抜かずの剣鬼

兵藤晴佳

抜かずの剣鬼

 昔々、とある町のとある長屋にひとりの浪人者がおりました。名をさきがけ李五郎りごろうと申しまして、傘を張ったり近所の子供に読み書きを教えたりしながら、貧しい暮らしをしておりました。

 しかし、至って根は優しく、自分貧しい者には銭や食べ物を分け与え、街中でいさかいを見かければ、自分が殴られてでも止めに入るのでした。

 ある日のことでございます。

 この李五郎、杖を手にした老人が、町でならず者に足を踏んだ踏まないの難癖をつけられているのを見かけました。払わなくてもよい詫び料を払った上に、腹をすかせたお年寄りを長屋へ連れて帰り、なけなしの米を粥にして振る舞ったのでございます。

 老人はたいそう感じ入った様子で尋ねました。

「若いうちから、こんなご苦労をなさるお方とは思えません。よろしければ、身の上に何があったかお聞かせ願えますまいか」

 そんなことを人から聞かれたこともなかった李五郎でございます。

 正座したまま唇を噛みしめておりましたが、やがて、堰を切ったように語りはじめました」

「恥ずかしながら、もとは一刀を手に、さる大名に仕えて武芸を磨き、いずれは剣術の指南役にもなろうかとさえ噂された身。その評判が慢心を招いたのでございましょう、その指南役を選ぶ御前試合で思わぬ惨敗を晒す始末。いたたまれずにその場から逐電して今ではこの有様、もはや再び人と争いたいとも思いませぬ。」

 すると老人は莞爾と微笑みました。

「実は私も、いささか武芸の心得がございます。お望みなら、二刀流を授けて進ぜましょう」

 李五郎も半信半疑ながら、かつての武芸者の血が騒いだのか、半刻ほどの間、二刀流の手ほどきを受けたのでございます。

 秘術の全てを伝え終わった老人は、去り際に深々と一礼すると、こう告げました。

「この二刀の技に敵う男は天下におりますまいが、いさかいを自ら起こしてはなりませんぞ」

 そこで聞えてきたのは、長屋の人々が騒ぐ声です。

「おい、近所の辻で敵討ちだぜ!」

 周りの野次馬たちに流されるようにして行ってみますと、見るからに偉そうな侍が大刀を手に、短刀を落とした白装束の娘を追い詰めております。

 久しく燃え上がることのなかった熱い血が前身を駆け巡るのを覚えた李五郎、左手に大刀、右手に小太刀を引き抜いて名乗りを上げます。

「魁李五郎、義によって助太刀いたす!」

 街の人たち上がるのは、やんやの喝采。

 これに顔をしかめた侍が大刀を構えれば、小太刀を構えながら大刀を振り上げた李五郎に分があるのが道理でございます。

 侍が刀を振りかぶったところで間合いを詰めて、その喉元に大小の刀をつきつけながら曰く。

「勝負はつき申した。さあ、本懐を」

 ところがその娘、わあわあと声を上げて泣くばかり。野次馬たちの間にも、ため息やひそひそ話が交わされます。

 そこで響き渡ったのは、李五郎の高らかな声でございました。

「これにて茶番はお開きでござる! 拙者にお捻りは無用、これにてご免!」

 そういうが早いか、相手の侍は何処かヘ逃げ去り、二刀を収めた李五郎も、そそくさとその場を立ち去ります。

 残されたのは白装束の娘と、その周りにうずたかく降り積もる、お捻りの山でございました。

 仇討の場を茶にしてみせた李五郎ではございましたが、その二刀の技と振る舞いの鮮やかさは、瞬く間に街の評判となります。

 まずは長屋の中で、そして近所で、街中で祭り上げられるようになった李五郎が、かつて御前試合に敗れてひしゃげた心が再び頭をもたげるのを感じたとしても、それは無理からぬことでございましょう。

 いつしか目に浮かぶようになったのは、忘れようとしていた、そして忘れかけていた、故郷のことでございます。

 かつて逃げ出した土地に、錦を着て帰るのはまさに男子の本懐といったところでございましょうか。こうなると李五郎、居ても立ってもおられません。

 まずは、あの老人から伝えられた剣技で掴んだ勝ちがまぐれ当たりではなかったか、それが気がかりでございました。あちこちの剣術道場を渡り歩いては、二刀の技で高弟たちや師範たちに挑みます。

 もちろん、木刀と木刀の対決でございますが、防具も何も着けないのですから、下手をすれば命がないことも。

 達人同士ならば、ほとんど真剣勝負と言っても差し支えはございません。

 まずは、正眼に構えた刀を裂帛の気合と共に繰り出す正攻法の剣。

 李五郎はこれを小太刀で簡単に受け流し、相手の脳天に大刀を強かに打ち込みます。

 ふらふらになって倒れながら、師範は呻き声と共に告げました。

「打ち込みの間合いで及ばなんだ。もっと速い剣に向こうては、おぬしも凌げまいよ」

 そこで李五郎が向かったのは、凄まじい速さで小太刀を振るう流派でございます。

 それでも、右へ左へ叩きこまれる高速の剣も、二本の刀で受けられてしまっては意味がありません。そのうちに相手の方が疲れてきて、小太刀を握る力もなくなってまいります。

 小太刀が李五郎の木刀で道場の隅に弾き飛ばされると、師範の留守を守っていた高弟は、苦しい息の下で負け惜しみを言った。

「見切れてはいたのだ。だが、身体がついてこなかった」

 そして李五郎が向かったのは、この辺りで最も多くの門人を抱える、古くから名の知れた道場でした。

 挑んだのは、その場に集った全員。

「ひとりひとり相手にするのはまどろっこしい!」

 名前も知らないような道場破りの挑戦に、門人たちはいきり立ちました。

 師範も高弟も、ヒラの修行者もありません。ほとんど同時に責めかかってきます。しかし、どれほどの数で迫ってこようと、李五郎の二刀流の敵ではありませんでした。

 小太刀で受け流し、遮り、牽制して大刀を振るうだけで、門人たちは次々に倒されていきます。最後のひとりは、その道場の師匠でした。

「いざ……参れ」

 声も構えも落ち着いたものでしたが、太鼓でも叩くように降り注いでくる、小太刀と大刀をかわしきるだけの力は残っていなかったようでございます。

 李五郎の大刀で脳天を強かに打たれた師匠は、その場にガックリと崩れ落ちます。そこで聞こえたのは、思わせぶりなひとことでした。

「技は確かだが、二刀であるが故に逃れられぬことがある。それは……」

 その声は最後まで聞こえることはありませんでしたが、こうなると、もう李五郎に恐れるものはありません。

 再び故郷へ戻って、かつて自分を打ち負かした者たちを破り、かつての名声を取り戻す。

 そう思うと、かつて自分がそうだったような、未熟で力の及ばない者たちが、哀れに思えてきてしかたがないのでした。

 故郷へ向かって旅立ってから、どれほどの時が経ったでしょうか。

 道中で、男装したひとりの娘が道端で居合抜きの芸を見せているのに、李五郎は気が付きました。

「さあ、お立合い! この細腕で、遥かに長いこの太刀、抜いてごらんに入れましょう!」

 言うなり引き抜いた刀は、目の前の太い巻き藁を、大根か何かのようにすっぱりと切ってしまいます。その刀はやはり娘の腕より長いのですから、見ている人たちからは拍手喝采が聞こえます。

 李五郎もつい見とれてしまいましたが、こんな小娘がと思うと、心のどこかに面白くない気持ちがむくむくと湧き上がってまいりました。

「確かに藁は切れましょう。それで野良仕事でもなさるとよろしい」

 そう声をかけたところで、誰かが気づいたようでございます。

「二刀流の魁李五郎殿ではござらんか?」

 こんなところにまでその名が知れ渡っているのか、辺りは大騒ぎになりました。

「では、技比べをしてはどうか?」

「果し合いか?」

「いや、こんな小娘を相手に?」

「いやいや、勝負は分からんぞ……」

 そこで目を丸くしたのは、居合抜きの娘でございます。

「その節は、お世話になりました。何とお礼を申してよいやら……」

 見れば、あの仇討ちの娘が深々と頭を下げています。

 李五郎も驚いて尋ねないではいられません。

「これだけの腕がありながら、なぜあの侍が斬れなかったのです?」

 娘は晴れ晴れとした顔で答えます。

「今でこそ、これは路銀稼ぎですが、女の身一つで父の仇を探し求めることができましたのも、その父が教えを受けた剣術の師匠に授かったこの技があればこそ。しかし、剣の速さで人を脅しつけることができるばかりで、斬り捨てるほどの覚悟は座っておりませんでした。李五郎さまの技と徳のおかげで、恨みも業も涙と共に流れてしまいました。何とお礼を申してよいやら」

 そのように拝まれては、技比べなどできようはずもないのですが、見ている者は納得しません。

「何やってんだ!」

「女ひとりに!」

「今までの勝負は八百長か!」

 故郷に錦を飾る前に、これまでの評判を落とすわけにもまいりません。

 そこで李五郎は、こう持ち掛けます。

「技を見て進ぜましょう。斬り込んでごらんなさい」

 二刀を抜いてみせると、娘も刀を鞘に収めます

 右に左に足を踏み替え再び放つ、抜く手も見せぬ一刀の速いこと!

 あっと気付いたときには、刀を持つ両の手がお互いの邪魔をしあって、思うように動けません。

 しまったと李五郎が思ったとき、目の前に飛び込んできた小柄な影がございます。

 見れば、覚えのある老人が、仕込み杖を抜いて娘の刀を受け止めております。

「お師匠様!」

 娘が叫ぶのには返事もせず、老人は李五郎を叱り飛ばしました。

「バカ者めが! 確かにどんな男も敵いはせんが、いさかいを起こすなと言うたではないか! 面白半分の喧嘩が、命懸けの芸に敵うはずはあるまい!」

 この老人、娘の道中を気遣ってずっと陰から見守っていただけでなく、人を斬れないのを知っていて、李五郎に二刀流を授けて仇討の場へ導いたのだとか。

 こうして、身ごなしの鮮やかな娘の放つ神速の剣に敗れた李五郎は、故郷に帰ってもその技を誇るようなことはなかったということです。しかし、常に己の未熟を恥じて人と事を構えない人柄ゆえに、かえってその名声は高まり、「抜かずの剣鬼」と呼ばれるようになったということでございます。

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抜かずの剣鬼 兵藤晴佳 @hyoudo

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