第一章 繋がれる
【制配】を継承する一族
西の地平線に太陽がもたれかかり、輪郭がぼやけ始めた。
首都アルティスティアの北に位置する交易拠点セイン港は、荷運びや観光で往来する人々で溢れ、昼間と変わらずの活気を帯びていた。停泊する客船も洋燈に火を入れ、夜の客を迎える準備をしている。
石と木材でできた巨大な桟橋の入り口付近で、ぼんやりとその情景を眺めている青年がいた。夕日に照らされているその顔は陰影深く、はっきりとした目鼻立ちをしている。静かな夜の波際を思わせる特徴的な癖毛は、時折吹く海からの強風によって大波のように揺れていた。
彼はゆったりとした動きやすい濃紺のシャツを着ている。釦を一つ開けた立ち襟から覗く力強い筋肉は、引き締まった痩身を想像させるには十分だった。
辺りが一段と暗くなり、いよいよ太陽が寝床に入りそうであった。
一体、自分はこの街で何をしているんだ、とユウ・スリークは思いながらも、「さて……そろそろ食事の時間か」と差し当たりのない言葉を口から吐き出す。続いて生まれた深い溜め息も、海風があっという間にさらっていった。
港に立ち並ぶ石造建築群の中へ、ユウは重たい足取りで消えていった。
ユウは宿泊中の宿の一階にある飲食店へ向かった。港に近い場所柄らしく、魚介類を蒸した料理が評判のお店だ。宿泊割引が付くとはいえ、夜の食事はいつもここ。それは故郷の山林でよく取れる香草を味合うことができるからだ。
村を出て以来、一人きりの食事が続いているユウにとって、毎晩のなつかしい味はささやかな慰めであった。
比較的お店が空いている今晩は、店員が気を利かせて窓際の席を用意してくれた。おかげで客船の明かりが幻想的に輝く風景を眺めることができた。
先に出されたパンをかじりながら風景を眺めていると、濃厚な香りが漂い始めた。
「お待たせいたしました。ミル貝のバター炒め香草蒸しになります」
長身の若い男性店員が丁寧に料理を運んできた。
銀製と思われるお皿の縁には波の文様が施されていた。香草と溶けたバターがねっとりとミル貝に絡み、ユウの食欲を刺激する。
「ありがとうございます。あと、水もお願いできますか」
「わかりました。お待ちください」
店員は素早く厨房に戻り、コップに水を注いで持ってきた。実に丁寧な仕事だ。海が近いからか、少し塩っけを感じる水ではあるが、さすがに今日で六日目、これも旨味に感じる。
水を一口含んでから、ユウは銀色のフォークでミル貝をつついた。
「香草と貝。こんなに合うんだな」
しばらくすると客船から賑やかな演奏が聞こえてきた。
「船か。いつか乗ってみたいな。母さんと……母さん……」
遡ること二十日前。
母と二人だけの夕食を済ませたユウが食器を片付けようとした時、向かいに座る母カスミ・スリークは、ためらい気味にユウに話しかけてきた。
「ユウ、ちょっといいかな……」
立ち上がろうとしていたユウは、再び席に座った。
何か話がありそうな予感はしていた。母は食事の時から上の空で、どこか別の景色を思い浮かべながら会話をしているようだったからだ。
カスミはおもむろに右の手櫛で長い黒髪を耳にかけ、整えるしぐさを何度か繰り返した。自分を落ち着かせる態度にも見えたが、ユウは沈黙に耐えきれずに話の続きを尋ねた。
「……母さん、どうしたの」
天井から垂れ下がる洋燈がカタカタと揺れ、テーブルを覆う影の色は不安げに濃度を変える。今日は風がいつもより強い。南側の窓硝子も風の勢いに合わせて時折、大きく振れていた。
「ユウに、渡す物があるの」
カスミはようやく重そうに口を開き、黒い上衣のポケットから何かを取り出した。そういえば、今日の母は夏祭りの時に着る村の正装を身に付けている。
艶がある濃紺の生地をたっぷりと使った、小さな丸襟のワンピースは、夏祭りの場なら、さながら神官のような厳粛な空気を漂わせる独特の服装だ。
今日はその上に、スリーク一族だけが着る羽織と呼ばれている黒い上衣を着ていた。ユウも亡き父から同じ仕様の羽織を受け継いでいる。
「さあ、手を出して」
カスミがユウを促し、ユウはおそるおそる右手を母の前に出した。カスミはユウの手のひらに何かを置き、両手で挟むように隠す。
「これは【
「【制配】……なにそれ、母さん」
二人の手の中で眠っている硬い金属のような手触りを、ユウは少し訝しく感じた。
カスミが手を退けると、黒色の四角い箱が取り付けられた黒い帯がみえた。
箱の中には緑色の数字が横一列に並んでいる。その数は四つ。
「え、何これ! あ……数字が変わった」
小さな子供のような真っ直ぐな驚きを見せたユウに、カスミはくすっと笑う。
「これはね腕に巻く時計よ。水時計があるでしょ。あれを小さく持ち運べるようにしたもの」
「でも母さん、水時計は水の落ちた量で時間を示すよね。これで……測れるの?」
「そうね……今の時間、分かる? 私達は月の位置で分かるわよね」
「ちょっと待って」
ユウは南の窓を開けて月を見上げる。
いつもより強い南風が一気に部屋に入り込み、カスミの髪は荒く乱れた。
ユウは月読みが得意だった。世界と一体化して生きているこの村の者たちは皆、自然と対話し、教えを請う術を身に付けている。
満月の位置を確かめ、ユウは自信を持って母の問いに答えた。
「八時ぐらい、かな」
「じゃあ、その時計を見てみて。数字は? どうかな」
ユウが黒い箱の中を覗くと、緑色の数字は8と00。
「これ、八時ってこと? だよね。同じだ。どうして……」
カスミは、ふふっ、とでも言いたげな表情を見せた。
「その数字が正確な時間よ。もっとも時間は人間が付けた印だけどね。今の人々はおおよその時間しか掴むことができない。でもその【制配】は、機械が時の流れを正確に把握して、時間をより細かな数字で教えてくれるの」
「母さん、これどうしたの?……初めて見た。街で売っているの?」
「それは、どこかで買えるものでないの。スリークの家に古くから伝わる大事なもの。そして、今、あなたに譲る時が来たのよ」
カスミは突然、ひどく険しい表情に変わり、喉から絞り出すように言葉を続けた。
「ユウ。聞いて。その【制配】を誰か渡したり見せたりしては駄目。それはあなただけが継承し、持つ資格があるの。そして……【制配】には世界を変える力がある」
カスミは、とても悲しそうに目を滲ませている。
「遥か昔、私たちスリーク一族は、高度な技術に魂を奪われ、この世界を壊してしまったの。だから今まで深く自然を愛しみ、守りながら一〇〇〇年を超えて生き繋いできた。【制配】は、その戒めとして継承した過去の時代の遺産よ」
え、とユウの口が自然に動く。
「ユウ……」
窓から吹き込んでいた南風が突然に勢いを失い、踊るように舞い上がっていたカスミの長髪が、ゆっくりとあるべき場所に落ち着いていった。
「ユウ。気付いているかしら。ここ数年、弱まりつつある【ヘーヴァンリエ】を」
「ああ、知っているよ」
随分と前からユウも気付いていた。山村で自然を相手に生活をしていると、僅かな変化にも敏感になる。南風【ヘーヴァンリエ】は、ドスダリ大陸から流れる毒風【ヴァリ】の侵入を防いでいると共に、様々な穀物を育て、大地の恵みを人々に与えてきた。ところがここ数年、南風の弱まりによって収穫は少しずつ減り始め、天候も不安定になってきている。
「【ヘーヴァンリエ】はこの大陸の要であり加護。決して失われてはいけない。風が失われると【ヴァリ】の侵入を許し、アルティスティアはおろか、大陸の全ての国が滅んでしまう」
カスミは強い意思を秘めたような目で、ユウをまっすぐに見すえた。
「よく聞いて。ユウ。南風【ヘーヴァンリエ】を元の姿に戻して。世界を壊した私たちスリーク一族が、その罪を償う時が来たの。人々の生命を守ることで、せめてもの償いの一端を。あなたは村を出て首都アルティスティアに行き、この国の女王に会いなさい。あとは【制配】が南風を生み出す山脈フォグリオンへと導いてくれる。ごめんなさい、託してしまって。でもユウ、あなたにしかできないことなの」
しっかりとした語気は次第に愁いを帯び、ユウに詫びる頃には、カスミはテーブルに肘をついて両手で顔を覆っていた。彼女の肩は、弱々しく揺れている。
「……ちょっと待ってよ、母さん。風は自然が作るものだよね。人間にできることなんて、何もないじゃないか。そうだろ? 母さん」
風は自然が織りなす美しく残忍な現象だ。人がどう扱えるというのだろうか。
カスミは両手の甲を覆う前髪を左右にかき分けてユウを見た。
茜で染めたような真っ赤な目元がユウの目に冷たく映る。
「過去が封印された禁忌の山脈フォグリオンに行けば、きっと何かわかる……ユウなら答えを……探すことが……」
徐々に擦れて霧のように消えていく言葉に、ユウはそれ以上問いただすことができず、ただ呆然とカスミを見つめていた。
翌朝、一向に部屋から出てこない母を起こしに行くと、手紙とは言えない乱れた文字の走り書きが、枕元に残されていた。
周囲を見渡すと旅用の鞄も見当たらない。
『私にもやるべきことがある。大丈夫。また会える』
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