第三章 過去からの来訪者

隣国の悪意の胎動

 いまだ太陽は、地平線の遥か下で眠っている。

 

 城壁内では僅かな洋燈の明かりを頼りに、警備兵たちが馬車に荷物を積み込んでいた。旅の目的を知らされていないのにも関わらず、彼らの口は一様に重たい。

 物品表を見ながら指示を出しているエルシスも、的確な采配の裏側に見えない不安を押し込んでいるようだった。

 

 調査団が使用する焦げ茶色の馬車は、二頭の馬によって引かれる大型のものだ。馬車の側面に並ぶ窓から中を覗くと、進行方向に対して平行に向かい合う席が配置され、肉厚な皮で保護されていた。体を固定させる肘当ても付いている。

「しかし団長、識別板を外しても、どう見ても軍用じゃないですか。むしろ怪しいですよ」

 ジュリスディスは昨日から団長と呼び変えていた。

「仕方ないだろう。民間を装わなければならないが、とはいえ王女が乗る。安全性を十分に考慮しなければならない。戦の可能性もある。鉄板で全体を覆わない訳にもいかんだろう」

 ジュリスディスは大げさに眉をひそめた。

「やはり、隣国ダストリアの軍に動きがあるのですか。軍はその噂で賑わっています」

「後ほど全員に伝えるが、アティックに先行しているケイからも連絡があった。アティックには既に、複数のダストリア兵が入り込んでいるようだ。もっともこの大陸の国境には壁がある訳ではないからな。交易が盛んな場所では、ある程度は仕方がない」

 ケレングは少し間を置き、遠目に馬車を見つめながら話を続けた。

「隣国ダストリアはスリード大陸で最大の軍事国家だ。今回のアルティスティアへの侵入は、動きを見ると局所的な作戦行動だろう……しかし、なぜ我々と歩調を合わせるように……いずれにせよ、我々の動きも補足される可能性が高い。相当に警戒をする必要があるぞ」

「はい。心してかかります。これほど複雑で謎めいた旅は何が起こるかわかりません」

 ケレングは城壁の内部に聳える黒い支柱を下から上へ、ゆっくりと眺めた。

「謎か……このアニアース城も謎が多い。中心の黒い支柱は建国当時からあるが、地下に空洞があるという話もある。初代女王モアレアルがあの本を編集したと知ったあとだと、余計にこの城が神秘的に見える」

 ジュリスディスも同様に黒い支柱を見つめた。

「しばらくお別れですね。この城とも」

「そうだな。しかし我々よりソリューヴ様の思いは、いかほどか……いや、王女様か……」

 ケレングは何かを考え始めたようで、下を向いて硬く腕組みをした。

 

 階段を降りてくる足音が聞こえ、ユウが姿を現した。

「おはようございます。ケレングさん、ジュリスディスさん……あれ、お二人とも服の色が違いますね」

 ケレングは頭をかきながら、ジュリスディスの服装を眺めた。

「しかしこの色は慣れんな。服の仕様は軍と同じだから使い勝手は変わらんが、枯れ草色の服がしっくりくる」

「あの色では軍属だとすぐにばれますからね。軍の三人は黒色の服です。民間の調査団という名目で旅をしますから、こうするしかありません」

 ジュリスディスはまんざらでも無い様子で、胸のポケットを触って見せた。

「おっと、忘れるところだった」

 ケレングは城壁内の軍の宿舎に慌てて戻っていった。

「ユウ、シーレはどうした?」

「まだ来ていませんか? 僕が呼んできます」


 ユウは階段を駆け上がった。

 シーレの部屋の前、少しだけ開いた扉の隙間から光の筋が漏れている。中からカサカサと布地が擦れるような音が聞こえてきた。

 ユウは扉の取っ手に触れようとしたが、危ないと踏みとどまって代わりに拳を作り、軽く二度、扉を叩く。

「シーレ、いるかい? そろそろ下に降りないか」

 シーレからの反応はなかった。

 はばかったが、取っ手を握り、少しだけ扉を引いた。

「シーレ……いるのか? 」

 覗くように顔を半分だけ、片目で中を見る。

 寝床の端に腰をかけて、膝の上で民族調の刺繍が入った服を畳むシーレの姿が目に映る。

 彼女は既に服を着替え、荷物も綺麗にまとめられていた。

 胸をなでおろしたユウは扉を開けて中に入り、後ろ手に閉めた。

「シーレ。おはよう。扉を叩いたけど返事がなくて。そろそろ下に降りよう」

 シーレはゆっくりとユウに顔を向けた。壁に取り付けられた洋燈の明かりが、はっきりとした彼女の陰影を更に深め、それはどこか寂しそうに見える。

「……おはよう。ユウ。ごめん。気が付かなかったわ」

 シーレは綺麗に畳み終えた服を、寝床の枕元にそっとおいた。

 弱々しい声音につられて、ユウの声も小声になる。

「その服は? 持っていかないのかい……」

「荷物にもなるし、一つ、置いて行こうかなって。本当は自分の家を象徴する刺繍が入っているから、持って行きたいんだけどね……」

 シーレは懐かしそうな表情をしながら、刺繍を指でなぞってみせた。

「私がアルティスティアに来る時に、お母さんが刺繍を施してくれたの。ディスクリーン家が百年前の国境を巡る戦いの功績として、当時の女王様から授与された草冠の紋章。私の故郷でよく取れる薬草が文様となっているの」

「ああ……この前に話してくれたよね。それなら尚更もって行った方がいいんじゃないか」

「……でも今回の旅は、混沌の中に光を掴むようなもの。どんなことが起こるか検討もつかない。だから一つここに置いていくことで、また帰ってこられるかな、と思って。服が引き寄せるみたいな。私らしくもないか……」

 湿った瞳と紅がない薄色の唇がユウに迫り、脳裏に言うべき言葉が自然に浮かんできた。

「必ずここに戻ろう。またその服を着て、アルティスティアの街に行けるように。その時までここで留守番だ」

「……うん。そうしようかな。あ、口紅しないと……」

 シーレは瞳を隠すように顔を背けながら、寝床から立ち上がった。

 テーブルに置かれた化粧道具に手を伸ばし、壁に取り付けられた鏡の前に立つ。ユウの視線は魅入られて付き従った。

 細い筆に赤濃い色を纏わせ、線を引くように二度三度、唇に伸ばすと、ぼんやりと洋燈に照らされたシーレの整った横顔は、完美への階段を駆け上がる。

 ユウは完全に奪われて、シーレに心が吸い込まれていく。

「……よし。行こうかユウ」

「う、うん」

 ユウは見入っていたことを隠しきれずに吃ってしまう。

 シーレは何も言わず、化粧道具を鞄にしまい込んで、部屋の角に立てかけたレイピアに手にかけた。

「先にいくわよ、ユウ」

 シーレは勢いよく部屋の扉を開けて外へと飛び出した。

 部屋を出て扉を閉めようとした時、寝床の上に置かれたシーレの服が目に入った。ユウは部屋に戻り、崩れないようにそっと服を持ち、テーブルの上に置く。

「こっちの方がいいよな。ちゃんと給仕さんが預かってくれそうだ」

 綾織りの生地で仕立てられたシーレの服は、鮮やかな赤色の印象からは程遠い冷たい感覚をユウの手に残した。


「来たか。シーレ」

 ようやく階段から現れたシーレに、ケレングが手を挙げた。

「おはようございます。ケレングさん。もう準備は終わり?」

 シーレは鞄を足元に置き、レイピアを床に立てて柄頭に両手を置いた。

「エルシスが指示を出している。もう少しだろう」

「わかりました。ソリューヴはまだ来てないのですね」

 シーレは振り返り、自身が降りて来た階段の方に目を向ける。

「そろそろだろう。ちなみに王族は、我々とは反対の階段から降りてくる」

 ケレングが西側の階段を指し示すと、合わせたようにソリューヴが現れた。

ソリューヴは軍服に似た黒い上下の組み合わせに斜めがけの鞄という出で立ち。だが、さり気ない華やかさが細部に宿り、生地は絶妙な光沢を放って軍色を薄めていた。

「ソリューヴ、おはよう……って、その服いいじゃない! 似合うわ。私は好きよ」

 シーレは、きゅっと跳ねて、小走りにソリューヴに駆け寄った。

「そう? ちょっと着慣れないんだけど……そうかな……ありがとう」

 ソリューヴは仄かに頬を赤くしてシーレに笑いかけた。

 シーレは、うんうんと首を縦に振る。

「黒が似合うのは良い女の証拠よ。それに軍服を着た王女なんて舞台劇みたい」

「ありがとうシーレ。あれ……どうしました? ケレング様……」

 シーレの後方で、ケレングが二日連続で頭を抱えて項垂れていた。

「地味な服でとお願いしていましたが、なぜ……その軍服じみた物を」

「エルシスさんにお願いしたら、用意してくれたのです。わたくしもこの国を代表して参加する皆さんと同じですから。しかも……なんと! 襟にレース刺繍も付けてくれました」

 ソリューヴは嬉しそうに左右の襟先を指でぴんと摘み、広げて見せた。

「エルシス……そんな話、聞いてないぞ」

 ケレングはエルシスを睨んだが、彼女はにべもない目つきで軽くあしらう。

 いつの時代も常に女性は先陣を切って、頼りない平坦な体躯を付き従わせるということだ。

「あいつめ……王女が軍服とは。しかもレース刺繍まで」

 ソリューヴは頬をぷっくりと膨らます。

「ケレング様。女性はどんな時でも服装に気を使うものです。別にここに刺繍が付いていても問題がありません。前から思っていましたが、女性兵士とておしゃれをすべきです」

 ソリューヴの見事な文句に、歴戦の老兵はぐったりと肩を落とした。

「団長……相手が上手ですよ。この戦は負けです……」

 ジュリスディスの敗戦の口上は、薄暗い城壁内に霧散していった。

「この時間から賑やかですな。おはようございます。皆さん」

 いつの間にか灰色のローブを肩にかけたハイアードが立っていた。 

 書物が入っていると思われる長方形の大きな鞄が二つ、さすがに歴史学者らしい様相である。背中には旅専用の大きな鞄を背負い、昨晩の言葉通り、旅慣れを感じさせた。

「おはようございます。ハイアードさん。その荷物、積み込みましょう」

 ジュリスディスが警備兵に指示を出し、ハイアードの鞄は馬車に運ばれていった。


 しばらくするとケレングがジュリスディスの肩に手をかけた。

「……ちょっといいか」

 二人だけで少し離れた場所に移動し、今一度、周囲に人がいないことを確認してから、ケレングは小声で話し始めた。

「ジュリスディス、軍内に絶対的に信用できる人物はいるか?」

「偵察部にオレジート・シラザという人物がいます。僕の同期で彼は信頼できます」

「そうか、よく聞け。軍からダストリアに情報が漏れている可能性がある」

 ジュリスディスはすぐに厳しい表情に変貌した。

「なぜダストリアの兵は我々と時を同じくして動き、アティックに侵入したのか。偶然にしてはあまりに出来過ぎている。むしろ我々を待ち構えているようにすら見える。我々と遭遇した時、彼らが一番に望むものは何か? そこに答えがある」

 ケレングはいったん間を置いて、危機感を感じさせる険しい顔つきで迫る。

「彼らの目的はソリューヴ様の略奪だ。スリード大陸の覇権を狙っているダストリアは、彼女手に入れることでエスタブリッシュ女王様と直接交渉ができる。女王様の性格とアルティスティ 国民のソリューヴ様への絶大な支持を考えると、この国はダストリアの属国になることを了承する可能性すらある。ソリューヴ様の命だけは守ろうと……」

 ケレングは横目でソリューヴを捉え、しばらくして再びジュリスディスに視線を戻す。その両眼は軍属の証のように鋭さを帯びていた。

「通常、少人数で王女が旅をすることなど、到底有り得ない。ダストリアにするとこれは千載一遇の機会だ。しかしだ、我々は王女様が同行することは公表していない。このことを知っているのは軍の内部、それもあの候補者最終選考会議に出席していた人物だけだ」

「団長。それ……おそらく当たりですね」。

「ああ、そのシラザに軍の内偵を頼みたい。ことは急を要する。それとハリグレクは信頼できる。彼にも頼るといいと伝えてくれ」

「わかりました。シラザはちょうど今日の午後に、城壁内の宿舎に来る予定があるはずです。彼にしか分からない方法で手紙を残します」

 ジュリスディスは即座に軍の宿舎に駆けて行った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る