第716話

 帝国海軍の度重なる敗戦は、帝国本土より先にとある勢力を追い詰めていた。


 それは、帝国の北東にある大きな島。人との関わりを絶つ事を名目に、選民思想を超えてハイエルフ史上主義を掲げた、ハイエルフの里がそこにあった。


「急げ!!! 役立たずの帝国軍が、敵を引き連れてきたぞ!!!」


 バタバタと騒ぎ出すエルフの兵士達が、木で出来た簡素で粗末な砦で騒ぎ出す。


 エルフ達は森の中で力を発揮する種族。その特性として、周りに木々があればある程敵の気配を鋭く察知できるようになる力がある。


 それ故に、態々森の木々を伐り倒して作った木の砦の方が、彼らの特性と相まって防衛設備として向いているのだ。


「全く、帝国軍は一体何をやっているんだ!? 何の為に我等がエルフの出来損ないを下賜していると思っている!!!」


「左様、左様!!! 高貴な我等を守る為だからと、彼奴らの横柄な態度も見逃してやっているというのに!!!」


 人族史上主義を掲げた帝国が帝国なら、同じ方針のハイエルフは当然だが同じような態度を取る。


 尤も、彼らにとって自らハイエルフこそ貴き血筋であり、エルフは従って当然の平民。その他の種族はハイエルフに奉仕する事が使命の奴隷と認識している。


 そのような性格のハイエルフと帝国が上手く付き合っていられたのは、偏に『ゼウス』という共通の神がいたからだ。


 互いに互いを見下している。だが、同じゼウスを崇め恩恵に預かる身として、互いに利を分け合うのも悪くはない。


 そのような考えで、互いに自身に都合の悪い種族や勢力を滅ぼし、得た財貨で贅を凝らした美酒や料理を食らって肥え太る。


 ハイエルフは菜食主義であるが、それは名ばかり。実際に食べるのは外国の植民地から高値で輸送してきた果実や、元が果実だからと高級なワインなのだ。


 甘露なそれらを安定して貪れるように、時にはハイエルフとして知り得る財を蓄えた種族の情報を漏らし、またエルフの中でも力の弱い者や意に反するものを帝国に売り渡した。


「クソっ!!! こういう時に限って役に立たん猿共だ!!!」


 ダンッ! と、島の老木を伐り倒して作った一枚板のテーブルを叩くハイエルフ。テーブルに乗ったゴブレットが衝撃で揺れるが、辛うじてその中のワインは溢れずに済んでいた。


「まぁまぁ、そこまで怒らんでも大丈夫でしょうよ」


「そうですなぁ。何せ、今はディオニュソス様が美酒を嗜みにこの地に訪れているのだ。天使達もいると考えれば、喧しい有象無象などエルフ達と共に簡単に片付けてくれることでしょう」


『……まぁ、そうだね。わざわざミカエルを呼んできたんだ。何処の軍かは分からないが、あっという間に片付けてくれるだろう』


 そう言って、態々この地に足を運んで頂いたディオニュソス様が、テーブル上のゴブレットを手に取って中のワインを飲む。


 今年の春に酒蔵から出したという一品で、その香りは並のワインがドブのように感じる程。まだ飲んではいないが、味を比べれば美酒と汚水くらいの差はあるのだろうと思う。


『……うん、中々いい出来だ。これならば、年を重ねるに連れてもっと良いものになるだろう』


「おぉ! それは良かった!」


「なら、我々はディオニュソス様方の未来に乾杯といきましょうか!」


 そう言って、ハイエルフ達は各々がその手にゴブレットを手に取り、自らが崇める主神と、自分達ハイエルフの繁栄を願って、片手で大きく酒杯を掲げ――――











――――偽りの世界樹と共に、獄炎の中へ消えていった。









 ハイエルフの里を襲ったものは、黒き体に燃え盛る鬣を有した、邪神の名を冠する魔獣。歌姫にはヴォルガルドと呼ばれていた漆黒の獣。


 その真名をフォーマルハウト・イォマグヌット。龍の里を焼き尽くした獣は、守れなかった怒りと共に島の全てを燃え盛る炎に沈める。


『……ァ、ァァァ』


 バキュリ、と噛み砕いた焦げた何かは酒杯を落とし、燃え盛る大樹は苛立った獣の爪を受けて一撃で斬り倒された。


 最早、ハイエルフの里に生きたエルフは一人もいない。島全体が燃え上がり、地面は融解して溶けていき、沿岸は海の水と炎の熱とで一気に白い蒸気を拭き上げる。




……実のところ、フォーマルハウトのように怒りを抱いていたものは多かった。そして、それを帝国にぶつけているものも。




「クソっ!? なんだって急に嵐が吹いてきてるんだ!?」


「逃げろ!!! 櫓が倒れるぞ!!!」


 帝国北部を襲う暴風雨。海は荒れに荒れて、漁師船がその荒れた波に襲われて次々とひっくり返り、そして波に運ばれて家屋へと突き刺さる。


 強い風は粗末な家屋の屋根を飛ばし、脆い建物を横風で無理矢理押し倒し、更に瓦礫を飛ばして他の建物を破壊する。


 その様子を高空から眺める天空の王。この世界でジズと呼ばれている巨鳥は、逃げ惑う民を逃さぬように、大きな竜巻を呼び寄せて空へ飛ばしていた。


 そこに押し寄せる、軍艦の残骸を携えた大津波。これは、海を泳ぐ古代龍が呼び寄せた大津波だろう。


 その津波が漁師町を飲み込み、高台を避けて奥へ奥へと突き進む。途中の防波堤や砦を避けていたのは、その波の先頭に巨大なネズミのような生き物が泳いで先導していたからだ。


 波が防波堤を避けて奥へ突き進む様子を見て、絶望の表情を浮かべる民と兵士達。防波堤の向こうには、北部の住民が食べる為の畑が広がっていたのだ。


 そろそろ収穫の時期も控えていた麦畑が、あっという間に濁流の津波に飲み込まれていく。他より冷えやすく作物の育て難いこの地で育てられる、唯一の麦が泥と塩に食われていく。


 その様子を眺めていた民と兵士達を、濁流に乗って乗り込んだ大型の水棲系モンスターが体当たりをするように襲い掛かり、情け容赦なく彼らも食らっていった。






――――そして、帝国西部。フランガ王国侵攻を控えていたこの地は、帝国最大の穀倉地帯として兵士達の腹に収まる小麦の収穫時期を迎えていた。


 だが、そこに収穫を行う農民の姿はない。何故なら農民達は、兵士達と共に必死に襲い来る『波』から逃げ惑い、遅れたものから波に飲まれていったからだ。


「ギャァァァァァァ――――…………」


「隣家のバルグがやられた!」


「あ、あぁ……神よ……どうか、慈悲を……」


 押し寄せる黒黒とした波。ギチギチ、ガチガチと顎を鳴らす彼らは、統率する主君に従って穀倉地帯の麦を食い荒らし、土壌に塩と油と毒を撒き、逃げ遅れた獲物を骨一つ残さず噛み砕く。


 それは、地を埋め尽くす程のバッタとイナゴの群れ。その目を爛々と赤く輝かせ、従うべき主君の怒りに触れた愚者を食い尽くそうと、波となって突き進む。


「撃て!!! 兎に角撃て!!!」


「奴らがこちらまで来たら、我等も奴らの餌食になるぞ!!!」


 押し寄せる波に魔法を放つ帝国軍や天使達もいたが、乱れた統率で放つ魔法など水鉄砲を撃つようなもの。


 子供の使う玩具で火事を消し止めることなど出来る筈がないように、彼らの魔法さえ飲み込んでバッタ達は天使にすらその顎を突き立てる。


「――――ミカエルがいないのが響きますね……!」


 その波に自らの魔法も撃ち込んでいた茶髪の天使もまた、止まることを知らないその波に対して苦々しげに顔を歪めていた。


「ガブリエル様! これ以上、押し留めることは不可能です!」


「分かっている! だが、ここを抜かれればゼウス様の側にまで彼奴らを近付けることになる! それだけは、何があっても避けなければならない!」


 ゼウスに仕える四大天使の一人であるガブリエルは、そう言って退くことを拒み続けていた。


 ここで退けばこの波は他の地も飲み込み、更には主君であるゼウスにさえ牙を突き立てる可能性さえあるのだ。


「我らが耐えれば、それだけ他の地から来る援軍が間に合うかもしれない! そうでなくとも、後の者が討ち取れるだけの数は減らさなくては――――!」


 そう言って具申した天使から再び黒い波に顔を向けたガブリエル。


 だが、その最奥に飛ぶ影を見て、血が上り始めて赤くなりつつあった顔が一瞬で青褪め、体に抑えることの出来ない震えが押し寄せた。


「まさか……そんな、バカな!? だが、これは!」


「が、ガブリエル様!?」


「――――急げ! 急ぎ、ゼウス様に伝えるのだ! や、奴が、奈落の――――」





 パシュン、と雷光が瞬き、ガブリエルの端正な顔が消し飛ぶ。その姿を見た天使が「は?」と疑問の声を溢した時には、天使もガブリエルの体もバッタ達に飲まれていった。





 ガブリエルを殺したのは、大勢のバッタ達を呼び寄せた紫黒の暗殺者。いや、堂々とその姿を晒している以上、この場では暗殺者というのは相応しくない。


 バッタ達が寄り集まって生まれた黒龍の頭に乗るその男は、守れなかった憤りをその身に宿し、帝国を目指して飛んでいく。


 そんな彼の心の内に宿るのは悔恨。アマネの側を離れたことに対するものでもあるし、嘗てゼウスの手勢に襲われた時、『その時点でゼウスを殺していればよかった』という思いからも来ていた。


 さて、ここでガブリエルが言い掛けていた言葉があったが、それは嘗てゼウスが『奴だけは消さねばならん』と、真っ先に排除を命じた敵。


 そして、襲い来る刺客を討ち滅ぼし、あのルシファーやサタンでさえ、即座に撤退を選択した最強にして最凶の奈落の王。

















――――その王の名を、アバドンと言った。

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