第十三話 ウンディーネ
「クリス」
祭壇の奥から足音のしない不思議な気配がやってきたのをいち早く察したオリヴィエは、チャームを懐に仕舞って剣を抜く。クリスは頷きすみれを下がらせて剣を構えた。
「おお…清浄な空気だ。漸く出られる」
気怠そうに首に手をあてながらグルグル回して人型の何かが近づいてくる。その仕草は人そのものではあるが足元に違和感がある。透けている、というより揺らいでいる足は液体のように見えた。少なくとも人間ではない。だからと言って魔物とも言い切れず、戦闘態勢を解くか悩んでしまったのである。
端正な顔…というよりもこの世の者とは思えない美しく、男性とも女性ともとれず、若いのかそれなりに年を重ねているのかわからない。
「そのような物騒なものは仕舞え。我には意味がない」
「そう言われて納めるような愚か者は居ない」
言葉に反してクリスの剣先は揺れていた。落ち着けと自分に言い聞かせても正体のわからない者を相対している恐ろしさが表れていた。
「無駄だ。例え刃を我に向けても切ることは出来ぬ。我ならそれを鈍らに変えることも可能だ」
転がっている石に指の腹を上に向けながら指すと、ぱしゃっと音を立ててそれがかけらも残さず消えた。代わりに小さな水たまりが出来たと思ったら床に沁み込んで消えた。先に鞘に刃を納めたのはオリヴィエだった。クリスも同じようにならった。
「それで良い。弱き人間は素直であるに限る」
「あなたは一体…」
それを問いただしたのは後ろで控えていたすみれだった。声は落ち着いていた。
「そなた」
彼は綺麗に生えそろった上向きの睫毛を更に上にあげた。床を滑るようにしてクリスとオリヴィエの間をすり抜けすみれに近づいた。瞬間クリスは剣を納めたことを後悔した。相手が何者かわからないうちに護るべき相手に近づけさせたことは失態だと頭で考えた時には遅かった。
「待って!」
姿を現してからずっと上から目線の彼はクリスの制止など気にも留めなかったが、すみれの目の前に行くと目線を合わせるように体を屈めた。
「そなた、もしや聖女か」
「は、はい…そう言われています」
「物が詰まった言い方をする。ローズはどうした。死んだのか」
「いいえ。ローズ様は病で床に臥せられているので代わりに浄化に来ました」
「病とな。道理であれ以来ローズは来ないわけだ」
「あなたは一体どなたなんですか?」
「我は水を司る大精霊だ。ウンディーネと呼ばれている」
大精霊の存在をすみれ以外は勿論知っている。だからと言って目の前にしてその存在が受け入れられるような冷静さは持ち合わせておらず、つい「嘘でしょう?」とクリスは口をついた。
「愚かな。己の狭量を恥じるがよい。それで聖女の騎士が務まるのか」
言葉に詰まった。ここまで聖女の騎士としての務めはすみれを守ることを重視してきたが、すみれの細やかな願いを叶えることは出来ず、あらゆる障害から守る騎士としての役目も果たせていると自信を持って言えなかった。肩をすぼめてウンディーネの言葉を真向から受け止め自省した。
「まあ良い。それでそなたの名前は何という」
「すみれと申します」
「川を渡って来た者か」
川を挟んでローズと話した夢を思い出す。手を伸ばした時、確かにあの川を超えたのだ。ウンディーネの言うことは世界の狭間を超えたことだと理解したのはすみれだけである。
「そなたの名前の響きは、この世界では珍しい。異なる世界から来た者だと判ずることは容易い。時を遡れば幾度かあったが随分久しいことだ。して、ローズが病というのは真か」
「はい。そのように言われております」
「なんだ、またあやふやな答えだな。はっきり言えんのか」
オリヴィエの答えに腑に落ちないと顔を顰めた。しかし、彼にはそう言うしかなかった。ずっと王都に蔓延する瘴気が原因だと思っていたがすみれの言葉が引っかかっていた。本当に毒を盛られている可能性がある限り瘴気や病気だと断言することは出来なかった。オリヴィエにはハロルドが毒を盛っている可能性が捨てきれず、それが本当なら恥ずかしかった。まるで断頭台にでも立たされたように青ざめている。
「毒を、盛られている可能性も捨てきれないのです」
「毒、とな」
「そ、それは私の勝手な推測で…」
すみれは自分の憶測でオリヴィエを困らせてしまったことを後悔していた。
「いや、話してみよ。そういう可能性があるのだろう」
すみれはエネロでは見えて王都では見られなかった黒い靄のことを話した。オリヴィエが導き出した考えである、ヒステリーの結果であのような騒動になっているのではないかと付け加えて。
「ローズは相変わらずの阿呆だな」
一通り話を聞いたウンディーネから思わぬ言葉が飛び出し誰もが耳を疑った。無礼な言葉が聖女に対するものだと判るまでに多少なりとも時間がかかった。
「阿呆にも程がある。あれ程気をつけよと申したというのに」
国王より大事にされる聖女に向けた、恐らく誰もが生涯口にすることのない言葉に一同はぽかんと口を開け呆気にとられた。ただ普段なら無礼だと咎めるクリスでも、流石に大精霊ウンディーネを前にすると言葉が喉でひっかかる。
「代々聖女は歓迎されるばかりではないのは確かだ。毒を盛られることも決して否定は出来ぬ。寧ろ多いとも言えるだろう。そのために騎士がついている。しかしどうしてそのような状況になっているのか。そなたの父親はその可能性に何年か前にすでに勘づいておったぞ」
ウンディーネの視線はオリヴィエを冷たく貫いた。
「父ですか?」
「そなたよく奴に似ておる。名前はなんと言ったか。そうだエリック、エリック・リリジェンだ」
「父が勘づいていたというのは一体どういうことなんですか」
「言葉の意味のままだ。奴は一度古い文献を手に一人で此処に来たことがある。万能薬が存在するかと訊ねたのだ」
万能薬と聞いてすみれは魔法の世界のようだと目を輝かせ、クリスはリアリティのないお伽話だと訝しんだ。
オリヴィエは驚きつつも幼少期のことを思い出していた。エリックは考古学が好きで家にも古い本が沢山あった。つんと鼻をつく古い匂いがする家が脳裏に蘇った。思い出の中のエリックは本を捲っては、存在するか定かではない世界や道具などについて熱く語っていた。幼少期は喜んで聞いた話も年を重ねるごとに冷めていき、いくつになっても夢物語を話すエリックに呆れていた。
「万能薬なんて本当にあるんですか?」
オリヴィエは目の前の大精霊に無邪気な父親を重ねて端からその存在を否定するように訊ねた。ウンディーネはその冷ややかな目を見て意地悪そうに口角をあげた。
「エリックと同じ顔だというのに出る言葉は全く似ておらんな。あの時訊ねてはいたが、その目はあって当然と信じ切っていた。恐ろしく阿呆だと思ったが、そなたはそんな父親よりも愚かだな」
オリヴィエは即座に否定しようと荒らげそうになる声をぐっと堪える。
「もし我がないと言えばそなたはどうする」
「それは…存在しないものを追いかけても仕方がありません」
「そこの聖女が瀕死の状態でもそう言えるか」
押し黙ってしまう。そんなことは考えたことがなかった。というよりもいざという時のことを考えることは恐ろしくて目をそらしたい。ウンディーネに指摘されて改めて考えてみた。聖女の騎士として、いやそうでなくても、もしすみれの命の灯が消えそうになっているならどう行動するだろう。
「俺は万能薬がなくても国中、いえ世界中を駆け回っても彼女を救う道を探ります」
はっとした。そうだ、父も必死に救う手立てを探していたのかもしれない。
「そうだ。エリックもその数多の可能性のひとつを提示したまでだ。奴も言っていた。手に持っていた文献は世間では眉唾だと揶揄されていると。著者の本は殆ど燃やされてしまい、これは難を逃れ隠し持っていた本だとも言った。調子のよくないローズに万が一のことを危惧しておった。医者にもみせたようだが、大した症状もなく風邪だろうと言われたらしい。当時は動けないほどの病状でもなかったし本人も気にしていなかった。唯一心配していたエリックは縋れるものには縋りたいと、いざという時の手立てを考えて我の元にやってきたのだ」
そう言うとウンディーネはくるりと反転して祭壇の奥へ「ついてこい」と手招きした。道すがらウンディーネは続けてエリックの話をした。
「エリックは手当たり次第道を探っていたのだろう。それまでにも流行り病がどこで発生しているか、魔女の薬は効くのかとあちこち駆けずり回っていたそうだ。魔女の薬は、一時的に調子はよくなるが症状は改善しないことを嘆いていた。そうなると毒の可能性もあると考えたらしい。とはいえ奴にはその知識もなく、犯人を特定出来ないまま毒が盛られているかもしれないと公に言うこともできないと悩んでいた。もしそうだとしても、証拠がなければ自分が虚偽の発言で何かしら罰を受けてしまうかもしれないと言っていた。自分なりに手を尽くしてもどうにもならないと諦めそうになった時に文献に書いてあった万能薬のことを思い出したそうだ。そして此処に来た」
辿り着いたところでウンディーネは脇によった。三人の眼前には建物の中とは思えないほど、大波のように力強くうねった見たこともない大樹が聳え立っていた。大樹の枝葉からしとしとと雨のように水が降り注いでいる。樹の下には低い木がいくつかあった。それらは青白い光がぼんやりと自ら光を放っている。誰もが見たこともない美しく不思議な光景に目を疑いながらも離すことは出来ない。
「これは遠い過去に聖女の騎士が植えたものだ。彼は不治の病に侵された聖女に心を痛め、世界中を巡り幻と言われていた万能薬を探していた。漸く見つけたがその頃には聖女は息を引き取り彼は深く嘆いた。同じような思いをしないようにと豊かな土に恵まれたエネロに苗木を持って来た。今後聖女が同じように苦しんだ時にこれを使って欲しいと懇願され、我はこの土地に植えることを許した。我の力で具現化した大樹によって、年月かけて、この植物本来の力を高めてやっている。長らく誰もそれを必要としなかったから、幻と化したのだろう。しかしエリックはそれを信じて諦めずに求めた」
ウンディーネは掌サイズの大きい葉を一枚もぎ取った。そしてすみれの手をとってそっと置くと彼女の手は葉に隠れた。
「これを煎じてローズに飲ませると良い。きっと良くなる」
「ウンディーネ様、ありがとうございます」
「うむ。そなたもしっかり励むといい」
あどけなさの残る少女がこれからどのような成長を遂げるのだろうか。幾人の聖女を此処に迎え入れてきたウンディーネには、心根が歪むことのないことを祈るしかできない。
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