精霊のゆりかご

プロローグ

 風が泣いている。

 一か月前は強風が吹く時間帯が夜中だけだったが、ここのところ一日中風が止まない。時に突風が吹いて幼子なら簡単に吹き飛びそうになる。

 ごとごとと鎧戸が鳴る度に身の危険を覚え震え上がる。それでも此処から逃げるわけにもいかずニーナは薄い掛け布団にくるまって顔を枕に埋めた。


(聖女アナスタシア様、どうかお守りください)


 闇が一層濃くなる時間だ。不安で出来た心の隙間を闇に飲まれないように祈る。今も司祭、トレヴァーは必死に聖オリーブ樹の前で祈りを捧げているのだろうか。寝る前に一緒に祈ると申し出たものの、やんわりと断られた。しっかり休んでもらわないとねと優しく諭す。


—――今は英気を養う時ですよ


 正直ほっとした。この嵐の中でトレヴァーと一緒とはいえ恐ろしくて碌に祈りを捧げることなんて出来るはずがない。怖がってばかりのニーナを宥めることになるのは目に見えている。せめて邪魔にならないようにするのが自分に出来るせめてもの務めだと、独りベッドに潜り込んだ。


 ごおごおと耳の周りで風が吹く。小さな竜巻になって耳の中に入りニーナはかぶっていた布団から飛び出るように体を起こす。


「何?なんて言ったの?」


 刹那に自分の言葉をかき消すように大きな音をたてて扉が開かれ、薄明かりが点る。ニーナは驚いてそちらを向くと肩で息をするトレヴァーが立っていた。


「ニーナ」


 ニーナを呼びかける声は荒々しい語気と早口で必死さが滲む。トレヴァーはニーナの怯えている顔を見て一呼吸し、冷静にと自分に言い聞かせてから続ける。


「今すぐ外に出るのです。そしてこの村から出来る限り遠くに逃げるのです」


 逃げるという言葉にニーナの顔は益々青白くなる。トレヴァーは傍に寄って手を取り立ち上がらせた。


「騎士たちには村の人たちを逃がすようにと、すでに話をつけていますから。あなたも村の門に行きなさい。とにかく一刻を争います」

「司祭様もご一緒に行くのですよね?」


 トレヴァーはかぶりを振った。ニーナは「どうして」と訊ねる前にトレヴァーは握った手に力をこめる。


「私にはやるべきことがあります。わかりますね」

「でも…!」

「安心なさい。すぐに終わればすぐに向かいます」


 もう片方の手にあるランタンをテーブルの上に置き、薄緑色の司祭帽を外してニーナに手渡した。纏めていた灰色交じりの短い白髪が散らばる。


「これを必ず取りに行きますから」


 此処で「嫌です」と子供のように駄々をこねたかった。そうしなかったのはトレヴァーを困らせることが解っていたからではなく、もう恐ろしくて声が出なかっただけだ。これからどのようなことが起きてしまうのかニーナには容易く想像できてしまう。ニーナは浅い呼吸を続けた。


「落ち着いて。大丈夫です。必ず皆無事に逃げられます。必ずです」


 ゆっくりと落ち着いた声にニーナは自分に言い聞かせるように二度、三度細かく頷き、深呼吸をする。


「皆さんを導いてください。あなたの優しさは励みになりますから」


 建物が風に煽られてみしみしと軋む音で息を飲む。トレヴァーはテーブルのランタンをニーナに持たせ、背中をおして部屋を出るように促した。


「さあ、行きなさい」

「司祭様」ニーナは縋るように呼び掛けてからぐっと言葉を詰まらせる。

「皆をお願いします」


 ニーナは弱々しく頷いて駆けだした。一階の聖堂に降りて二つ並んだオリーブの樹を横目に見ながら外へと出る。


「わっ」


 ドアを開けると突風に煽られてバランスを崩しかけた。ランタンに灯っている火が大きく揺らぐ。ニーナは司祭の顔が過り振り返る。


(やっぱり一緒に逃げた方が良いよね)


 聖堂内に戻ろうとしたとき後ろから大きな声でニーナに呼びかけた。声のする方へと身体を戻すとこの辺りを守護する騎士のヒューがいた。


「まだ此処にいたんだな。聖堂側の村人は全員避難した。おまえもすぐに行くぞ」

「でも、司祭様が」

「トレヴァー司祭様がまだ聖堂に?」

「ええ、やることがあると仰って」


「我々にも先に逃げるように仰せつかっている。トレヴァー様を信じるしかない」


 ヒューはニーナの腕を掴んで走り出す。ニーナは引っ張られながら必死に足を動かした。掴まれた手が強くまた足も速くニーナはついていくだけで精一杯だった。

門までくると騎士団長と数人の村人が待っている。子供と老人の姿はない。先に避難しているのだろう。


「団長!聖堂側全員避難しております」

「そうか!」

「村長の家の方も完了です!」

「ご苦労だった!では出発しましょう。騎士が先導しますので足元に気を付けてください。ヒューとボイド、そして私が後ろを守ります。振り返らずに素早く移動しましょう」


 先導する騎士が歩きだし、村人が二列になってついていく。女性が先に進み、男性がついていく形で足早に村から離れていく。ニーナは先を譲り一番最後に行くことにした。もしかしたらトレヴァーが駆け付けて来るかもしれない。大きく手を振って待っていたと迎えたい気持ちがあった。


「よし、ニーナ先に行け」


 村人の最後尾に着いていくように促した。ニーナは後ろ髪を引かれながら「わかりました」とか細い声で返事をする。しかしニーナはその場から動かなかった。

 猛烈な風が吹き門に飾られていた旗が吹き飛んだ。ヒューは咄嗟にニーナを庇う。ニーナはヒューの腕の中で「何て言ったの」と呟いた。


「けがはないかニーナ」


 しかしヒューの呼びかけにニーナは答えない。ぶつぶつと何かを呟いている。誰かと会話しているようだが、会話の相手はヒューを含めその場にいる誰でもなかった。


「だめ、そんな!」


 ニーナは空を仰ぎ叫んだ。そのすぐに悲鳴をあげて気を失った。ヒュー達はニーナに何が起こったか判らなかった。漆黒のベールをかぶった空に向かって葉や枝が舞い上がる。木製の門がみしみしと音をたて始めた。ヒュー達は顔を見合わせる。ヒューはニーナを担いで走り出した。

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