香草、秋桜、カジキの妖精
五色ひいらぎ
悲嘆
「お嬢様、そう泣かないでくださいまし」
固い小さな手が、私の頬をそっと包みます。それでも、あふれ落ちる涙は止まりませんでした。
夏の熱気が、夜になっても厨房を包んでいます。触れてもらったところに、薄い汗が滲んでいました。
「だって……あと一週間なのよ」
すぐ前にあるはずのくりくりした青い目も、縮れた茶色の髪も、そばかすだらけの顔も、涙で霞んで見えません。
「嫌よ。嫌よ……あの方、お父様と一つしか違わないんでしょう。そんな方と
考えるたび、身体の奥に怖気がわきあがります。
山深い地モンターニュの領主、レイモン・バスチアン・ド・ジェルボー辺境伯――名しか知らない遠い国の、顔も知らない御方。御年は三十八、私の倍以上。
「何年も前から、決まっていたことじゃありませんか。アマーリアお嬢様」
もう一方の小さな手が、ぽんぽんと肩を叩きます。
「レイモン様はお優しい方だって話ですよ。臣下にも領民にも評判が良いし、前の奥方とも円満だったと聞いてます。お嬢様は大船に乗ったつもりで――」
「そんなんじゃない!」
頬の手を振り払い、叫びます。
なにもわかってない。何が嫌なのか、全然わかってない。
「もう食べられないのよ……カジキの香草焼きも、海老のフリットも」
「山の中にもおいしいものはありますよ、お嬢様」
「違うのよ!」
肩の手も払いのけ、私は目の前の娘――ルーチェの両肩を揺すりました。
「あなたのじゃなきゃ嫌なの。あなたの作るカルパッチョじゃなきゃ、あなたのスープじゃなきゃ」
「ですからお嬢様――」
私は強引に、彼女を抱き寄せました。
そうして唇を、私の唇で強引に塞ぎました。
ああ。
これまで何度、厨房での逢瀬を重ねてきたでしょう。
彼女は私が好む料理を作り、私は密かな愛を伝える。至福の時間でした。ことに彼女が焼くカジキの香草焼きは、バジルやオレガノの配合が絶妙で、かすかに青臭い芳香と魚の脂がとろけるように美味しいのです。夏から秋にかけて、彼女の焼くカジキは、まさしく天上の美味なのです……この、くちづけのように。
「わかったでしょう」
ゆっくり唇を離しつつ、私は潜めた声で言いました。
「あなたじゃない人と、こんなことしたくない」
ルーチェは、油とソースの染みたエプロンを片手で握りつつ、悲しそうに頭を振りました。
「だめですよ……お嬢様」
「何がだめなの」
「ほんとはあたしら、こんなことしちゃいけねえです。アマーリアさまはお嬢様で、あたしはただの料理人で……お嬢様もあたしも女で――」
「じゃあ、ルーチェは」
私は、うつむいた彼女をきつく抱きしめました。
「平気なの? 私が、あなたじゃない誰かと、こんなことをして」
「そ……それは」
ルーチェの声に、わずかに震えが混じります。
「そんなこと、あたしが考えちゃいけねえです」
「考えてよ」
冷たく、言い放ちます。
「考えてみて。私があなたじゃない誰かに、抱き締められたりキスされたり……それより先のこと、されてるところ。ルーチェは平気なの。嫌じゃないの」
ルーチェはしばらく黙り込みました。小さな肩が、力なくうなだれています。
何度か肩を揺すってやると、ようやく彼女は口を開きました。
「嫌じゃないはず、ねえですよ」
震える声で、ルーチェは言いました。
「でもどうしようもねえです。ずっと前から決まってたことです。いやもっと前、お嬢様とあたしが、お嬢様とあたしに生まれたときから、決まってたことです」
「決まってたことだから、どうしようもない。そう言いたいのね」
「だったら、あたしはどうすればいいってんですか!」
突然の大声に、びくりと身が震えます。
今度はルーチェが、二本の腕を私の背に回しました。固い指が、毎日私のために料理を作ってくれた掌が、薄いネグリジェ越しに感じられました。
「考えたって、なんも変わらねえです。どうしようもねえこと、考えたって……どうしようも、ねえじゃ、ねえですか!」
私の胸に顔をうずめ、わんわんと声を上げてルーチェは泣きました。
私も、泣きました。
蒸し暑い調理場の中、染みついた油と香草の匂いに包まれながら、私たちはいつまでも、泣く力が果てるまで泣いていました。
泣き疲れ、私たちは調理場の床にぐったりと屈み込んでいました。と、ルーチェがゆっくりと顔を上げました。
「アマーリアお嬢様」
涙でぐちゃぐちゃになった顔が、なぜか晴れやかに笑っていました。
「あたし、いいこと考えたですよ。一週間のうちに、用意しておくですよ」
「何を?」
「向こうでお嬢様が寂しくないように、プレゼントを考えたですよ。旅立たれるまでには用意しとくです。だから」
ルーチェは自分の袖で、私の頬を拭ってくれました。ごわごわした麻の感触が、涙を吸っていきます。
「お嬢様は笑っててくだせえ。泣いてばかりじゃ、綺麗なお顔が台無しですんで!」
いつもの青い目と縮れた茶の髪が、目の前できらきらと笑いました。
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