六 終末の竜



 湖まであと少しという距離まで来たところで、馬達が一歩も前へ進まなくなった。人間にはわからない何かを感じ取っているのか、怯えたように耳を倒し、首を振ってリードの指示に抵抗する。


「どうする? 放す?」

「……そうだな」


 少し前に野生の馬の群れを見かけたのを思い出し、ヴァトとシュアンもそこへ混ざれないかどうか思案する。人里で良い餌を与えられて育った彼らは野生の個体より一回り体が大きく、それがうまく受け入れられるのか、反対に怯えられる一因になるのか、判断がつかない。


「群れでのちゃんとした振る舞いを知らないからねえ、どうだろう」

「試しに引き合わせてみるか」


 元来た道を引き返して、距離をとって様子を伺っている馬達が見えるところで、二頭の馬具を外してやる。彼らは少し戸惑った様子を見せながらも、野生の同胞が気になるようで、おずおずと近寄っていった。同じ動物だからか群れも逃げ出すことなく、互いに鼻を近づけて匂いを確かめている。


「あ、いい感じじゃん。良かったね、行こ行こ」

「おい……まだわからないだろう。もう少し見守ってから」

「見守った末に馴染めなかったからって連れて行けるわけでもなし、いいじゃないこれで」

「お前な……」

「もう少し合理的に生きなよ、リードもさ」

「合理性さえあれば何でも許されると思うなよ」


 ちらちらと振り返りながら歩き出す。まだ湖こそ見えないが、この距離なら徒歩でも半日あれば着くだろう。


「それにしても、ファゲルの姿が見えないね。山くらい大きいって話は誇張なのかな?」

「……どうだろうな」


 楽しそうに歩くユーンは、何の恐怖も感じていないように見える。一息で国一つ溶かすと言われている存在が目前に迫っているのにだ。既に、ファゲルがくしゃみでもすれば吹き飛ぶ距離だ。


「いや、本当に山くらい大きい生き物なら、人間の一人や二人近づいたところで警戒もしないと思うよ。『災厄』の時は馬鹿みたいに兵器で攻撃したからこうなったんだろう? 僕らが少し見物して帰るくらい平気さ」

「しかし、聖剣で斬りかかればそうもいかないだろう。お前は姿を見たら速やかに離れるんだ。三日待って、俺は攻撃を始める」

「……もしかして君、まだ本気でファゲルを倒そうとしてるわけ? ファゲルはもう四年もあの場所で大人しくしてるのに? 君を生贄にした国王に立てる義理もないし、放っておけばいいじゃん」


 久しぶりに向けられた嘲笑を少し可笑しく思いながら、リードはしかし首を振った。


「脅威があのファゲル一頭ならば、そうかもしれない。百年経てば寿命も尽きるやもしれんし、人々もそこに竜がいることに慣れるだろう……しかしかの邪竜が空を割って現れた、そのことわりがわからない以上、二頭目三頭目が現れる可能性は十分にある。その時に……聖剣が対抗し得る武器であるかどうか、確かめておく必要があると俺は思う」

「君が実験台になるってこと?」

「有り体に言えば」

「……へえ、いいね」


 髪の隙間から覗く瞳がにこりと細められた。ユーンの足取りが更に楽しげに軽くなる。


「そういうつもりだったなら、初めからそう言ってくれればいいのに! 君のこと、単なる無意味な自己犠牲の馬鹿だと思っちゃったじゃない。命懸けの検証、痺れるじゃないか。僕も見に行こうっと」

「おい、馬鹿なこと――」

「野暮言わないでよ、友達だろう?」


 彼の場合、その言葉が言葉通り「面白そうな実験を自分にも見せろ」という意味なのはリードにもはっきりわかっていた。しかし、救われた気がした。自分の生き様を肯定されて、それに寄り添ってくれると、そう言われた気がしてしまった。


 涙の滲んだ顔を見て、ユーンが気味悪そうに「え、泣いてるんだけど……なんで?」と言う。こいつには俺の気持ちなんて一生わからないだろうと思って笑いを漏らせば、今度は「うわ、笑い始めた。気持ち悪っ」と顔をしかめる。


「お前、生き残ったら一発殴らせろ」

「は? やだよ痛いじゃん」

「痛がらせてやるって言ってんだ」

「何それ、すごいキモいんだけど」


 そして二人は軽口の応酬を続けながら、ついにアル湖へ辿り着いた。黒く透き通ったガラスで覆われた地面に立ち、深い深い……窪地の淵に立つ。


「うわあ……」


 ユーンが華やいだ囁き声を出して髪をかき上げた。銀の瞳がこれ以上なくキラキラしている。リードは息を呑んだまま、声を出せないでいた。


 そこに湖はなかった。真昼の太陽に照らされてきらめくそこに水は一滴もなく、干上がった湖底は黒硝子に覆われていた。大きな大きな鍋のようになったそこに、まるで鳥の巣におさまるように、巨大な黒竜が丸くなって地響きのような寝息を立てていた。


「遠くから見えなかった理由がわかったね」

「……ああ。ユーン、俺の後ろから決して離れるなよ」

「わかってるわかってる」


 ざあっと滑って窪地を降りる。竜が起きる様子はない。リードは息を殺してそろそろと聖剣を抜いた。竜の周りは魔力で満ち溢れているらしく、剣は真夏の晴天のような眩い青色に光り輝いていた。


「……行くぞ」

「早く早く」


 楽しげに急かすユーンに苦笑して、リードは息を詰めると眠る黒竜の首に力一杯、聖剣を突き立てた。


 カチンと軽い音を立てて剣先が弾かれ、ファゲルが薄く目を開けた。





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