贈物
一ヶ月後。ジェルボー辺境伯の城で、私は常のように溜息をついていました。
辺境伯が統べるモンターニュの地で、婚礼は盛大に執り行われました。一面にステンドグラスが輝く豪奢な教会で、私と辺境伯は永遠の愛を誓い、キスを交わしました。
けれど、その先……ほんとうの「夫婦」には、私たちはまだなっていません。
最初の夜、白絹の天蓋がついた大きなベッドを前に、私は取り乱してしまいました。はじめは立ち尽くして涙を流すだけでしたが、辺境伯に肩を触られたとたん、泣き叫んでしまいました。うずくまり頭を振り、差し出された手を叩き――離縁されてもおかしくないほどに。
それでも、辺境伯は優しく笑いかけてくださいました。怖いなら無理強いはしない、いつまででも待っていますよと。
以後も何度か、私は辺境伯の寝所を訪れました。けれどいつも、ベッドを前にすると怖くなってしまうのです。
そのたび、辺境伯はやさしい言葉をかけてくださいました。けれど、限界は近いだろうとも思いました。
モンターニュの九月はエストゥアーリョよりずっと涼しく、夜に暑気はありません。快適なはずの気候さえ、ルーチェとのむせ返るような抱擁の記憶を奪っていくようで、寂しくなります。
目の前の化粧台に、小箱が置いてあります。私が輿入れに旅立つ前日、ルーチェが贈ってくれました。山暮らしに耐えられなくなったら、エストゥアーリョの地が恋しくなったら、開けるよう言って。
ならば、今がその時でしょう。
私は小箱を開けました。中には粉が詰まった小瓶と、一通の手紙が入っていました。
『アマーリアお嬢様へ
そちらでの暮らしはいかがですか。これを開けておられるのでしたら、きっと辛いことがおありなのでしょう。
お嬢様がもし、我慢できないくらい辛くなったら、一緒に入れた香草の瓶を開けてください。
お嬢様の大好きな、カジキの香草焼きに使う配合です。
そちらの料理にたっぷりかけてお召し上がりください。
先方の料理人には失礼にあたるでしょうから、必ずご自分お一人だけで、こっそり食べてください。――』
言葉遣いが話し言葉と違うせいで、奇妙な気持ちになります。あの子は読み書きができませんから、料理長あたりに代筆を頼んだのでしょう。
瓶を開けてみました。
バジルとオレガノが混ざった、爽やかで少し青臭い香りが立ち上りました。ルーチェの香草焼きの匂いと同じでした。香ばしい魚油の香りはありませんでしたが、それでも、白磁の皿に乗った香ばしいカジキ肉の姿は、くっきり瞼の裏に浮かんできました。いつも添えてあったルッコラとポルチーニのサラダまでもが、色鮮やかに現れてくるようです。
涙があふれてきたのは、香草の香りが沁みたからではないと思います。
(ありがとう。ルーチェ)
この香草は少しずつ使おう、エストゥアーリョを長く思い出せるように――と思いつつ、続きを読みました。
『――お召し上がりの際には、必ず一瓶を一度に使ってください。少しずつ長く使おうとは思わないでください。
そしてお召し上がりの前に、エストゥアーリョの厨房に一言お手紙を書いてください。
そうしたら、私もこのエストゥアーリョで、同じ配合の香草焼きを食べます。
お嬢様がお手紙をくださることが、ないことを祈っています。
ですが辛くなったら、どうぞ遠慮しないでくださいませ。
エストゥアーリョの厨房より』
不思議な内容でした。
瓶は小さな香水入れほどの大きさで、調味料としては結構な量があります。一度にかければ相当に濃い味になってしまいそうです。けれど、なにか意図はあるのでしょう。
明日の夕食を一皿持ち帰って、この瓶の中身を使ってみようと決めました。
懐かしいエストゥアーリョ。愛おしいルーチェ。
あの地で、ルーチェも同じ香りを口にしてくれる。
私はエストゥアーリョの伯爵家厨房へ向けて、これから瓶を開ける旨の手紙をしたためました。そして次の日の朝、都市間飛脚に託しました。
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