第1話

すみれは大樹に背中をぴったりとくっつけて、胸の鼓動を数えながら息を整える。目を閉じて、一二三四五六、七、八、九…最後に十とカウントをし、口を閉じたまま一つ鼻で深呼吸をする。

息を潜め周囲に耳と神経を傾けた。風が音をたてて地面に落ちた葉をざわつかせている。それ以外の音を拾わなくちゃと、焦りが汗となり頬を伝った。顎で大きな雫となって地面に落ちるのを合図にすみれは目を大きく開く。


大樹の後ろで獣の咆哮が地響きのように森中に響き渡った。すみれの細い体、骨までもびりびりと震わせる。整った息が詰まった。地面に張り付いた足に動けと命じてもびくりともしなかった。近づく四足の足音にただ怯えるしか出来ない。


「すみれ!」


オリヴィエに声をかけられたと同時に腕を引っ張られた。動かなかった足は嘘のように前へ前へと駆けだしている。息を整えていたおかげか、それとも命の危機でアドレナリンを噴水のように吹き出しているおかげか、全く苦しさを感じない。それでも恐怖は神経を支配していた。後ろを振り返る余裕はなく、彼についていくだけで必死だった。


オリヴィエは急に足を止め振り返った。思いっきり腕を引っ張るものだから、すみれはバランスを崩し前のめり、視界は正面から下へ、一気に落ち葉で占められる。驚いた拍子に小さな呻き声をあげた。オリヴィエはすみれを庇うようにして獣の前に立ち塞がる。ただそこから一歩も動くことはなかった。それは獣も同じだった。


すみれは膝をついたまま振り返ると、黒い靄に覆われた見上げる程大きな獣が呻き声をあげた。胴体の上にクリスは飛び乗った。


「クリス!」


迷いなく靄の中に飛び込むクリスに、すみれは大声で呼びかけた。その声に気付かないふりをする。獣は唸り声と共に大きくうねらせているものだから、クリスは振り落とされそうになる。両手で剣を握り、足で胴体にしがみついていた。

クリスは首元を狙って剣を突き刺した。があっ、があっと何度も痛みに耐えるように叫んでいる。


「鎮まれ…鎮まれ…!」


クリスの念じた言葉に応えるように獣の呻き声は弱々しくなっていき、ついに肢体を地面に横たえる。ずぅぅんと地響きがすみれやオリヴィエのところまで響いた。クリスはさらりと体を宙に浮かばせて足から地面に降り立った。動かなくなった獣を息を確認し、剣を抜くと血しぶきが噴き出す。


すみれはまだ靄に覆われている獣に近づいて祈りを捧げた。黒い靄は光に変貌し空気に溶けていく。ほっとしたと同時にすみれは身体の芯が抜け落ちるような感覚を覚えた。足元がふらつき倒れそうになったところをオリヴィエが支えた。


「どうした?」

「ごめんなさい。頭がぼんやりしたみたい」

「顔色が悪い。クリス!この辺りで休憩しよう」


オリヴィエはすみれの体を抱きかかえたから、思わず「へぁっ!?」と素っ頓狂な声が出る。


「そ、そんなことしなくても歩けるよ」

「そんな青白い顔で言われても説得力ない」


「恥ずかしいから降ろして」と言おうとしたが口を噤んだ。オリヴィエの真剣な顔がすみれが想像するような意図恋愛感情ではないのだろうと思うとより恥ずかしくなる。

たき火が出来るくらいの広さがある樹の下に降ろされた。重なった落ち葉がクッション代わりになって身体に負担がない。ただ落ち着かなかった。オリヴィエが目線をあわせてじっと見つめてくるからである。


「な、なに?」

「本当に顔色が悪いな…さっきの浄化のせいかな?」


確かにいつもの浄化とは違っていた。多少の疲れは出ても力が抜け落ちるようなことはない。


「すみれ、大丈夫?」


クリスは獣の始末を終えて戻って来た。両手には、近くの小川で汲んできた水が入ったカップがある。それをすみれとオリヴィエに手渡した。


「あの獣がこの辺りを支配していたようね。一晩火を焚けば他の獣も寄ってこなさそうよ。ゆっくり休みましょう」


二人はこくりと頷いた。オリヴィエはそうと決まればと立ち上がり野宿の準備に取り掛かる。天幕を張って、薪を拾い夜に備えた。

すみれが正式に聖女になって数か月、野宿にもすっかり慣れていた。精霊石を使った火起こしも、森の中で眠ることも平気だ。無数に瞬く星空を見上げる余裕もある。それはひとえに聖女の騎士であるクリスとオリヴィエがいてこそだ。二人に全幅の信頼をおけるからこそ、野宿を楽しむ余裕が生まれるのである。


「今日の瘴気でかかったよな」


野菜くずと干し肉を入れて煮込んだスープに口を付けてからオリヴィエが言った。

大聖堂を出発してから一か月、道中の瘴気を浄化して周りながら当初の目的地に向かっている。数か月前に比べればずっと瘴気にあてられた土地も少なくなっているが、まだ行き届かないところも多い。


「獣自体の図体もでかいんだろうけれど、その身体を覆い尽くす靄がでかかった。それに俺たちにも見える程の瘴気だったぞ」

「やっぱり見えてたんだ…それなのにクリスったら獣の上に飛び乗るから生きた心地しなかったよ。果敢に攻めるのもいいけれど心配させないで」

「とにかく早く制圧しなきゃって。首を落とすしか思いつかなかったのだもの」

「まあまあ、何もなくて良かったよ」


もう…と口を尖らせるすみれを宥めていると、びゅーっと風が吹きあがり、炎が大きく揺れた。


「この風と瘴気と関係があるのかしら」


一か月前、大聖堂に届いた不吉な連絡が旅の始まりだった。

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