第713話

 ディルガス帝国の南に位置するケーニカンス獣王国では、ウォルク軍と合流した連合軍が帝国領を目指して北上を続けていた。


「周辺のモンスターまで味方というのは、なかなか恐ろしくも頼りになるというか……」


「一周回って帝国が哀れに思えるぜ。まぁ、だからと言って容赦は出来ねぇけどな……」


 獣王国軍もウォルク軍も、追従して帝国領を目指すモンスターの大移動を見て思わずそんな言葉を漏らしている。


 ケーニカンスの国土は大半が未開拓の原野や原生林、荒野などで構成されており、モンスターの生息数はケーニカンスの人口よりも多いと言われることさえある程なのだ。


 そのモンスターが一斉に北上するというスタンピードは、ケーニカンス史上最大のスタンピードとして歴史に記されるかもしれない。


「つっても、ケーニカンスに限った話じゃねぇみたいだがな」


「ああん? そりゃ、どういうことだ?」


「ここに限らず、他の国でも帝国に向かってスタンピードが起きてるんだ。それこそ、海の向こうの大陸でさえもな」


 ウォルク兵の言葉に、獣王国兵の顔が驚愕に歪む。ケーニカンス国内だけでも相当な規模だと言うのに、世界全体で同じようなことが起きているとなると、それは最早異変の一言では片付けられない。


 尤も、彼らが仕える王はこの状況に「そりゃそうなるよな」と理解を示していた。


 となると、上の者は何故このような事態になっているのか全て知っているということなのだろう。


「陸の上だけじゃなく、空を飛べるやつはそのまま飛んで海を渡ってるし、泳げるやつは海を泳いで移動してるぞ」


「後は、どうしても泳げないし飛べないってやつは泳げるデケェ奴らの背中に乗って渡ってるらしいな」


「マジかよ……帝国の奴ら、一体何やらかしたんだ……?」


 フランガ王国に宣戦布告したのは知っているが、スタンピードがそれに関係しているとは思えない。それだったら、疾うの昔に帝国はスタンピードに飲まれて潰れてるだろうからな。


 まぁ、そんなことはもうどうでもいいんだ。一番問題なのは、帝国が我が物顔で建てやがった国境沿いの要塞線だ。


 彼処は俺達獣人を仮想敵として作り上げた堅牢な防衛線。要塞や城砦、巨大な防壁に観測基地と、兎に角俺達獣人が入り込むことを全力で阻止するような厳重さを誇っている。


 国境線がこのザマだから、帝国が奴隷狩りとしてこちらに入り込んできても、その国境線より先まで追い掛けることが出来ないのだ。


「とはいえ、こんだけいるなら突破も出来なくはねぇか。犠牲は覚悟の上だが……」


「単純な兵数だけじゃないさ。周りにいるモンスターも味方として数えられる以上、要塞線の突破もそう難しいことではないだろう」


「それは……確かにそうだな」


 よく考えてみれば、帝国が築いた要塞線は俺達を敵と想定して作られたものだ。押し寄せるスタンピードを想定して作ったものじゃない。


 対人を想定した防備が、多種多様なモンスターのスタンピードにどれだけ耐えられるか。いや、これだけのモンスターの数なら、勢いのままに突破することも可能だろう。


「ウチの王も、この戦いで全ての因縁を終わらせるって言ってるんだ。なら、俺達もお前達も気合い入れて挑まなきゃ駄目だろうよ」


「……だな。んじゃ、まずは北の砦を片っ端から潰すことから始めてやろうじゃねぇか!」


 待ってろ、帝国の賊軍共! テメェ等全員ぶっ潰して、先に逝った仲間達の無念を晴らしてやる!













 ケーニカンス・ウォルク連合軍が北上する中、押し寄せるその軍勢に不快そうな表情を浮かべる神がいた。


『チッ……! 穢らわしい獣共が、猿や畜生まで連れて来やがって…………!』


 ケーニカンス獣王国を自身の所領と自称するアテナは、鎧兜に身を包んだ上で隠すこと無くその言葉を吐き捨てる。


 彼女にとってケーニカンスの獣人達は狩りの獲物。暇潰しの遊戯の的であり、アルテミスに対抗する為に始めた一種のゲームであった。


 アテナの使う武器は槍が主で、アルテミスのような弓はそこまで扱えない。が、アルテミスの使う金の弓は前々から欲しいと願っていた。


『ヘラに弓で殴られて泣き逃げる小娘が持つより、戦神である私が持つ方が遥かに有意義だったのに……!』


 父の前では猫をかぶる彼女。この性格も当然と言えば当然で、本来であればゼウスがクロノスを討ったように、彼女がゼウスの次に世を支配する女神になる筈だった。


 だが、アテナの母であるメーティスが生んだ彼女が次の王であるという予言を知ったゼウスが、メーティスではなく自分の体を使って彼女を誕生させたが為に、彼女は予言が約束した力を失ってしまったのだ。


『戦神と呼ばれている女神である私より、女にうつつを抜かすジジィが頂点とか、マジで巫山戯やがって……!』


 ギリギリと歯軋りをするアテナ。その形相は悪魔より悪魔のように見えるが、ゼウスの娘であるということを考えてみれば、ある意味しっかり遺伝していると言えるのかもしれない。


『……まぁ、んなこと言っても仕方が無いわ。取り敢えず、今はあの害獣共を駆除しないとね!』


 そう言って、父であるゼウスから貰ったアイギスという大盾を構えるアテナ。


 このアイギスは嘗て己の手で殺した、パラスという娘を殺す時に使った盾であり、ありとあらゆる攻撃を跳ね返す強力な神器である。


『ペルセウスの奴がメドゥーサの首を持ってこなかったからアレだけど、害獣共を潰すのには充分でしょ』


 本来であればこの盾にメドゥーサの首を括り付けて、盾を見た相手全てを石化させることも考えていたアテナ。


 だが、ペルセウスが主神から距離を置いたことによりその願望も叶わず、アイギスが更に強力になることはなかった。


『後は天使達も呼びましょうか。今ならガブリエルとかウリエル辺りが暇してるでしょうし――――ッ!?』


 そんなことを一人で呟いているアテナ。だが、己の勘が訴えた警鐘に思わず空を見上げ、その信じられない光景に思わず硬直する。


 アテナの視線の先では、青々とした空にヒビが入っており、見つめている間にもパキパキと音を立ててそのヒビがどんどん大きく広がっていたのだ。


 空にヒビが入るという有り得ない出来事に硬直していたアテナ。だが、その隙は彼女が生き延びる最後の機会を失うのに充分な時間だった。




――――パキャァァァァァァァァァァァン…………!




『――――うっ!?』








 ガラスが割れたような音と共に、アテナの目が眩い光を受けて瞼を閉じる。


 それと同時に体を襲う、グニャリと歪んだような気持ちの悪い感覚。彼女は知らないだろうが、その感覚は絶叫マシンの急降下に掛かるGと似たようなものであった。



『――あらあら。随分と歪んだ娘さんねぇ?』


『――性根や性格が歪んでいるのは彼奴らの特徴だろうな。親が親なら子も子、という言葉通りだ』


『――だ、誰だ! 私がゼウスの娘、アテナと知っての狼藉か!?』



 グワングワンと、鐘の音のように反響する声に頭痛を覚えながら、アテナは閉じていた目を――――開いてしまった。







『――――――イギッ!?』











 彼女が目にしたのは、己の存在を隠すこと無く曝け出している数多の邪神達。


『おや? まさか、我らの姿を見て正気が保てなかったのか?』


『所詮は木端の神ね。見た目通り、碌な経験も積んでいない小娘じゃないの』


 クスクスと笑う邪神達は、悪意に満ち溢れた視線でアテナの姿をじっと見つめ、彼女の脳を揺らす重さを有した声を響かせる。


『さもありなん。本来であれば、この娘の反応こそが正しい姿。あの歌姫が異常、イレギュラーなのだよ』


『左様……であるが、この程度の愚物が彼女を傷付けたこと、万死に値する』






『――――あ、アイギス!!!』






 頭が割れるような痛みと、腹の内側を掻き乱されて起きたような吐き気に襲われた彼女は、震える指先でどうにかアイギスの力を使う。


 その瞬間、彼女を中心として薄い膜のような結界が広がっていく。それと同時に、彼女を襲う症状も鳴りを潜めていった。


『ほほぅ……これはまた、随分と過ぎた代物を持っていたようだな』


『――アイギスは、何人たりとも貫くことの出来ない絶対防御の神器!!! 貴様らの攻撃なぞ――――』







『攻撃なんぞしとらんよ。ただ、お前自身が我らの姿に正気を保てなかっただけだ』


 再びアテナの目に映る、真の姿を現した邪神達の姿。形容するのも悍ましく、筆舌に尽くし難い『外なる神』などと呼ばれている神々の冒涜的な姿は、アイギスの結界など意にも介さずアテナの脳を焼く。








――――ギィアァァァァァァァァァァァァ……!!!











『おや……その盾の力は凄まじいな。まさか、持ち主を死なん程度に生かし続けるとは』


『ほっほっほ! なれど、その力がいつまでも続くわけもない!』


『あらあら……それじゃぁ、その結界が解けるまで、こうしてゆっくりと彼女のことを見てあげましょうか』


 アイギスは『相手の攻撃を跳ね返す』盾であり、存在自体を否定する盾ではない。







――――――ゴロジデッ!!! ゴロジデェェェェッ!!!







 アテナはアイギスがその力を失うまで、冒涜的な邪神達による侮蔑と愉悦に満ち溢れた眼差しに貫かれ、苦悶にその身を苛まれ続けることとなった。





――その末路がどのようなものになったかは、記さなくてもわかることだろう。

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