訪問
「田原です」
インターフォンを押すまでに30秒くらい悩んだ。とにかく、こいつとは会いたくない。
「あー、そうたん。待っててー」
思い出したくない声を聞いて、即、嫌な気持ちになった。これだけで、十分じゃないだろうか。もう許してください。帰りたい。
「仕事帰りー?」
「いえ。今日は、休み?みたいな感じです」
部屋の中に衣類が散乱している。シンクの中に皿が山積みになっている。汚い家だ。
「ちょっと待って」
いきなり服を脱ぎだした。「なんだこいつ~」ひとむかし前に流行った芸人のギャグフレーズが思い浮かんだ。脱いだ服をカゴに入れ、そこらへんに転がっている服を拾って着だした。こいつは元配偶者前でも、平然と裸になるんだな。本当に自分以外は何とも思っていない人間だ。
「ハルのパソコンまだ使ってる?」
何を言っているかよく分からなかった。思わず眉間に皺を寄せてしまった。
「編集出来るパソコン!ハルのやつ!」
声が大きくなる。こいつはいつもそうだった。自分の要望が通らない時だけでなく、人から聞き返されるのも嫌いだった。一発で理解出来ないと怒られる恐怖のリスニングテスト。
「あぁ、とっくに処分しましたよ」
「なんで勝手に捨てるの!」
恐怖と同時に懐かしさを感じたのが可笑しかった。そうだ、こんな日々だったな。
「すいません」
ここで一呼吸置くのがクレーム処理のポイント。
「当時、必要な物は全て取りに来て下さい、とお伝えしました」
次に重要なのは、事実をきちんと明示すること。ただ、申し訳なさそうな声色と表情は保つこと。
「編集するって言っちゃったの!あのパソコンないと困るの!」
クレーマーがまた大声で叫び始める。
「そうでしたかぁ。ないと、編集出来ないですもんねぇ。それは困るねぇ」
これも共感トークというテクニックだが、クレーマーに対して突っぱね返し続けても埒があかない。共感をして、私はあなたの味方なんですよ、という雰囲気を作り出す。
「あのパソコン30万だったの!弁償してよ!」
こいつのパソコンは低スペックだから当時の値段でも10万がいいところだろ。ましてや、こっちはパソコン捨てるのに業者に5千円払った。
「弁償は難しいです。すいません」
悪くなくても「すいません」を繰り返す仕事は惨めだ。
「じゃあ、代わりに編集して!」
ほれきた。呼び出した目的はコレだ。
「弁償代ちゃらにするから、ハルが撮ったV、編集して!」
Vはテレビ・芸人業界でおなじみの「VTR」のVじゃない。アダルト業界では「AV」のVを指す。
「そうたん!やって!編集して!」
元妻の顔をマジマジと見る。こいつは人の善意を骨の髄までしゃぶり尽くす女だ。むかつく。勃起してきた。鼓動が早くなる。
「30万返さねぇんなら、編集しろよ!」
クレーマーがキャンキャン吠えてる。うるせぇな。てめぇに貸して返ってきてない70万はどうなったんだよ。どの面下げて、金の話してんだ。美人だ。全てがだらしないが好きだった。人は変えられる、支えられると信じてた。全部を裏切られた。何かを叫び続けているが、もう聞こえない。こいつは、もう黙らした方がいい。なんでこんな馬鹿女に騙されたんだろう。悔しい。やってやる、やってやる。ガチガチに勃起している。
トートバックに入れてきた包丁を取り出し、喉を切りつけた。ちょっと暴れたので胸を何回か刺したら動かなくなった。
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