導かれる円環

 ユウたちがやんやと騒いでいた頃、昼間でも薄暗い城壁の内側では、真に白度が高いワンピースを着た華奢な女性が、瞳力の限りを尽くした警戒を周囲に撒き散らしていた。

 彼女は外に続く扉に近づこうとしている。

 つま先から地面にそろりと体重をかけて……前に進みて。

 探索に注力している深赤色の双眸は、遠くに警備兵らしき人影を捕らえた。

 彼女は積み上げられた荷物の背に、痩身を素早く隠す。

 ワンピースの裾もひらりと後追って物影に潜んだ。

 聞き耳を立てると、警戒対象に動きは見られない。

 どうやら見つかっていないようだ。それは神の御慈悲か偶然の産物か。

「あと少しのはず。お願い————早く開いて、その扉……」

 懇願するような姿勢の彼女。稀代の白磁、その純度が美しい両手を胸の前で重ねて、モノリス神に捧げるのは純然な祈り……ではなくて邪な願望。

「さすがに、このお願いは、よくないわね……」

 奈落に落ちるまいと思い留まり、舌をちょろっと見せて我反省と苦い顔をする。

 彼女は荷物の影から搬出入用の扉に視線を送った。いまだ扉は開かれないが、今日は水曜日。定期的な宮殿への物品搬入がある予定だ。身の回りの世話をする給仕に、遠回りに尋ね聞いて何とか特定したこの機会。逃すわけにはいかないのだ。宮殿内の生活に飽き飽きしていた十七歳の第三王女ソリューヴは、現在脱走計画中である。

「今日こそは、あのお店でお茶をしてやるっ————負けないわよ!」

 決意と言うにはおこがましい、小さな私欲を吐き出した。

 扉の辺りに人が集まっていく気配に、ソリューヴは両足に力を入れて身構える。彼女の期待に応えるように、警備兵が大きな声で「開扉!」と叫んだ。

 開いた! と心で叫び、この期を逃すまいとソリューヴは変装用の帽子をかぶる。鍔が大きく色も白。結構に目立つ帽子だが、菫色の髪が人目に付くよりはいいと思った。

 栗毛色の馬たちが蹄鉄を踏み鳴らし入城してくる。

 慌ただしい混雑に乗じて逃避する作戦を実行すべく、ソリューヴは荷馬車の脇を悠然と扉へ向かった。この日のために用意した、踵がない平坦な靴は、彼女の脱走を手助けするかのように足音を綺麗に吸収していく。まだ彼女の存在に気づく者はいないようだ。

「おい、そこの帽子の人! どこの者だ」

 警戒色が濃い声がソリューヴの背中に突き刺さった。ソリューヴは、ぴくんと肩を震わせ、刹那に足を止める。だがこの勝負、用意周到な彼女に天秤は大きく傾いていた。

 ええぃ、強行突破。

 ソリューヴは唇だけでそう呟いて、後ろから走り寄る警備兵に一瞥も送らず、兎が飛び跳ねるように軽やかに城外へと駆け抜けていった。

怒号のような唸り声の束が背中に押し寄せる。ソリューヴは、ごめんっ、と内心だけで謝りながら、一目散に北の港へ繋がる道路を駆け降りていった。


 本日のお目当てはスリード大陸中から集められた茶葉が楽しめる有名なお店【黒さじ】だ。今はお昼時、お店は混在していると思われるが、脱出の機会が今日しかないソリューヴはひたら道路を突き進む。往来する人波をぴょんぴょんと跳ねるように避けて、風に飛びそうな帽子を右手で抑えながら。

 

 ようやく左前方に、古びた外見だが丁寧に年季を過ごした石造りの建物が見えてきた。風格さえ感じる茶色の扉の前には、入店を控える人の列が見える。

 んんっ、もしや入れないの? とそわつく心を撫でながら、最後尾から店内を覗き見た。少し傾けた顔に従いて菫色の髪がさらさらと揺れ動く。

 店内は、ほぼ満席だった。

 唯一、水兵服を着た船乗りの三人組が、四人用のテーブルに陣取っていたが、隆起する逞しい太腕を見ながらお茶を飲む勇気はなかった。

 仕方なく、道路にせり出したテラス席を見渡すと、ここにも空席がない……あ、あそこ。

 ようやく見つけた空席は、同じ年ぐらいの男女二人組との相席だった。

 女性は触れたくなる艶を帯びた赤髪の双尾を頭から綺麗に垂れ下げている。男性は打ち寄せる小波のような黒髪を南風に揺らしながら、温和な表情で隣の女性に話しかけていた。

 あの二人となら、相席でもいいかな、と思いながら、前に並ぶ人たちの数を目測で見積もると十人ぐらい。これは時間がかかりそう……よし、決めた。

「失礼します」

 彼らのテーブルに近づいて帽子をさっと取り一礼、話し易そうな女性の方に声をかけた。

 彼女は微笑みを向けていた男性から静かに目線を流して、ソリューヴを見つめた。

 ソリューヴは風に乱れた前髪を手櫛で整えながら「もしよければ、相席はいいでしょうか? 他に席が空いてなくて……でも、今日はどうしても、ここのお茶が飲みたくて」

 物怖じしない性格だと自分でも思うけど、初対面の相手にいきなりの相席願いは流石に身体の芯がそわそわする。瞳の奥に必死に隠した不安を見透かされたのか、赤髪の彼女は目尻を柔らかくしてソリューヴに微笑んだ。

 その目はどこか深い慈愛を含んでいるようである。

「ええ、もちろんいいわよ。どうぞ」

 彼女は隣の席に置いてあった鞄をさっとどかして、ソリューヴの席を作った。

「ほんとですか! 嬉しいです! あ……ありがとうございます」

 ようやく訪れたお茶との逢瀬に黄色い声を上げたソリューヴは、両手を胸の前で重ねた。

「私たちは構わないよ。ねえ、ユウ……」

 彼女の問いかけにユウと呼ばれた男性は優しげな目元を装って頷いた。二人の人柄なのか温柔な空気があたりを漂っている。ソリューヴの薄桜色の唇は誘われて、嬉々とした言葉を吹き出した。

「ここのお茶は、薬草を混ぜて作るとても珍しいもので……一度来てみたかったんです。ようやく……こちらに来られました」

 自然とソリューヴらしい、太陽が微笑んでいるような満面の笑みが溢れ出た。

「あ、いや、そうなんだ。シーレは……薬草とか詳しいよ。うん……」

 なぜか頬を赤くして言葉が辿々しいユウを、あれ? と思いながら眺めていると、その様子をどこか楽しそうに見やる絢爛な赤髪の彼女は、横から肘で小突くような、にやっとした表情を浮かべた。

「こんにちは。私はシーレ・ディスクリーン。こっちの慌てふためく……え、違うの? また、そんなごまかして……まあ、いいじゃないの、あ、話が逸れてごめん。彼はユウ・スリーク。あなたのあまりに愛おしい笑顔に照らされちゃって、この人、体温が二、三度上がったのよ。だから口ごもって」

 慈に満ちた眼差しと裏腹で、なんとも楽しそうなシーレの唇。ソリューヴは相反する彼女の魅力にまいって、赤い双眸は大きく見開いていく。

 どうやら照れさせてしまったユウも素直な成分が多い人柄のようで、若い閃光の直感が、信頼できる二人だとソリューヴに説いてくる。

「はは……」

 ソリューヴは場をかき混ぜるような微苦笑をして、ワンピースの裾をまとめて持ち上げ、椅子に座った。

「お茶が大好きなのですが、家で飲むお茶はいつも贈、いや……同じ種類のものが多くて……ここはアルティスティアでも有名なお店なんです。あ、申し遅れました。わしは……ルティアといいます」

 壮大に滑りそうになるが、どうにか踏み留まる。素性を隠すために幼名を名乗り、ルティアは丁寧にお辞儀をした。

「はじめまして。よろしくねっ。私もお茶が大好きだから気が合いそうだね! 見てルティアさん、ここのお茶はね、スリード大陸中から集められた珍しいものばかり。どれにする————」

 春風に誘われた早熟の芽吹きのように、勢いよくお茶の講義を始めたシーレに、ルティアは嬉しそうに耳を傾けた。


 談義に傾注し過ぎて忘れていたユウに視線を向けると、道路を往来する人々を何気なく眺めていた。お茶のカップに伸びていく彼の手首に巻かれた黒い帯がルティアの瞳に写る。

 ルティアは瞠目した。

 あれは……本に描かれている【制配】……どうして……。

 背負う重圧は泡のように膨れ上がり、手足がこわばって、顔は無意識に下を向く。

「ルティアは、この街に住んでいるの?」

 シーレはお茶を口に運び、さらりと尋ねてきた。

「あ、はい。でも忙しくてあまり外出ができなくて……今日も、宮殿———あ、きゅ、休暇と称して、屋敷からこっそり抜けだしてきたんです……」

 ルティアの口から禁句に近い一言が滑り落ちた。

「……それは、大変ね。まあ、仕方がない気もするけどね………」

 真意を暗に含んだシーレの反応に、何も言えずに黙っていると「ところで私達は、まだアルティスティアに来たばかりだけど、今日、防衛師団が募集しているフォグリオン山脈付近の生態調査団に応募して来たところなの」

 明らかに感づかせるような内容。どうやら彼女はルティアのことを知っているようである。その時、縁という言葉がルティアの意識に浮かび上がる。

 相席を求め出たのはルティアからだが、その出会いは偶然。ところが二人は自分が指揮を取ることになっている、表向きの生態調査団に応募したという。これはモノリス神の導きそのもの。そしてユウが持つ【制配】は、ルティアたちの目的にきっと大きな関わりがある。

「新聞でも告知がされていましたね……そうですか、あれに。選ばれるといいですね」

「おい、いたか! まだこの辺にいるはずだ。早く探せ!——————」

 道路が随分と騒がしくなりつつあった。ルティアは最後の一口を楽しんで、お茶代をそっとテーブルに置いた。

「どうやら、そろそろ時間のようです。これ以上、騒ぎが大きくなっては困ります。シーレさん、ユウさん、ありがとうございました。とても楽しい時間を過ごせました。そして、きっとまた会えます……必ず……」

 ルティアはさっと席から立ち上がり、深く頭を下げた。

 顔を上げた彼女の表情は王女のそれとなり、騒がしい道路へと無音の足さばきで歩み出た。

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