受け入れられぬ僕

 皮膚を劈くように寒い日だった。死のうと思っていた。身体は黒い海になめらかに吸い込まれていった。意識が戻ったとき、そこは海でも天国でもなく、病院の無機質な天井だった。

 

 それから海が怖くなってしまった。偉大なる母に、還ってくるなと拒まれたような気分だった。地球上でこんな小さい僕の、たったひとつの命の終わりすらも受け入れてもらえなかった。そのときから僕の中に居座る漠然とした悲しみは、僕を殺めなかったあの海よりも黒くて深かった。地球を覆い、すべてを見つめ受け入れるあの海でさえ、ゆがみにゆがんだこの僕を拒む。


 生きる意味とは、或いは死ぬ理由とは。結局どちらも存在しないのだろう。少なくとも今は僕それらを持ち合わせていないこと、それがより僕を苦しませている。生きている感覚も死んでいる心地もしない、もしそこに存在しているものを挙げるとするならば、カルシウムで出来た棒や板にしつこいほどの脂肪がついた、例えるとするなら質の悪い骨付き肉である。そう云ったものに、これといった大きな意味などあると思わないほうがいいのだろう。そう考えなければ、この苦しさは紛れないのである。


 そうだ、山に抱かれよう。どのような形であれ、自然に還りたい。突発的な感情で車を走らせ、山に行く。僕は樹木の養分になりたかった。今回は死ねると思った。頑丈そうな枝に紐を結び、首を括り足場を蹴ると、すぐに枝が折れた。私はこの大自然に、養分として一種の貢献どころか、一本の神聖な、神の裾に生命を宿している神の子を傷つけてしまったのだ。死にたいほどの罪悪感、背徳感を抱えてまた生きねばならぬ。これはあまりに重すぎる罪だった。


 山から降りたあと後ろを振り返ると、山には靄がかかっていた。山にはもう二度と入らない。また、苦しみが増えた。腕で抱えても溢れるだけの罪と、悲しみと空しさが、あのときの海の波のように押し寄せる。

 満身創痍とはきっとこのことだろう、腕の傷、首についた絞め跡、虚ろな目と震える指。これでまだ逝けていない。鏡に映る僕が「もう逝かせてくれ」と小さく呟いた。



 とぼとぼ、という効果音が付きそうな歩き方で、暗い夜道を歩いていた。上を向いて歩こうという、どこかの誰かが歌った詞が頭に流れた。阿保らしかったが上を向いてみた。そのまま後ろに倒れて頭をぶつける、はずだった。ぶつかるはずの地がない。怖い、僕を拒んだ海より、追い出した山より、すべてを受け入れようとする「無」が怖い。恐怖が一気に押し寄せて、パッと脳の回路が切れた。


 

 何も残らなかった。幻覚に呑まれて、自分すらいなくなってしまった。骨付き肉に自我はない。僕は人間でも、生命体でもない。ただその肉はもう腐敗が進んでいた。火葬場には何人もの僕が集まって、馬鹿にするやつや悲しむもの、無表情で突っ立っているものがいた。その奥にいる、笑っている二人を見つけた。海に受け入れられなかった僕と、山に拒まれた僕だった。誰よりも幸せそうで、今までの僕の表情で一番人間の顔をしていた。遺影にしたかったなぁ。

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