第735話

 己の一撃が誰もいない場所に放たれたことに、ゼウスはほんの僅かな時間ではあるが、その思考を軽く止めてしまっていた。


 そして、己の鎧に触れる一人の男の姿を見て、ゼウスは驚愕に顔を歪め、反射的に腕を振る。


『おやおや、相変わらず手が早いですねぇ! 私がいなくなる前から随分と生き急いでいるようでしたが、今もそれ程変わらないようだ!』


『貴様!!! 俺の鎧に何をしたッ!?』


 その男がゼウスの鎧に触れた影響は、戦っていた全ての神々が即座に理解した。体にのしかかっていた重圧が、何もなかったかのように霧散しているのだ。


『そりゃぁ、貴方の鎧は色々と面倒ですから。先に封じさせて頂いただけですよ?』


 そう言って、その背に『四対八枚』の白い翼を広げる天使の男。その顔には丸いレンズのサングラスがあり、糸目がちな目と合わせて溢れんばかりの胡散臭さを漂わせている。




『黒の鎧の銘は【恐怖】でしたか。周りを威圧するという意味では、確かに強い鎧ですからねぇ』




 黒い神父服を纏ったその天使は、ゼウスに嘲笑を浴びせながら、その鎧の種明かしをした。


 ゼウスの纏う黒い鎧の名は『恐怖』と言い、見るもの全てに恐怖心を刺激する形で威圧するという、教えられなければわからないような効果を有している。


『貴様、何故それを!?』


『そりゃ知ってますとも! 何せ、その鎧の事は貴方の父君や祖父君からしっかりと教えてもらっていましたから!』


 ニヤニヤとした笑みを崩さない謎の天使を訝しむゼウス。だが、頭の奥底に僅かばかりではあるが残っていたその記憶が、その男の正体を教えてくれた。




『まさか、貴様は――――ッ!?』






『えぇ、えぇ!!! お久し振りですねぇ!!! こうして顔を合わせるのは、貴方の父君を欺いていた顔合わせの時以来でしたか!!!』




 ゼウスはその男を知っていた。嘗て、己がまだ幼い赤子であった頃、クロノスの目を欺いて己の黒い欲を隠して過ごしていた時に、ゼウスは顔を合わせた事があったのだ。


『貴様はあの時――――いや、そうかッ!!!』


『おや? もう答えが出てしまいましたか。それは少々つまらないですねぇ……』


 初めて目を合わせ、その男が危険な存在であると赤子の時に気付いていた。特に、誰かを『欺く』ことに関しては己以上であると、たった一度の邂逅で気付いていた筈。


 だからこそ、ゼウスはその男を奸計で排除した。そう、その時は排除出来ていたと思っていたのだ。


『さて、貴方は少々世を乱し過ぎました。ウラノス様からも【例え儂の身内であろうと世を乱す悪となれば惑う事無く討て】と命じられておりますからね』


 そう言って、手のひらを下に向けて白い魔法陣を空に浮かべると、そこから顔を出した物を掴み取り、軽く力を入れて一息で引き抜く。


 それは、背面に柄がある巨大な十字架。磔にされた聖人を象った、見る人によって冒涜的と言われるようなそれを構え、角錐状の先端をゼウスに向ける。


 その姿を見て動揺していたのは、ゼウスだけではない。彼に庇われたと気付いたルシファーもまた、その背中を見て戦慄き、そして――――


『せ、先生…………?』


『いやはや! 見習い天使だったルシフェル君も、随分と立派な天使になりましたね! 出来ることならば、その成長を間近で見守ってみたかったですよ!』


 その男のことを『先生』と呼ぶ。仮にも一時期四大天使に数えられる天使に上り詰めた熾天使が、だ。


『積もる話はあるでしょうが、今は後にしましょう。そのお友達を連れて、疾く此処を離れなさい』


『――ッ! 先生、御武運を!!!』


 ボロボロのサタンを抱え、フラつきながらもその場を離れるルシファー。その間にも、ゼウスは大量の雷球を周りに浮かべ、先生と呼ばれた男を警戒している。


『さてさてさぁて? その様子だと、私のことはしっかりと思い出せたようですけど、大人しく此処で死んでくれたりはしませんかねぇ?』


『残念だが、それは御免被るよ。寄りにもよって、殺したと思っていた貴様が生きているのだからな!』


 そう言って、全ての雷球を一斉に放ち、網のように通電させて隙間を無くした巨大な雷の波がその男をズタズタに引き裂かんと襲い掛かる。


――――だが、その天使の男はゼウスが己以上と認識した数少ない欺術師トリックスターだ。




『おやおや? 自分で言っておきながら、私の本質を忘れるとは随分と耄碌しましたねぇ?』




 ゼウスの背後から聞こえる男の声。即座に雷球の波を動かして、反転した雷の波がゼウスの背後に次々と弧を描いて落下していく。


 だが、そこには一切誰もいない。考えてみれば、背中から聞こえてきたのは声だけであり、姿を確認したわけではない。


『あらら? 随分と簡単に引っ掛かりましたね?』


『――――チッ!!! だからテメェだけは先に殺しておきたかったんだよッ!!!』


 即座に自分が騙されたと理解したゼウスは、雷槍を薙いでその男を斬り裂こうとした――――






『おや、私ばかり見ていていいので?』




『あ? テメェ、何を――――』






 ほんの僅かに振るう手を緩めたゼウス。その横っ面を、同じ四対八枚の翼を広げた天使の拳が打ち抜き、ゼウスの身体が衝撃でゴロゴロと横に転がる。


『うひゃ〜……流石に痛そうですねぇ』


『そりゃぁ、殺すつもりでぶん殴ったし?』


『相変わらず容赦無いねぇ、ジュゼッペ……』


『加減して生き残られた方が面倒だろう、ミシェル?』


『まぁまぁ、あんなんで死ぬんだったらミシェルの予言もすぐに訪れているものですよ、セント?』


 今、戦場には四対八枚の翼を有する天使が四人も集まっていた。


 一人は先生と呼ばれた、十字架をその手に持つ神父服を着た胡散臭い白髪の天使。そして、ゼウスの横っ面を殴り飛ばした、白い神父服に身を包んだクリーム色の柔らかそうな髪の天使。


 そして、後から現れたのは腕の先からくるぶしの辺りまで覆い隠す長いローブを纏う大鎌と経典のような本を手に持った黒髪の天使と、乱れた青黒い髪に貴族風の衣装で身を包んだ権杖を持つ天使の二人。


 皆が皆親しい間柄なのか、ゼウスを前にしてもかなり朗らかな様子で軽い会話を楽しんでいる。



『――――成る程なぁ!!! テメェ等全員、俺の目を欺いたってわけか!!!』



『おや、まだまだ元気ですねぇ〜! あ、先程の答えはイエスと答えさせて頂きましょう!』




 そう言って、改めて十字架を構え直す天使。他の天使達も、己の武器を構えてゼウスの命を刈り取らんと相対する。


『歴史の闇に消えたと思っていたが、くたばったジジイの遺言をキッチリ聞いて隠れ潜んでたんだなぁ! 随分と御苦労なこった!!!』


『いやはや! 貴方達が想定以上に鈍くて助かりましたよ! お陰様で【グレゴリー】なんてあからさまな偽名でもゆっくりと隠遁生活が出来ましたからね!』




『『『…………隠遁?』』』







『ちょっ!? 皆さん酷くないですか!?』







 三人の息のあった疑問に、思わず振り返って文句を言う先生と呼ばれた天使。


 その隙を逃すまいと、ゼウスは直ぐ様雷槍を投げつける――――が、それもまた彼らの遥か頭上を通過して、誰もいない山の中腹に突き刺さる。



『ん〜……? これ、忘れちゃってるっぽいんで一回名乗り直した方が良さそうですね!』


 尤も、そのように仕向けた先生の表情は相変わらず笑みを浮かべたものであり、一度十字架から手を離すと、腹に左手を当ててゆっくりと執事のように深々と礼をし、そしてその名を名乗る。




『私は【虚飾の大罪】グレゴリー・ラスプーチン。二度目ましてになりますが、最後くらいはしっかりと名を覚えて冥府に御帰り頂ければと思います』



 嘗てゼウスの奸計で追われる身となりつつも、追手となった天使は疎か、ゼウスに討たれたウラノスやクロノスらの目さえも欺いて隠れ潜んだラスプーチン。


 それに合わせて、他の三人もまた礼と共にゼウスに名を名乗る。



『……【憂鬱の大罪】ミシェル・ノストラダムス。死にゆく貴方に、最後の礼を』



 全てを見通す予言の目を持つが故に、この世界の全ての終わりを知り、そして変えられぬ運命に絶望して鬱に染まったノストラダムスが、再び己が手の予言書を開き、その黒い髪に隠された目でゼウスを捉える。



『ふむ……【不死の大罪】サン・ジェルマン。安心しろ。お前が生きていたことは、私が永遠に後世へ語り継いでやろう』



 嘗てクロノスが育てていた果実を喰らい、許されざる不老不死の身として永遠に生き続ける事になった青黒い髪のサン・ジェルマンが、権杖の蛇眼を淡く輝かせて不敵な笑みを浮かべる。



『んじゃぁ……【無辜の大罪】アレッサンドロ・ディ・カリオストロ! 取り敢えず、皆の未来の為に此処で死んでもらうね?』



 神に仕える天使でありながら他の天使や聖人、神々を殺し、そのような大罪を犯しておきながらそれを罪と認識していないアレッサンドロ・ディ・カリオストロが、クリーム色の髪を揺らしながら拳を鳴らす。




 四人の天使の名は完全に闇の中へと葬られており、彼らの名を知る者は僅かばかりの関わりを持つ者しか存在しない。


 だが、もし知る者がいたとしたら、彼らの事をこう言い表すだろう。











――――嘗ての熾天使、或いは【旧四大天使】と。

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