ラインエイジ・オブ・トーラス

灰緑

菫色の王女

菫色の王女と南風【ヘーヴァンリエ】

 まだらな雲が浮かぶ天空の隙間から太陽が覗き、神の降臨を思わせる光の柱が石造りの展望台を照らしている。

 南の空には、春の到来を告げる小さな白い鳥、ピナーシの群れが南風に乗ってふわふわと浮かび、遠く離れているがその高さは、塔の頂上に立つ彼女の目線とさほどかわらない。


「やはり、風が弱くなっているのでしょうか」

 彼女は空から落ちてくる陽光に眩しさを覚え、瞳を僅かに閉じた。

 南風が大きく吹きつける。胸に乗っていた菫色の長髪は、さらさらと舞いながら肩を超えていった。切り揃えた水平の前髪は、深赤色の瞳の上で綺麗に揺れている。

「そうですな。ソリューヴ様。風速計によると、昨年より二目盛落ちているようです」

 背後に控えている枯れ草色の軍服を着た男が、抑揚のない声で答えた。

「そうですか……だから、ピナーシもあんなに低く」

 歪んだ楕円形をしたスリード大陸。その北西に位置する神聖国家アルティスティアの第三王女ソリューヴ・アルカーディナルは、空を舞う優白な鳥の行方を目で追いかけていた。

 ピナーシは本来、風を凧のように受けて空高く舞い上がり、大胆な飛翔を見せる鳥だ。だが普段よりも低空で飛ぶその姿は、風速計の数字以上に風の弱まりをソリューヴに感じさせた。


 スリード大陸には特殊な風が吹いている。

 大陸の南端に聳える禁忌の山脈フォグリオンから吹く風【ヘーヴァンリエ】。

 その南風は、北の海を隔てたドリスタ大陸から流れてくる毒風【ヴァリ】の侵入を防いでいた。だが完全に防ぐことはできず、時々に風の防壁をすり抜けて【ヴァリ】はスリード大陸に到達し、人々の命を奪っている。

 人が【ヴァリ】を吸い込むと、一切の兆候もなく突然に死ぬ。


「ソリューヴ様。やはり【ヘーヴァンリエ】に何か変化が起きていると思われます」

 初老の男性、ケレング・アスタークは現状を慮るような面持ちであった。

 アルティアスィア防衛師団最高司令官まで務めた男は、訳あって一線を退き、今は第三王女の身辺警護をしている。一八〇センチを超える身長と鍛えあげられた分厚い肉体は、本来の年齢には似合わなかった。

「そうですか。それは国による調査の結果でしょうか。ケレング様」

 ソリューヴは南の空を眺めたまま、ケレングに訊ね返した。突然に強い風が吹き、神の手が撫でた精緻な顔に空気が滑るように流れて髪を巻き上げる。

 着ている白いワンピースの広幅な袖口は、風を吸い込んで風船のように膨れ上った。

「いえ、正式な調査を行うと国民が動揺します。人々の間には【ヴァリ】の恐怖は知れ渡っています」

「ええ、そうですね……本当に……」

「現在、極秘に防衛師団が調査をしています。フォグリオン山脈に一番近い街でも、風が弱まる現象が確認されています。おそらくスリード大陸全土でも同じかと。このまま【ヘーヴァンリエ】が弱まり続ければ、毒風【ヴァリ】が大陸を襲い、人は確実に滅びの道を進むことになるでしょう」

 ケレングは直面している厳しい現状をソリューヴに伝えた。ソリューヴは静かに振り返る。

「南風【ヘーヴァンリエ】は大地がなす御技そのもの。私たちは自然の恩恵に守られているのです。しかし、スリード大陸の五カ国は、この一世紀、大戦こそないものの、略奪や争いを繰り広げ、決して友好的とは言えません。隣国は常にこの国狙う有様……。限られた土地で少ない資源を争い求める我々を、信仰するモノリス神は嘲笑されているでしょう……」


 雲が突然に太陽を覆い隠し、光の柱は霧のように消えた。ずっと遠く離れてしまったピナーシの鳴き声が微かにソリューヴの耳に届く。

「我が国は大陸の母なる国家として、建国時から不戦の誓いを立てていますが……隣国ダストリアは、国土の拡張が国是たる軍事国家。今から八百年前に我が国から分岐したダストリアの王家は、『自由な意思に基づくあらゆる行為は容認される』という人々の集団です。末裔も同じ思考でしょう。昔から人の欲望に限りはありませぬ……さ、ソリューヴ様、そろそろ中に入りましょう。春がすぐそばとはいえ、肌寒い季節ですぞ」

 ケレングが、さあさあと、言わんばかりに手を差し出して、展望台を下る階段へとソリューヴをうながした。

「まぁ、ケレング様、わたくしのことをお気遣い頂けるなんて」

 ソリューヴは両腕を後ろに回し手を組み、かがんでおどけてみせた。背後から吹く風が彼女の髪をもう一度ぱらぱらと空に舞い上げていく。

 

 その真夏の太陽のような笑顔は、スリード大陸全土にその名を轟かす《陽愛のソリューヴ》にふさわしいものであった。

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