秋桜
泣き疲れ、眠っていたようです。
差し込む朝日に目覚めると、ベッドサイドに見慣れない花瓶がありました。
白磁の瓶に、花が一輪活けてあります。針金のような葉と茎に、薄桃色の大きな花弁が八枚。初めて見る花です。
脇に、紙が数枚畳んであります。私宛の手紙でした。濃紺のインクで、整った字が紙面一杯に綴られていました。
『愛するアマーリア・フランチェスカ・ディ・ジョルジョ嬢、あるいは我が妻へ
直に顔を合わせて言葉を伝えられない私を、不甲斐なく思っております。だが私の顔を見れば、貴女はまた気分を悪くされるかもしれません。ゆえに手紙の形をとることを、どうかお許しください。
海の美しいエストゥアーリョから、貴女はこの山深いモンターニュの地に嫁いでこられました。貴女が陸に上がった魚のように干からびてしまうのは、致し方のないことなのでしょう。
病に伏せる貴女を見るにつけ、私は胸がふさがる思いでした。海で貴女が癒されるなら、海水を汲んだ樽をこの地まで取り寄せたい、とさえ考えたほどに。
ですが私は、貴女に疎んじられております。貴女は病の床で、私の顔を見るたび痩せ細っていきました。ならば私は顔を見せない方が良かろうと、ずっと見舞を控えておりました。
医者は原因不明と言っておりますが、私は、貴女の病は気持からくるものだと思っております。
貴女が心から笑う顔を、私は一度も見たことがありません。
憂鬱の病であれば、医者が治せぬのも当然でありましょう。
そして、憂鬱の元凶たる私は何もしない方がよい。そう思っておりました。
ですが昨夜、私の元に一人の娘が現れ、言いました。
私の想いを貴女に告げたかと。
私が貴女を愛していることを、伝えたことがあるかと。
娘はカジキの妖精と名乗りました。貴女はエストゥアーリョで、カジキの香草焼きを好んでいたそうですね。それゆえ娘は、かの地から貴女についてきたのだそうです。
カジキの妖精は言いました。
彼女には身体がない。だから、貴女に触れることさえできない。
貴女を抱きしめられるのは、口づけできるのは、私しかいないのだと。
思えば私は、病床の貴女とほとんど口もきいておりませんでした。ですので、今ここでお伝えします。
アマーリア嬢、私は貴女を愛しております。
夫として、いや一人の男として、私は貴女の健康と幸福とを願っております。
共に届けたのは
私は非力な男です。貴女のために山を海にすることもできず、カジキ料理をこの地で用立てることもできません。
ですがせめて、遠く嫁いでこられる貴女の慰めにと、婚儀の話が決まった三年前からこの花を育てております。
貴女が伏せっておられる間に、庭では秋桜が見頃になっております。寝室の窓からも見えますので、もし起き上がれるようでしたらご覧になってください。
この手紙と秋桜が、少しでも貴女の慰めになることを、天なる神に祈っております。
レイモン・バスチアン・ド・ジェルボー』
ふらふらと立ち上がり、寝室の窓辺へ寄りました。
外を見下ろせば、視界いっぱいに薄桃色の海が広がっていました。目を凝らせば、無数の小さな花々が風にそよいでいるのが見えます。桃色の波の間を、せわしなく庭師が行き交っています。
(お嬢様は、たぶんもうちょっと幸せになれるですよ)
ルーチェの声が、胸の中で響きました。
「そんなことない……そんなことない」
震える声でつぶやきながら、私は窓の側に崩れ落ちました。
両手で顔を覆い、ただ泣きました。泣くよりほかに、できることを知りませんでした。
泣き疲れた頃、侍女が部屋に入ってきました。私を見て、侍女は顔色を変えて駆け寄ってきました。
助け起こされながら、私は言いました。
「紙とペンを……用意して」
「紙とペン、でございますか」
ゆっくりと、けれど大きく、頷きました。
「レイモン様に手紙を書きます。書き終わった頃、取りに来てくださいな」
「は……はいっ!」
侍女は目を丸くしながら一礼し、部屋を出ていきました。
紙と羽ペンとインク壺が、すぐに届けられました。私はベッドに腰かけ、サイドテーブルを引き寄せて、紙の一枚目を真ん中に据えました。
(それでもね、カジキの妖精さん)
心の中だけで、呼びかけました。
(私はやっぱり、あなたが一番好きなんだよ。時々、会いに来てくれるかな)
答えはありません。でも返事があるとしたら、この朝の日差しの中ではないのでしょう。
まだ頭は痛くて、身体は重い。けれど書かねばなりません。
カジキの妖精の……ルーチェの想いに、応えるためにも。
私はしばらく考えた後、そっと羽ペンの先をインク壺に浸け、最初の一文を書き始めました。
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