再会
一ヶ月後、私は病を得ていました。身体が重く、頭痛と微熱がずっと続いていました。何人ものお医者様が呼ばれ、色々なお薬を処方されましたが、病状は日を追って悪くなる一方でした。
辺境伯は、はじめのうちこそ毎日のように見舞にいらしていましたが、一週間ほど経つとそれも途絶えました。今、私の寝所に出入りするのは、給仕の侍女と時折見えられるお医者様だけになっていました。
侍女が、今日も鶏肉のスープと麦粥を持ってきます。彼女が出ていくのを見届けて、私はルーチェの瓶を開け、中身を両方の皿に振りかけました。……手紙にはああ書かれていましたが、エストゥアーリョの香りを全部一度に使ってしまうなんて、どうしても私にはできませんでした。
寝てばかりの毎日、この香りだけが慰めでした。エストゥアーリョの潮の香り、海の幸、なによりルーチェの笑顔――浮かんでは消えていきます。
(ルーチェの顔、また見たかったな……)
スープと粥を食べ終えれば、エストゥアーリョの香りも口中から消えていきます。
今は十月。この地はもうすぐ雪に閉ざされるといいます。寒い中、私は凍えながら果てるのでしょうか。暗い気持ちを眠りで紛らそうと、私は横になりました。
「……さま」
枕元で誰かの声がします。
とても、なつかしい声に思えます。
「アマーリアお嬢様。まだ、おやすみですかねえ」
声がはっきり聞こえ、私は飛び起き……ようとしました。実際には身体が動かず、ただ目を開けて首を動かしただけでしたが。
それでも月明かりに浮かぶ姿は、ぼんやりと見えました。
「……ルーチェ!?」
あわてて枕元のランプを点ければ、懐かしい顔が照らし出されました。
大きな青い目、縮れた茶色の髪、そばかすだらけの顔……見間違えようもない、ルーチェ。
「あなた、どうしてここに――」
「来ちゃいました、お嬢様」
彼女は、輝くばかりの笑顔で言いました。
「お嬢様があの瓶を開けられた、って料理長から聞かされて、あたしも香草焼き食べたですよ。残りもののカジキに、お嬢様に渡した瓶と同じの、たっぷりかけて一息に」
「ルーチェ……」
不意に、ルーチェの表情が曇りました。
「でもお嬢様、あたしの言う通りにしてくださらなかったですね? 香草の瓶、まだ半分も残ってるじゃないですか」
「え?」
あわててベッドサイドを見ましたが、香草の瓶は出ていません。いつもどおり、サイドテーブルの鍵のかかる引き出しにしまったままです。
そういえば、ルーチェはどうやってここへ来たのでしょう。エストゥアーリョからモンターニュまでは、馬でも十何日もかかります。仮にモンターニュまで来られたとして、城には少なからぬ警備兵がいます。どこから入ってきたのでしょうか。
「ルーチェ。あなた――」
言いかけて、息が止まりました。
伸ばした手が、空を切ったのです。ルーチェの肩に置こうとした掌が、背まで突き出てしまいました。
「あたし、食べたですよ。お嬢様に差し上げたのと、まちがいなく同じ香草を」
ルーチェは少し悲しそうに言いました。
「あたしあのとき、一生懸命考えたですよ。お嬢様を助けてあげられる方法、何かないのかって」
薄い笑い。けれど目が笑っていません。
「でもあたしには、なんにもできねえです。お嬢様が知らない人の所へ嫁ぐのも、遠い国で辛い思いするのも、どうにもできねえです。あたしにできるのは料理を作ることだけ、お嬢様のお口に美味しいものを入れてさしあげることだけ……そこで、思ったですよ」
ルーチェは目尻を下げました。鋭かった目が少し和らぎました。
「口に入れるものなら、用意してさしあげられるんじゃねえかって」
ルーチェはちらりとサイドテーブルを見ました。引き出しの中の香草瓶を、にらみつけているようにも見えました。
「すみませんお嬢様、手紙にはひとつだけ嘘書きましたです。あれ、香草焼きのハーブとそっくり同じじゃねえです……一種類お薬が足してあるです。ちゃんと間違いなく一瓶飲めば――」
「そう……なのね。ルーチェ」
驚きはしました。背筋が寒くもなりました。
けれど私はまったく、ルーチェを責める気にはなりませんでした。
私も、心のどこかで、そうしたいと確かに思っていましたから。
「私を……楽にしてくれようとしたのね。遠い国で、辛いことから逃げられずにいる私を……そうでしょう、ルーチェ」
ルーチェは小さく頷きました。
「一緒に、逝きたかったですよ」
かぼそい、声でした。
「あたしとお嬢様、どうやったってこの世じゃ一緒になれねえです。だったらせめて、この世じゃねえところならって……思ったですけど、ね」
そこで急に、ルーチェは目を細めて笑いました。くるくるとよく変わる表情は、エストゥアーリョにいたときとすっかり同じでした。
「でも、結果よければすべてよしです! 生きてるまんまなら、ここに来ることなんて夢のまた夢だったですよ。こうしてまたお嬢様の顔を見られて、ルーチェは幸せです」
「……ルーチェ……ルーチェ!!」
私はようやく、事態を本当の意味で理解し始めました。
ルーチェはもういないのです。エストゥアーリョにも、そしてここモンターニュにも……この世のどこにも。
「なんてことをしてしまったの、ルーチェ……あなたはエストゥアーリョで、ずっとお父様やお母様に美味しいお料理を作っているのだと……思っていたのに」
「お嬢様のいねえエストゥアーリョに、未練なんてねえです」
あくまで明るく、ルーチェは笑いました。
「でもひとつだけ心残りがあるです……あたしじゃ結局、お嬢様を楽にしてさしあげられねえです。今のあたしじゃ、お嬢様を抱きしめることも、キスすることもできねえです」
「私も、すぐそちらへ行くわ」
引き出しの鍵を開け、香草の瓶を取り出しました。半分だけの中身が、ランプの光に鈍く輝きました。
「だめですよお嬢様。それじゃたぶん死にきれねえです。お身体を悪くされて、余計に苦しむだけですよ」
「ならどうすればいいの!」
叫んで、毛布の上に突っ伏しました。
「病は治らない。辺境伯様は、もう私のことを見捨ててる……あとはもう離縁されるだけ。私だって、ルーチェもいないこの世に未練なんかない!」
私は泣きました。
毛布が濡れるのにも構わず、ただ子供のように泣きじゃくりました。
泣き、ひたすらに泣き、泣き疲れた頃、ルーチェの声が囁きました。
「お身体は大丈夫です。その香草を……毒を食べるのをやめたら、すぐ治るですよ。それに――」
一瞬ためらった後、ルーチェは続けました。
「――あのひと、お嬢様のこと見捨ててねえですよ」
「嘘」
何度も首を振りました。
「あの方は、もう見舞にすら来てくださらない。お姿、もう二週間は見ていないわ」
「お嬢様」
彼女は静かに言いました。
「来てみてわかりましたです。お嬢様は、たぶんもうちょっと幸せになれるです。……あたしは、もうどうにもなんねえですけど」
ルーチェが手を差し出してきました。掌は、そのまま顔を抜けていきます。
「このとおり、涙も拭ってさしあげられねえです……でもお嬢様には、助けてくれる方がちゃんといるですよ」
「そんなことない」
私は激しく首を振りました。
「私を助けられるのはルーチェだけ。他の誰も、私はいらないの」
「お嬢様」
目の前のそばかすだらけの顔が、急に薄らぎ始めました。
えっ、と叫んで手を伸ばします。けれど半分透けた身体を、手指は無情にもすり抜けていきました。
「どうか……幸せになってくだせえ。お嬢様は笑っててくだせえ。あたしには、なんにもできねえですけど」
大きな目を細めて笑い……ルーチェは、かき消えました。
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