗せた小太刀は、重さではかわない二本の鎌形刀剣を弾き返した。一本は回転しながら宙を舞い、石畳に衝突して乾いた金属音を響かせた。もう一つはよろけて尻餅をついた敵兵の手の中に残った。

 シーレはその隙を逃さず、座ったまま後ずさりする敵兵の腹部にレイピアの剣尖を深く突き刺した。敵兵は口を開け、喉を重く鳴らすような呻き声を上げた。

 シーレがレイピアを引き抜くと同時に、肉の塊は背後に倒れていった。

「悪く思わないでね。私たちも命を懸けているの……」

 剣を落としたもう一人の敵兵は、素早く指揮官の元に後退り、指示を求めた。

「ポリアト指揮官、どうしますか」

「どうこうもない。王女を捕獲するだけだ」

 

 その時、敵兵の背後の飲食店【幻夜の食卓】の扉が勢いよく開き、昨晩もいた女の子が飛び出して来た。目の前の人物を敵兵とは知らない女の子は、隙間から見えるシーレたちの姿に嬉しそうな笑みを作って叫ぶ。

「昨日のお姉ちゃんたちだ! 今日も来てくれたのね!————」

「捕らえろ」

 指揮官の指示に敵兵は女の子の腕を掴み、引き寄せて背後から口を塞いだ。

「うぅ——う、う、う、んっ……ん!……」

 塞ぐ手をずらそうと顔を動かす女の子の目に、ポリアトは短剣に反射する灯篭の光を被せた。女の子は目を見開いて静かになった。

「その子を離しなさい」

 叫びながら前に出ようとするルティアを、シーレは手を硬い棒のようにして塞き止めた。


(ねえ……あの人、ソリューヴ様じゃない……似ているわよね……街に来ていたのかしら)


 騒乱を取り囲む群衆の中から、誰とでもなく声が聞こえてくる。

「もう一度、言います。その子を離しなさい」

「ああ、返してやるさ。別に市民に恨みはない。むしろ大事な交易相手だ。ただし……あんたと交換だ。それで私たちの任務は完了する」

 身体の節々を包む皮が薄く、角張った印象を与える長身の男、ポリアト。彼は器用にも、上に放り投げた短剣を空中で回転させ、再び柄を掴む挙動を繰り返していた。

「交換と行きましょう。王女様。国の未来を支える小さな子供だ。重たいです ぞ。いや……それとも、多数の為に少数の犠牲は止むを得ないと考えておいでかな。それも国家の為には間違いではない……ははっ」

 ルティアの瞳はポリアトを強く睨みつけた。

「何だ、その目は……気に入らんな。さ、返事を聞こうか。王女様」

「駄目です、ルティア様、自分を投げ出さないでください。この国を支えているのはあなたなのですよ」

 エルシスは幾分か柔らかい語尾の選びだが、強い声調で護身の優先を訴えた。

「それは違いますエルシスさん。国を支えるのは国民なのです。一人一人の小さな力が集まって束ねられ、次の時代に繋がる太い糸を紡いで行く。こうして千年もの間、この国は続いて来たのです。一人の国民の命を守れずに王女などと、ましてやソリューヴ・アルカーディナルという名前を、わたくしが名乗れるのでしょうか」

 シーレは小さく溜め息をついて、仕方なさそうに塞き止めていた手を降ろした。ルティアはユウとシーレ間を掻き分けて飛び出し、ポリアトの眼前に進み歩く。

「わたしと引き換えです。その子を離してください」

「ああ、それで構わない。十分だ……離してやる、よっ————」

 ポリアトは片手で服の襟元を掴み、女の子を宙に放り出した。見たくもない放物線が描かれて、女の子は頭から石畳に落ちていく。ぐしゃっ、とりんごが潰れるような音が鳴り、球体から滲み出る液体が地面を流れていった。

「あぁ……な……なんて、ひどいことを……」

 ルティアはその場に崩れ落ちた。

 さ迷う幽霊のように力なく右手を伸ばすが、女の子には到底及ばず、それでも這って進もうとする菫色の髪は敵兵によって背後に引っ張られ、ルティアはポリアトの足元に連れていかれた。ポリアトの硬い手が、項垂れるルティアの顎を持ち上げるように掴む。

「すまないね。王女様。これも仕事なんでね……敵は徹底的に潰すものだ。さあ、諦めて付いて来てくれ」

「あなたにも、家族がいるでしょうに……なんてことを。あの子にも親がいるのですよ」

「……ああ、そうさ、私にも男の子が一人な。だがな、俺たちも生き残らなきゃならない。ダストリアは侵略して奪うことで国民を養い、国を繁栄させてきた。それが我々の生き方だ。より豊かにより多く。求めるのは当然のことだ」

「それは違います。他の選択肢を探すべきです。あなたがご子息と祭りを訪れ、このお店で家族で食事を取って、あの女の子と遊ぶ未来もあったはずです……どうして……共に生きる未来を、その可能性を掴もうとしないのですか」

 ポリアトは手を離し、憤慨の色を露わにした語気で吐き捨てた。

「それは違う! この選択肢しか私は知らない。知らないと言うことは、それしか存在しないと同じだ! もし、違うというなら、お前が他の未来を見せてみろ!」

「……この世界は、温かいものです。共に生きる選択を見つける、その努力を失わないでください……わたしは……」

「知らんよ。最初から豊かで温かい場所で生まれたあんたには一生理解できない。さあ、行こうか。お前、王女を拘束しろ。おっと、動くなよ……細剣使いさん。王女の肌ぐらい傷つけても価値は変わらん」

 敵兵に腕を背後で掴まれ、無理やりに立たされたルティアは、最後にとばかりにシーレを見つめた。

「大丈夫。ルティア。私とユウが、あっという間に助けちゃうんだから」

「……はい。わたしもそう思っています。お待ちしています」

「あ……でもね、結構早いかも」

 何故か上方を一瞥したシーレ。

 ルティアは言葉通りに受け取ったのか、シーレに微笑み返した。

「え、だから、早いのよ、ルティア。四……三……二……」いきなり逆から数え出すシーレ。「お前ら何を———」ポリアトが叫ぶ。

「はい、一」


 刹那、黒い物体と化したユウが垂直に落ちてきた。

 地面への着地音は聞こえずに、砂埃が彼の両足の周りに輪になって、ぼわっと浮かぶ。背後の建物の二階から飛び降りたユウは、ルティアを捕らえる敵兵の真横に降り立った。   

 四つの歪んだ音が鳴り響く。

 ルティアを拘束する敵兵の腕がユウの手刀によって叩き落されて一音。

 

 身体を地面に沈ませたユウが、敵兵の胸元を蹴り上げて二音。


 宙に浮かんだ敵兵が落下し、背中を地面に打ち付けて三音。


 逆手に抜いた小太刀の柄頭を喉に落とし、砕いて四音。


 敵兵は、びくっと手足を動かし、水分が奪われてしぼむ草木のように全身を地面に垂らした。ポリアトは素早く後ろに跳ねて後退したが、両手の短剣は構えたままだ。

「シーレが……言っただろ、直ぐにだって……ね」

 ユウはルティアを落ち着かせように、ゆるりとした口調に自身の笑顔を重ねた。

「はい……ありがとうございます……あっ————」

 ルティアは倒れたままの女の子に駆け寄り、頭部を抱き寄せた。傷口を手のひらで止血したが、白い肌はあっという間に染め上げられていく。

「ごめんなさい……わたしのせいで………ご……うっ……」


ケレングは驚愕するほどに厚い大剣を、体の正中線に構えた。

「捕らえようと思ったが諦めるとするか。我らが女王を苦しめた罪を十分に味わえ」

 ケレングは上段から豪快に剣を振り下ろした。鋼鉄の刃が敵兵の頭上に隕石のごとく降り注ぐ。鎌形刀剣を水平に、さらに残る片手も添えて、敵兵は堪えようと試みた。だが金属同士が鈍く衝突する音は残酷な結末を先に告げる。

 敵兵の剣身は粉々に砕かれて、無残に周囲に飛び散った。

 ケレングの大剣は敵兵の右肩から胴体の中心まで切り裂いた。

「ここは街の中だ……体は二つにはせん」

 

 ジュリスディスは剣先を下げて斜め後ろに構え、前後に細かく足を移動させながら、相手との間合いを図っていた。明らかに旗色の悪さを感じ取っている敵兵は、気合いだけは一流な雄叫びを上げ、上段から力任せに鎌形刀剣を振り下ろし、だがジュリスディスは大剣で綺麗に払う。

 敵兵はよろけながら後退したが何とか踏ん張り、空を込めた顔つきで再び刀剣を振り下ろした。だが直後にジュリスディスの右真横からの切り払いによって剣は弾き飛ばされる。  

 主人を失った刀剣は地面に叩きつけられて、甲高い悲鳴を上げた。

「はい。終了。どうする? まだやるかい……て、ハイアードさん、怖がりすぎですよ」

「言ったでしょう。戦闘は嫌なのです……ふ————助かった」

 ジュリスディスの背後で、ぺしゃりと座り込んでいたハイードは立ち上がり、服についた埃を払った。


「まさか我が班が、ここまで潰されるとは……そこの大男は……ケレング・アスタークか」

 ポリアトは小さく呟いた。

 シーレは「ご名答よ。さあ、どうするの。もう撤退したらいかが?」と鋭い目尻でポリアトに迫った。

「……諫言とは、舐められたものだ……まぁ、いい。ここは引くとしよう。ただし、我々は何度でも繰り返す。生きる為に奪うことが我々の正義だ」

「あ、そう。さっさと撤退しなさいな。指揮官殿」

 シーレは口元に冷たい笑みを浮かべていた。

「……ひけっ!」

 ポリアトは群衆の中に瞬く間に紛れ、消え去っていく。ジュリスディスと相対していた敵兵も一目散に逃げ去った。

「ジュリスディス、駐屯地に走れ。検問所の閉鎖と軍を市内に展開し治安維持を最優先」

 ケレングが指示を出した瞬間、軍の駐屯地がある方向から爆音が聞こえた。

 周囲の建物の窓硝子は伝わる振動で波打ち、音を立てる。

「これは……急げ! だいぶダストリア軍に入られている」

「はいっ、団長」

 大剣を鞘に収めたジュリスディスは、爆音によって恐怖が急激に伝染し、混乱を極める群衆の中を縫うように走っていった。


「はっはっ————我々もただでは帰らんよ。ケレング・アスターク」

 ポリアトは不気味な高笑いと共に、ケレングの前方に再び姿を現した。ケレングは大剣を正眼に構える。

「覚悟しろ。我々は本隊と共にどこまでも追いかけるぞ。どちらかが倒れるまで、終わりはないっ!————」

 ポリアトは両腕を弓のようにしならせながら後ろに引き、前に戻す反動と共に短剣を交互に放つ。急所を狙う一本の鋭風を、ケレングは巧みな剣さばきで弾き飛ばすと、遅れて襲いかかる残りの一本を、今度は叩き落とした。

「さすがだな————しかし、足止めはさせてもらう」

 低空な追撃の一閃が放たれた。剣で払うまでもなく、ケレングは少しだけ右に外れた。

「ふん、どこを狙って……しまったっ————ルティア様!」

 脇をすり抜けた短剣は、しゃがみ込んでいるルティアの足元を狙う軌道を描く。ケレングの声に反応したルティアは、女の子を包むように庇い、背を向けた————。

「……あれ……」

 ルティアの声がぽつんと出た。

 刺さるはずの短剣は迷子になり、代わりに灯篭の光を遮る人影がルティアを覆う。逆光で顔は見えないが、照らされた頭の輪郭は菫色を教えてくれた。

 投げられた短剣を片手に掴んでいる彼女は、ゆっくりと顔を上げ、天を眺めた。 

 本来の役割を取り戻した幻夜の明かりは、現実の世界に過去の良霊を呼び覚ます。

「……わたしが……いる」

 そこにはもう一人のルティアがいた。

「ありえん……飛ぶ短剣を素手で掴むなどと……それも握りの部分を正確に」

 彼女は短剣の柄頭に光を当てて、彫られた文様を見ていた。

「なかなの業物ね、勿体ないから返して上げる……どうぞっ——」

 声質はルティアと正確に同じだが、跳ねる語尾が軽快に違いを主張していた。

 投げられた短剣は閃光のごとく、ポリアトの足元に突き刺さる。

 ポリアトは短剣を乱暴に引き抜き、無言のまま群衆の中へ走り去っていった。

 彼女は呆然と沈黙するルティアに近づき、そっと女の子の頭皮の傷を確認した。

「出血が多いけど傷は浅い。しばらく入院は必要だけど大丈夫よ。これで止血できる」

 彼女は血液を瞬く間に吸収する綿のような素材を傷口に当てて、その上にルティアの手を重ねた。

「ほ、本当ですか……よかっ……よかった……うっ……」

「あらあら……あら?」

 彼女が呑気な声をだした途端、天は機嫌を損ね始める。

 ————ぱ……ら、ぱ……ら、ぱら……————

闇夜の雨は油を染み込ませた灯篭の包み紙を打ち鳴らし始めた。

 張りを持った紙は太鼓のように振動し、吊るされた無数の灯篭はまとまらない音色を一斉に撒き散らした。

 ————ぱら、ぱら、ぱらぱら、バラバラ、バラバラバラバラ————————

 天からの水滴は何かを隠すようにルティアの頬を流れ落ちた。

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