七 暁の魔剣
ゆったりと首をもたげた竜は、彼にしてみれば砂粒ほどの人間ふたりを溶岩のような赤みがかった金の瞳で見つめ、そして小さく顎を開くと、フッと小さく炎を吐いた。
咄嗟に聖剣をかざす。光というよりは影でできたような漆黒の炎は、真っ二つに分かれてリード達の横を流れていった。「うわあ、大迫力!」とユーンが言う。炎に触れた足元の硝子がどろどろに溶けて流れる。
「シルレインは炎を防げるけれど、鱗が硬すぎて全く攻撃はできない。なるほどね、本物の魔剣はファゲルにも対抗し得る力を持つものの、その能力には偏りがあるってわけだ。じゃあ撤退かな、他にやることないし」
「……ああ」
灼熱の瞳を睨みながら、そろそろと後退する。ファゲルは溶かしたはずの害虫が生き残っているのを不思議そうに見つめ、もう一度ふうっと炎を吐きかけた。聖剣は難なく炎を防ぎ、竜の瞳孔が僅かに開く。
「早く下がった方が良さそうだね。これ、物理攻撃はどうしようもないよ」
「わかってる」
早足に後ずさる。少しずつ距離が開いていって、それに比例してファゲルの首が持ち上がる。また炎。これも聖剣が防ぐ。すうっと丸くなる瞳孔。しっかり首を起こした竜が、地面を揺らしながらのろのろと立ち上がる。
「あ、これ……追いかけてくるやつ?」
「ユーン、次の炎をやり過ごしたら走れ」
「え?」
「二人は逃げ切れない。竜が踏み潰しにくる前に逃げろ」
「僕だけ?」
「ああ」
「それは……ちょっとなあ。初めてできた友達を見殺しにするのは」
「一人死ぬか二人死ぬかの差でしかない。合理的に考えろ」
「うん、まあ……そうなんだけど」
ユーンが呟いて、リードの隣まで歩み出てくると腰の魔剣を抜いた。
「ク・レン=ナダ」
振るわれる刃から黒い闇のようなものが飛び出して、竜の鼻先に当たる。鱗にざくりと深い亀裂が入って、血が流れ出した。ファゲルは驚いたように首を引っ込めて、そして今までとは違う視線で二人を睨む。
「下がれ、炎が来る!」
「うーん、切れたは切れたけど、これで殺すのは無理そうだなあ……」
ごうっと漆黒の炎が吹かれる。闇に包まれて、周囲を溶かされた足元がゆらゆら揺れる。背後に跳んで、地面の硬い場所まで移動する。
「このまま下がって、窪地を抜けたところで岩陰に飛び込め。俺が引きつけている間に全力で走れ。そう長くは持たない」
「ラフリード、訂正するよ。君は本物の勇者様だ。ハリボテなんかじゃなく」
「……最後にそれが聞けて良かったよ」
振り向かず、微笑む。良かった、本当によかった。この胡乱だが憎めない相棒が合理的な人間で、本当に、良かった。
「うん。あのさ、僕はユレインっていうんだ」
「そうか……早く行け、ユレイン」
「『魔剣ユーン』より、『魔剣ユレイン』の方がゴロがいいだろう? ……だからそっちで呼んでよね。僕、そういうの案外こだわるんだよ」
「は?」
振り返った。
いない。
「……ユーン?」
状況が理解できないのに、なぜか手足が震え出す。ゆっくりと見下ろした足元に刺さる、一振りの剣。細身のそれはユーンの愛剣レナダルに見えた。ただ、剣身が眩い銀色に輝いている以外は。
「……は?」
もう一度掠れた声で囁いて、リードは震える手を伸ばし、その剣の柄を握った。あたたかい。残された体温というより、まるで剣自体が生きているように。
いつの間にか聖剣を握る手が下ろされていたが、それでもシルレインは竜の吐いた炎を防いでいた。人智を超えた力を持つ、けれど竜の鱗は貫けない、力の偏った太古の魔剣。
「これも……実験だっていうのか?」
呟く。くすくすと笑うように銀の光が揺れる。
「それはお前が……お前が見届けないと、意味のないことじゃないのか、ユーン」
信じたくなかった。けれど手にするとわかってしまった。
――いつか作ってみたかったんだよね、本物の魔剣
笑い混じりの声が聞こえた気がした。それと同時に、心のどこかがパリンと砕ける音もした。
リードは感情の抜け落ちた虚ろな顔のまま、ゆらりと竜へ向き直った。どうも炎は効かないらしいと悟った竜が、億劫そうに巨大な前足を持ち上げる。動作は遅いが、その大きさゆえに砂粒に等しいリードは逃げ切れないだろう。
飛ぶように駆け出す。終末に向かって。予想外の動きに竜が反射的に炎を吹く。右手でシルレインをかざすと炎が割れる。黒い業火が途切れる前に、左で握った白銀の剣を振り抜く。
「――ク・レン=ナダ!!」
絶叫に喉が裂けたのを感じた。けれどそんなことどうでも良かった。魔力のない自分が呪文を叫んだところで何の意味もないことはわかっていた。けれどユレインはそれを馬鹿にすることもなく、柄にもなく素直に、その身に宿した膨大な力を解放した。
銀の風が吹いた。その瞳以外は鴉のように真っ黒な彼には似合わない、夜の闇を退ける朝日のように透明な銀色をしていた。
一瞬の後、絡みついた銀の風がきらりと強く輝き、そしてファゲルの首がズレた。驚いたように顎を半開きにしたまま、ドォンと大地を強く揺らして、竜の首から頭が落ちた。吹き出す血が真っ赤な沼のように窪地へ溜まってゆく。それからようやくその死に気付いたようにゆっくりと、大地を割りながら胴体が倒れた。あまりに大きなその揺れに体勢を崩して、リードはその場に倒れ込んだ。咄嗟に胸に抱えたユレインの刃が深々と彼の腕を切り裂いた。痛みは感じなかった。体の痛みも、心の痛みも。
地響きが何度も山にこだました。それが静まってゆくのを呆然と聞いて、無音になった窪地に、リードはよろよろと立った。ぼたぼたと腕から血が滴っていたが、止血する気にはなれなかった。
抱いていた剣を少しだけ胸から話し、囁く。
「お前……似合わないぞ。ずっと不気味な黒尽くめだったくせに、突然こんな、暁の光みたいな銀色」
カランと音を立てて聖剣シルレインが手からこぼれ落ち、硝子の地面に転がった。それに気づきもせず、リードは友に囁き続けた。
「それで、お前の実験は成功したわけだが……一体どうするんだ? 元に戻れるのか、それ?」
一拍おいて、問う。
「おい、まさか全部俺に押し付けるつもりじゃないだろうな」
澄み切った美しい銀の光を見つめ、勇者は歪んだ笑みを浮かべた。
「本当に仕方のないやつだな……。まあいい、とりあえずここに収まっとけ。白は嫌だとか言うなよ? 街に着いたらちゃんとしたのを仕立ててやるから」
リードはシルレインの鞘にそっとユレインを収め、小さく「はは、ぶかぶかだ」と笑った。ふらふらと窪地の坂を登って歩き出す。登り切ったところで、彼は巨大な遺骸のそばに取り残された聖剣を振り返って言った。
「すまないな、置いて行って。だが俺はきっとこの先……お前さえいなかったならと思わずにはいられないだろうから。いい奴に拾われろよ」
そうして勇者リードは、ふらふらと終末の地を後にした。平原に戻って馬を拾ったが、彼は二度と王都には帰らなかった。
◇
それから世界各地で――「魔剣について知りたい」「俺の知的好奇心を満たしてくれ」としつこく絡んでくる男がいると噂になったが、彼の行く末を知るものは一人としていなかった。
ただその男は金髪を腰まで伸ばし、長い前髪の隙間から暗い目で笑う黒衣の剣士であったらしい。
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