姉妹に戻る瞬間は

 ユウがようやく城壁内に戻ると、ソリューヴの姿があった。

「おはよう。ソリューヴ。よく寝れた?」

「ユウ。おはよう。寝れたかと言われると……はは……少しだけ……かな」

 ソリューヴは辿々しく言葉を濁した。

 ユウは彼女の顔を覗き込む。肌の白さは変わらずだが、そう言われると本来のくりっとした大きな瞳は少しだけ小さく見えた。

「そりゃ、無理もないわよね。挑む相手が大きすぎる。考えても無駄だから気楽に行こうよ」

 いつもの調子が戻ったシーレは軽やかだった。

「それよりもユウ、ソリューヴを見て何か思わない?」

「え……あ、何って……」

 シーレからの意外な質問に何も思いつかず、ユウはとりえずソリューヴを上から下まで、くまなく目で調べてみた。黒い服はよく見ると軍服のような作りで……あれ、ソリューヴがおかしい。

 ソリューヴは得もいえぬ表情に変わり、胸を隠すように両手で自分を抱きしめた。王女の威厳は剥がされて、無残に吹き飛んでいく。

「ユウ……ちょっと……恥ずかしい……です……」

 ソリューヴは、ぱちくりと瞬きをして、ユウを困惑の表情で押し返した。

「馬鹿。あなた王女を凝視してどうするのよ。国民にバレたら二度とアルティスティアの街を歩けなくなるわよ……」

 シーレは呆れ顔で溜め息をつき、指先でユウをこついてたしなめた。

 それは困ると顔を横に振ったユウはもう一度考えみたが、何を求められているのか皆目検討がつかず、当然のように眉をひそめ顔を曇らせた。

 シーレは二度目の深い溜め息をつき、ソリューヴの黒い服を指差した。

「服装よ。服装。乙女が軍服を着る覚悟を和らげる言葉はないの? はい、もう一度!」

「シーレ……もういいよ……恥ずかしいから……」

 ソリューヴはシーレに懇願するが、シーレは頑として緩めない。

 ユウは女性への褒め言葉を回想するが、この稀有な場面にふさわしい賛美など思いつくはずもない。必要な言葉は霞のごとく実体を現さず、挙句の果てにユウは旅への期待感を語るという、荒技を打ち込んだ。

「あ、いや、その……旅は過酷だけど……ソリューヴと旅ができて、とても幸せだよ」

 完全にお門違いな発言だが、温室栽培のソリューヴの顔にシーレの赤髪を超える圧倒的な赤をもたらした。

 ソリューヴは内股で両膝を擦りながら、風呂上がりを見られたぐらいの勢いで体をひねって隠し、言葉か、あるいは呻き声か、よく分からない駄目音を奏でた。瞳はついに薄く涙を滲ませていた。

「あ、いや……そ‥‥あうっ‥‥はい、とても、感謝しています」

 最後にはなぜかユウに感謝するというソリューヴの神のごとき対応に、シーレの両肩は完全に崩落しそうなるがレイピアの杖がかろうじて支えていた。

 シーレはついに、三度目の溜め息をついた。

「ユウ‥‥ある意味、あなた凄いわ。ソリューヴ、あうっ、て言ってたわよ」


「緊張感ないですね。あの三人、はは」

 宿舎から戻ってきたジュリスディスは懐かしそうに目を細め、三人を遠目に眺めていた。

「我々がそれを背負うべきだ。ソユーヴ様は王女である以上、常に好奇の目に晒され続け、神官としても厳正な振る舞いが求められる。過酷な旅とはいえ、普通の十七歳の少女に束の間だけでもなれることは、ささやかな幸せだ。ユウとシーレには、その点でも本当に心から感謝しなければならないな」

 ケレングは父親のように今にも涙ぐみそうな目尻でソリューヴを見つめていた。

「そうですよね……私にも、故郷にはあの様な友達が。しかし団長、本当に父親代わりのようですね。その発言は」

 ジュリスディスは頬を和らげた。

「ソリューヴ様が小さい頃はよく遊んだものだ……子がいない俺からすると、本当の子供の様に思っている。恥ずかしいから内緒だ」

 ケレングは左胸のポケットを上からそっと撫でた。


「団長、準備が整いました」

 エルシスの報告が号令となり、各自がしっかりとした足取りで馬車へと向かう。ジュリスディスとケレングが御者台に座り、エルシス、シーレ、ハイアードが馬車に乗り込んだ。

 ユウとソリューヴが最後に乗り込とした時、誰も降りてこないはずの西側の階段から徐々に大きくなる足音が聞こえてきた。

 気付いたソリューヴは馬車に乗らずに、その場から階段をじっと見つめている。やがて暗がりの中から赤いガウンをはおったエスタブリッシュ女王が現れ、ソリューヴの姿を見つけるやいなや、駆け寄って抱き締めた。

「女王様……どうして……」

 ソリューヴはただ小さく叫ぶ。

「ソリューヴ、いえ、私の妹、ルティア。必ず戻ってきて。女王ではなく姉としてあなたを待っている……まだ私たち、一緒にすること……沢山あるじゃない」

 旅立つ妹の瞳に涙がじんわりと溜まり、ついには溢れ出して姉の肩口を濡らす。

 女王の目からも滂沱の涙が流れ落ちていった。

「……お姉ちゃん、必ず戻ります。お姉ちゃんと呼ぶの、いつぶりかわかんないよ……」

 今度はソリューヴから姉をぎゅっと抱き締めた。

 御者台に座るケレングは、堪えるように肩を小さく震わせながら静かに出発を告げた。

「ソリューヴ様、そろそろ夜明けです。参りましょう……」

 ソリューヴはゆっくりと女王を引き離し、《陽愛》の二つ名にふさわしい真夏の太陽のような笑顔で女王を照らした。

「行って参ります。女王様。必ず未来を持ち帰ります」

 ソリューヴは一礼をすると、さっと馬車に乗り込み、シーレの隣に座って震える手を膝の上に置いた。シーレは何も言わずにそっと手を重ね、その上に水滴がぽたぽたと落ちる。  

 ユウが扉を閉じて、女王の顔はついに見えなくなった。

 

 ケレングは開扉の合図を警備兵に送った。鋼鉄の扉と溝が擦れる重低音は、沈黙を破るように辺りに響き渡っていく。やがて扉は完全に開き、虫の息さえ聞こえない静けさが辺りを支配した。扉から覗く北の空はまだ太陽の恩恵を受けていない。

「ソリューヴ様」

 ケレングが出発の合図を促すかのように、その名を呼んだ。

「……はい、願いします」

「ジュリスディス。出発」

 御者台の洋燈に火を入れたジュリスディスは、白馬に合図を送る。二頭は最初の一歩を重そうに踏み出したが、動き出すと慣性によって車輪はなめらかに回り、馬車はすっと扉を抜け出した。

 ジュリスディスは手綱を右にぐっと引いて旋回し、アニアース城の正面に進路を取る。

 突如、ソリューヴは背後の窓を開けて身を乗り出し、飛び出した城壁の扉へ顔を向けた。風によって菫色の髪が宙に舞い上がり、後ろから彼女の顔に絡みつく。うねる髪の隙間から覗く双眸は大きく見開いた。

 視線の先には、馬車を追いかけて外へ飛び出した女王の姿があった。

 ソリューヴは咆哮した。

「お姉ちゃん!————」

 しかし声は無残に飛び散って届かず、いまだ明け切らない薄闇は、肩を落としたように見える女王を飲み込んでいった。

 

 馬車は道路を南下し、ガタガタと揺れる窓越しに夜明けの気配が漂い始める。

 南の検問所が見えてくると、ケレングが洋燈を消して開門の合図を送った。

 検問所の警備兵は、了解の旨を示すように右手を真上に上げた。手筈通りに門は開かれ、制動装置で速度を落としながらも、止まることなく馬車は門を一気に駆け抜けた。


 東の空が明るくなってきた。

 水平線に漂う赤色に鮮やかな橙が積み重なり、その上に青が導かれた。

 その情景を見つめていたソリューヴに、シーレは弾むような声を届けた。

「あの朝焼け、今度は城から見たい! 帰ったらまた招いてよ。ねっ!」

 シーレの未来の約束に、ソリューヴは涙目の笑顔で大きく頷いた。

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