第2章 悪夢

6.離れ離れ



 壁の中の噂はますますひどくなっていた。

 何でも死者が続出しているそうだ。銃で無差別に殺されているとか。

 役人と軍人が必死になって箝口令をしいているが、人の口に戸は立てられない。

 軍人たちは何の理由もなく次から次へとに村人たちを捕縛していくから、みんなの恐怖は増すばかりだ。


 今日は近所の親切なおじさん一家がやられた。全員連れて行かれたらしい。父が、荒らされてもぬけのからになっている家を見てきた。

 父は真っ青な顔で帰宅すると、「次はうちかもしれない」と絶望的な声で言った。

「みな、覚悟を決めなさい。初と絹は、必ず緊急用の小袋を肌身離さず持っていること。中には干飯が入っているから、決して見つからないように」

 初は怖くて眠れなかったけれど、何とか眠ろうとした。もしも自分たちがあの恐ろし気な壁の中に連行されるような日がくれば、絹のことは初が必ず守り切らねばならない。そうするためにも、体調は常に万全に整えておかなくては。

 そうは言っても初たちは、このところ食糧も満足に手に入らず、雑穀の混じった米だけで食事を凌いでいた。体は既に弱り始めていた。大丈夫だろうか。途轍もなく大きな不安に襲われる。

 きっと大丈夫だ。父と母と絹と一緒なら。

 そう思ってようやく初は眠りについた。


 次の日の朝に、もう軍人が来た。

「お前たちを捕縛する。おとなしくついてこい」

 初たちは銃で脅されながら車に押し込められ、ブロロロ、と町の中心部の壁の中へと連れて行かれた。

 初も絹も泣かなかった。父と母が初と絹の肩をぎゅっと抱えていた。絹の手は氷のように冷たかった。

 壁の中に連れて行かれると、まず身体検査が待っていた。初と絹の持っていた携帯食はあえなく没収された。この食糧は、父と母が己の分を全部初と絹のために注ぎ込んで詰められたものだったのに、その愛情すら踏みにじられた。

 それから四人は、軍人たちの定めた組にそれぞれ分けられた。成人男性。成人女性。子ども。

「私たち家族を離れ離れにしないでください!」

 父は必至で訴えた。

「ああ、待って! 子どもたちを連れて行かないで! 初、絹!」

 母は連行されていく二人を呼び止めようと飛び出した。

 その瞬間。


 ダァン、ダァン。


 銃声が二発鳴った。

 初と絹はぞっとして振り返った。

 母と父はそれぞれ銃弾に頭を撃ち抜かれていた。倒れ込んだその地面に、赤黒い血だまりができていく。

 あまりにもおぞましい光景だった。

「母さん、父さん!」

 初は信じがたい思いで叫んで、すぐさま付き添いの軍人に頭を叩かれた。

「静かにしやがれ! クソガキが!」

 彼は両親が倒れているのを見て、これ見よがしに溜息をついた。

「あーあー、まだ働けそうな奴を無闇に殺しやがって。お前って奴は。上官に怒られても知らねえぞ」

「俺は悪くない。こいつらが反抗的だったのが悪い。俺は逆らう奴は殺すように命じられている」

「そこをうまく従わせるのがお前の役目だろうが。もったいねえなあ、せっかくの労働力だったのになあ」

 初はあまりの事態に混乱して、声も出なくなっていた。死んだ? 父と母が? 目の前で射殺された? そんなことがあるだろうか。嘘だ。嘘だ嘘だ嘘だ。こんな真っ赤に血まみれたものが父と母だなんて……許容できない。ありえない。……怖い。

「父さん、母さん」

 絹が震え声で言った。初は絹の手を握り直した。

 絹を守れるのはもう初しかいない。

 そう思っていた。

 だが、先ほどの軍人がじろじろと絹のことを見ている。

「何だあ、こいつの毛色は。真っ白で気色悪いな。しかもその目の色……まともに見えてんのかあ? おい、答えろ」

 軍人は絹をどついた。初は「やめて!」と叫んでまた叩かれた。

「お前はいい加減黙ってろ。おい白いの、お前は目が見えるのか?」

「あ……あんまり見えない……」

「だろうなあ」

 軍人は嘆息した。

「きょうだいに手を引いてもらわなくちゃ歩けねえんだもんなあ、お前。また使い物にならねえガキを拾っちまったぜ。全く、ついてねえなあ!」

 軍人は、初の手から絹を強引に引きはがした。

「やだ!」

 初は懲りずに叫んだ。

「駄目駄目駄目駄目駄目駄目! 駄目ったら駄目! 絹のことは私が守るんだから! 離れ離れにしないで! お願い!」

「うるせえ! いつになったら黙るんだ、お前は!」

 初は思いっきりげんこつをくらって、視界に火花が散った。

「健康で働けるガキはこっち。使い物にならん障害者はこっち。規則でそう決まってんだよ。ゴタゴタ言ってるとお前も撃ち殺すぞ!」

「あああああああ、やだあ! 絹を連れて行かないでお願い!」

 なおも絹のもとに駆け寄ろうとする初に、絹は声をかけた。

「初」

「……絹?」

「大丈夫。一人でも大丈夫だよ。だからここで死なないで、初。おとなしくしよう。おとなしくついていこう」

「……絹」

 それ、さっさと歩け、と軍人が初を蹴っ飛ばす。別の軍人がやってきて、絹を別の方向に連れて行く。初はその背中を見ながら、なすすべもなく歩き始めるしかなかった。

 まさか、両親を目の前で二人とも失っただけでなく、絹とまで離れ離れになってしまうなんて。

 この先何があろうと、みんな一緒なら大丈夫だと思っていたのに。

 何でこんなことに。

 何より絹が心配だ。使い物になる人間は殺さないと軍人は言っていた。ならば、目の弱い絹は? 使い物にならないと言われてしまった絹はどうなる?

 まさか、まさかまさか、絹までもが殺されるなんてことは……。

 そんなことはあってはならない。絹は役立たずなんかじゃないのに。

 絹は尊い人間で、控えめだけど優しくて、笛の腕もよくて、初の一生の相棒で、それで、それで……。

 考えがまとまらない。そしてついに、去りゆく絹の背中が、初の視界から見えなくなってしまった。


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