第727話

 テュポーンの剛拳は、ゼウスの顔面を打ったことで赤々とした血に濡れていた。


『――――あの時の借り、返しに来てやったぞ』


『――――クハ…………借りたまま、返さんで良かったんだぞ?』


 片膝をついたゼウスが、己の鼻から滴り落ちる血を親指で拭い取る。


 ゼウスの顔面を出会い頭に殴り飛ばしたテュポーンは、ゴキゴキと首の骨と拳を鳴らしながら、蛇鱗に覆われた足でゆっくりとゼウスに近付いていく。






『『――――オォォォォォォォォォォッ!!!』』






 そして、立ち上がって駆け出したゼウスと、同じく駆け出したテュポーンが、正面切って殴り合いを始め出した。


 ゼウスは雷を、テュポーンは暴風を腕に纏わせて、周りの被害など一切考慮せず、只々剛腕に物を言わせて顔や胸、腹を殴る。


 両者共、その一打一打に並々ならぬ力を込めており、体を打つ度に電流や暴風が迸って周囲に影響を与えていた。


『ガッ!!!』


『らァッ!!!』


 そこに混じる蹴りや肘打ち。パンクラチオンのような正々堂々とした殴り合いは、テュポーンの優勢で進んでいた。


 勿論、ゼウスも膂力という意味ではテュポーンに負けず劣らずの神ではある。


 だが、嘗てゼウスが唯一勝てない相手と認めていたテュポーンは、封印から解放されたこともあってか当時の倍以上の強さを以てゼウスとの決戦に臨んでいた。


 故に、常日頃から怠惰に暮らし過ごしていたゼウスの微かに鈍った腕前では、テュポーンという復讐の化身にどうしても劣っているのである。


『どうしたどうしたァ!!! 随分と腕が鈍ったようだなぁ!!!』


『ほざけェッ!!! 穴蔵暮らしの引きこもりが、調子に乗るんじゃねぇッ!!!』


 そう言って、テュポーンの顔面に頭突きを食らわせるゼウス。


 だが、その頭突きを受けたテュポーンはそのまま頭を後ろに引き、お返しと言わんばかりの威力で正面から思いっきり頭突きし返して、ゼウスの鼻から血を噴き出させる。


 思わず怯み、たたらを踏んだゼウス。だが、顔を軽く抑えるフリをしながらテュポーンの腹部に向かってアッパーを打ち込み、狂ったように両手の拳でテュポーンの体を乱れ打つ。





『鬱陶しいなぁ、オイ――――!!!』





『――――ガハッ!?』






 それに対するテュポーンの反撃は、たった一発のボディブロー。


 ゼウスの体は軽く浮き上がり、口から息と唾を吐いてゼウスは後ろに吹き飛び、地面を軽く転がる。


 身に纏う光輝の鎧もヒビ割れてボロボロで、肩や腰回りのパーツは破損して吹き飛んでしまっていた。


『……カカッ!!! 相変わらず、その馬鹿力は健在のようじゃのぅ!!!』


 そんな状態で尚、ゼウスはテュポーンを前にして獰猛な笑みを浮かべ、堂々と立ち上がって首を鳴らしてみせた。


『碌にダメージも与えられねぇ老いぼれが、粋がってんじゃねぇぞ?』


『歳を言ったら大差ねぇだろうよ。それに、やり過ぎると後々立て直すのに面倒クセェ事になる』


 こんな状況でも、ゼウスが考えているのは自身が勝った後の舵取りについてのみ。


 どんな相手であろうと己の勝ちは揺るがない。そんな全知全能を自称するプライドが生んだ謎の自信は、多対一のこの状況でもゼウスに余裕を作らせていた。


 まぁ、ゼウスの言うことにも一理ある。今のところ帝国は滅ぼすということで動いている世界だが、滅ぼした後の帝国領の扱いについては全く触れていないのだ。


 地面を割ったり燃やしたり砕いたりと、後の事など一切考えずに大暴れしているわけだが、仮にここをフランガ王国やケーニカンス獣王国等で管理するとなると、完全に不良債権化するのが目に見えてわかる。




『生憎と、この後の事を考えるのはウチ等なんでね。テメェみてぇな害悪なジジィはとっととくたばって消えてくれ』


『随分とデケェ口叩くようになったなぁ、テュポーン。そんなに、テメェのかぁちゃんぶっ殺した事を根に持ってんのかぁ?』




 ゼウスがそう語った瞬間、テュポーンの左拳がゼウスの顔面を狙う。


 だが、今度はその拳が顔面に突き刺さることはなく、ゼウスの右手が正面からしっかりと掴み取ってその一撃を止めていた。


 そして、今度はゼウスが左手でテュポーンの顔を狙ってジャブを放ち、テュポーンの右手がそれを止めようとする。


 その瞬間、本能的に両腕を交差して防御の構えを取ろうとするテュポーン。ゼウスに掴まれた左腕はかなり遅れたが、どうにか利き手の前に出して盾にする事ができた。



――――ドンッ!!!



『――――ぐっ!?』



 ゼウスの拳とテュポーンの腕が衝突した時、ドンッという重い音が鳴り響く。


 その威力たるや、テュポーンの巨体が無理矢理後ろに下げさせられる程のもので、地面にはテュポーンの足で削られた跡が生まれていた。


 何より、盾にしたテュポーンの左腕にはゼウスの拳の跡がクッキリと残っており、徐々にそれは痣へと姿を変え始めていく。



『テメェ、手ぇ抜いてやがったな?』


『疲れるのは好きじゃないんでね。それに、老人を労る気の無い若者に失望したってのもあるかのぅ』



 世界の災禍の多くで糸を引いていた主神は、嘗ての宿敵が現れて尚、その力をセーブするだけの余力を残していた。


『例え死んだとしても、儂を崇めていたことには変わりない。寧ろ、死の間際でより一層儂に信心深く祈りを捧げておったわ』


『――――テメェ、そういう絡繰かッ!!!』


 その言葉だけで、テュポーンはゼウスの余裕でいられる理由を理解した。


 各地で神に祈りを捧げる帝国軍や聖職者。彼らの祈りは、しっかりとゼウスの元にまで届いていたのだ。


 ただ、彼らの望む救いだけが無かった。正確に言えば、ゼウスには自らを崇める信徒を救うという考えがなかった。


『儂に力を与えて逝くんじゃ。人の身には余る光栄じゃろ?』


 そう言ってニヤリと笑ってみせるゼウス。帝国の闇の根源とも呼べる神は、自己以外の死を気にすることはない。


 寧ろ、己の一助になったのであれば、例え死んだとしても身に余る光栄だろう。と、平然と言ってのけたのである。



『さぁて、殴り合いは少々飽きた。貴様との因縁も、コレで終いにしよう』



 ゼウスの手からバチバチと雷が迸って、再び雷槍がその手に握られる。


 それを見て、テュポーンも暴風を槍の形に変えて、ゼウスに対しその槍で斬り掛かる。


 雷槍と風槍の衝突は、その余波で周囲に残っていた木々を薙ぎ払い、地上に散らばる土塊や岩を吹き飛ばして、更には山の斜面さえ風圧で押して徐々になだらかにしてしまった。


『流石はキュクロプスの名工が手掛けしケラウノスだな!!! 貴様が使い手でなければ、今頃俺の身体は真っ二つになっていただろうよ!!!』


『そうじゃのぅ。儂が振るえば、貴様のデカいだけの身体も大半は消し飛ぶだろうからなぁ』


 暴風の槍は雷槍と違い、テュポーンの力を使って生み出した得物。ケラウノスという雷槍を体内に宿すような形で振るうゼウスとは、得物の質で陰りが見えていた。


 だからこそ、テュポーンは躊躇せずポセイドンから奪い取っていた三叉槍であるトライデントを手繰り寄せる。こんな事もあろうかと、少しばかり離れた場所に突き刺していたのだ。


『ほぅ……? 貴様がその槍を持っているということは、ポセイドンは既に逝ったか……』


『悪いが、貴様の兄弟は先に殺ってやったよ』


『これもまた戦場の習いというもの。何より、ポセイドンに貴様の相手は荷が重かっただろうからの』


 自身の兄弟であるポセイドンが死んだと知って尚、その態度を揺らがせないゼウス。


 父殺しを成した神にとって、兄弟の死など深く受け取る必要のない些事だということが、今ここで証明された。





『じゃぁ、続きといこうじゃねぇか……!!!』





――――そんな罪深きゼウスに対し、そのトライデントを構えたテュポーンは、槍に嵐を纏って再び挑み始めた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る