ユカリスパルタ

@ryumei

第1話 ユカリの、或る出来事

 わたしは、夢を見ていた。

 夢の中のわたしは、それを夢だとどこか認識できている。

 川辺の、原っぱのようなところで、わたしは寝転んでいる。そして視線の先には、銀色の髪をした、見覚えのないシルエットが、あるのだ。

 シルエットのその彼は、こちらを振り向いて、薄く微笑む。その顔は、どこか頼りなくて、でも優しそうで、わたしは、それまでに感じたことのない、ほのかな高揚に満たされていくのだ。

 そして、ゆっくりと、覚醒し、現実の世界へといざなわれていく。


 わたしを睡眠の世界から引きはがしたのは、けたたましい目覚まし時計の音だった。わたしが小学二年生の時に買ってもらった、当時流行っていたキャラものの目覚まし時計。苦節八年、色褪せてきているが、いまだ現役である。ご苦労様である。

 わたしは、時計の努力に思いを馳せることもなく、無情にスイッチをパンと叩いて、音を消す。そして再び、眠りの世界に落ちていこうとする。

「ユカリ!」

 再度わたしを睡眠の世界から引きはがしにかかってきたのは、お母さんの声である。

「起きなさい。もう、七時十八分よ」

 えらく具体的に時間を示すお母さんなのである。

「はああい」

 わたしは、ゆっくりと上半身を起こして、ひとつあくびをする。悲しいかな、わたしは低血圧気味で、朝は弱い。

 わたしは、ベッドから這い出て、階段を降りていく。そして洗面所で顔を洗い、タオルで拭った頃合いから、徐々に覚醒度があがっていく。

 鏡の前で、急にきりりと目を光らせるわたしは、自分に気合を入れるために、両頬を軽くパチンとはたく。

「よし!」

 リビングに行くと、お父さんがコーヒーを飲みながら新聞を開いて眺め、お母さんは台所でハムエッグを焼いていた。

「おはよう」

「ん、ああ、おはよう」

 新聞から少し顔をあげて、お父さんが言う。

「はい、食べて」

 お母さんが、わたしのお皿に焼き立てのハムエッグを置いてくれた。もくもくと湯気が立ち上る。

 わたしは、カリカリのトーストを頬張り、しかるのちにハムエッグを頬張った。口の中で両方を混ぜて食べるのが好きなのだ。

「今日はさ、夕練があるから、帰るの遅くなる」

「また?ほとんど毎日じゃない」

「だって、もうすぐ大会だもん」

 わたしは、もぐもぐと口を動かしながら、竹刀を振り下ろすジェスチャーをする。

「剣道かあ。精が出るなあ。温厚なお父さんには、とてもできないよ、竹で人を叩くなんて」

「わたし好き。バチーンときれいに一本が入ると、たまらなく爽快なんだ」

「迫力あるなあ。誰に似たんだろ」

 お父さんがちらりとお母さんに視線を向ける。敏感に察知したお母さんは、

「何か言った?」

 と言って、手に持ったフライパンをバッターみたいに構えて見せる。お母さんは、高校大学と女子ソフトボールをやっていたのだ。

「冗談、冗談」

 お父さんが慌てて視線を新聞に戻す。

「この家じゃインドアは肩身が狭いよ」

「あなたって高校の頃から、仮病で体育休んでたもんね」

 そんなやりとりを聞いているうちにも、わたしはもりもり食べ進んでしまい、皿を空にした。時計は、七時三十五分。

「ごちそうさま」

 わたしは言うが早いか、リビングを出て階段を昇り、自分の部屋で制服に着替えた。鏡の前で、髪の毛をとかし、首の後ろで、お気に入りの赤いリボンできゅっと結ぶ。そして鞄と、鞘に入れた竹刀を持って、階段を降りて行った。

 リビングの前で、ひょいと顔を出し、

「いってきます」

 と挨拶する。

「いってらっしゃい」

「気を付けるのよ」

 二人の言葉を背に受けながら、わたしは、靴を履いて、玄関のドアを開け放ち、外に飛び出した。

 今日は見事な、雲一つない晴天であった。

 わたしは、道路を、駆ける。腕時計をちらと見る。七時五十分。走り続ければ、ぎりぎりすべり込める時間だ。わたしは走るのも、校内で一番早い。

 しかし、道半ば、二分程度走ったところで、わたしは急に違和感に襲われた。

 それがどういう違和感なのか、説明するのは難しい。まるで立ちくらみみたいに、足がもつれ、わたしは走るのをやめた。

 わたしは、ブロック塀に背をもたれ、息を整えた。

 違和感は、相変わらず続いてた。視界がぼんやりとしてきた。世界が、不思議なゆらめきを持ち始めた。

 体調、悪いのかも。

 わたしは、一回家に戻ろうと思い、持たれた背を離した。そして少し痺れた自分の手を見た。

 手の指先がなくなっていた。

 え?

 なに、これ?

 そして、指先から手、手首からさらに前腕と、徐々に体は空間に霧散していく。

 なに、なに、なに?

 わたしは混乱で頭の中をかき乱される。

 ふと見ると、足ももう膝まで消えている。

 わたしは叫ぼうとする。いやだ!とめいっぱい叫ぼうとする。でも、声が出てこない。金魚みたいに口がパクパクと開閉するだけだ。

 消失はさらに進行し、お腹から胸、そして首へと這い上がってくる。

 怖い、怖い、怖い。

 誰か―――。


 そしてその日、わたしは今まで生きていたその世界から、姿を消した。




  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

ユカリスパルタ @ryumei

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ