第十二話 遺品

 一行はすみれの力を頼りに、神殿内に漂う瘴気の中をまっすぐに歩いていく。

 暫くするとだだっ広い場所へとたどり着いた。通路では松明がないと歩けないくらい暗かったが、此処はまるで外にいるかのように明るい。

 ほぼ部屋の中央だと思われる場所に集中して天から降り注ぐ光が円をつくって照らしていた。見上げると上の方は瘴気とは違う白い靄がベールの様に覆っている。目を凝らすと丸い天窓が見えた。

 光の中心には四角錐上のピラミッドのてっぺんを真横に切り落としたような台座が見える。その上には杯がひとつ恭しく置かれていた。


「これはなに?」


 すみれの零した疑問をすかさずクリスが掬い取る。


「ここは聖女の神殿のひとつです。初代聖女の聖遺物が祀られている場所なんですよ。あれは聖杯ですね」

「聖杯?」


 聖杯というからにはそこらの杯と違って神聖なものに違いはないのだろう。しかしすみれは目を疑った。それほど神聖な杯から、これまで以上に酷くどす黒い靄がかかっている。それどころではない。まるで聖杯から瘴気が放出しているように見えたのである。


「大丈夫ですか?ご気分が優れないようなら一度休みませんか」


 すみれの青ざめた顔色を覗き込んでクリスは彼女の背中に触れた。恐ろしくてしんと冷え切った背筋に当てられたクリスの温かい手はすみれの気持ちを軽くする。目を瞑りひとつ大きく息を吸ってから開いた。


「あの聖杯から瘴気が溢れているように見えるの」

「そんなまさか」


 到底信じられない言葉に二人は戸惑った。瘴気がまさか神聖な聖遺物から発せられているなんて、常識では考えられなかった。聖女や聖女に関するものも瘴気に侵されているだけでもとんでもないことだが、聖遺物から瘴気が発せられているなど以ての外である。

 すみれが聖杯に近づこうとするのを二人は止めたが、すみれは足をとめることはない。二人も急いで、しかし恐る恐るすみれと共に聖杯に近づいた。


「うん、間違いないよ」


 祭壇の傍でつま先立ちになり聖杯の中を覗くと、泥水の様に靄が溜まっていた。聖杯の使い方を知らないすみれでも、こんな濁った瘴気が溜まる場所ではないことくらいは流石にわかる。


「浄化できそうか?」

「とにかくやってみるね」


 すみれは瘴気に顔を顰めながら恐々と聖杯に触れた。触れた指先から黒い靄はすみれの手や腕に絡みつく。見た目もさながら瘴気が纏わりつく気持ち悪さは吐き気を催しそうだ。浄化に集中しようと意識を向けると余計に気が急いてしまう。


(消えて、消えて!)


 瘴気は消えるどころか体中を這うように広がっていく。恐ろしさと不快感から額から汗が流れた。掌にもじっとりと汗が沁みだした。もしこのまま瘴気に飲まれてしまったらどうなるのだろう。瘴気にあてられた町の人は病床についていた。町でみた瘴気よりもずっと濃い。こんな瘴気にあてられてしまったら、一瞬で命すらも奪われるかもしれない。

 恐怖に慄いているすみれの左手は細くて柔らかい手、右手はごつごつとした力強い手が握られた。


「大丈夫。落ち着いて」


 二人の声が重なる。心強いはずなのに、もしこのまま浄化できなければ彼らにも黒い靄に包まれてしまうのではないかと思うと、尋常ではないほどの冷や汗が背筋を伝った。予感を現実に変えるかのように、焦れば焦る程瘴気は勢いを増して、二人にも牙を剥いた。


「ダメ!」


 一段と張り上げた悲鳴のような声は黒い靄を四散させた。散った靄はあちこちに浮遊している。今のうちと、それまで以上に聖杯の中心に意識を向ける。丹田は徐々に熱を集め、白い光が黒い靄を押しだすように体を包みだした。その様子が見えるのはすみれだけだったが、二人にも空気が変わったことに気付いたのか握っていた手は少し緩んだ。それでも手を離すことはなかった。

 次第に目も開けられないほどの光に包まれる。手を伝わる熱だけが三人が繋がっている証のようで、安心感がそこにあった。

 瞼越しにも眩しい光は次第におさまったようで恐る恐る目を開ける。靄はすっかり消えてなくなっており、所々青さびがついた古びた銀色の杯が視界に入った。


「浄化、できたみたいだな」


 瘴気が見えていない二人にも違いが判るほどに体の軽さを実感する。オリヴィエは手を何度か握ったり開いたりしてみた。


「うん…もう大丈夫みたい」


 手に持った聖杯をもとの位置に戻そうとするとカランと音がたつ。すみれは聖杯の中を覗き込んだ。人差し指の第一関節程の大きさのチャームが転がっていた。銀色のチャームは黒ずんでおり綺麗とは言い難い。


「鳥のチャームね。鳩かな?」

「鳩?」


 オリヴィエはすみれからそれを受け取る。それをあらゆる角度に回しながら凝視した。みるみるうちに顔色が悪くなる。


「どうかしたの?」


 クリスはただ事とは思えない程に強張った顔をみて訊ねる。オリヴィエは暫くチャームから目を離さなかった。今にも爆発しそうな感情を抑えるように話始めた。


「これは、父のものだ。ここ見てくれ」


 チャームの後ろを向けた。何かしら書いてあるが小さくてよくわからない。クリスとすみれはチャームを見るために顔を近づけ目を凝らした。そこには『LからEへ』と書かれている。


「Lは母の名前リリーで、Eは父の名前のエリック。つまり母から父に送られたアクセサリーなんだ。父はペンダントにして首からいつも下げていた」


「え?オリヴィエのお父さんって、ハロルド様ですよね。こう彫りの深いお顔立ちで」


 少し怖いと付け加えそうになるのをすみれはなんとか飲み込んだ。オリヴィエは、飲み込まれた言葉に想像がついてくくっと笑う。


「エリックは実父なんだ。父は六年前に亡くなって、父の直属の部下だった今の父ハロルドが空いてしまった聖女の騎士の座を埋めたんだよ。そして身寄りのない俺のことも引き取ってくれた」


 悲哀を帯びた眼差しを浮かべて言った。もっと幼い頃に母を亡くしていたオリヴィエはエリックが死んだ時点で孤児として放り出されてもおかしくなかった。そんな自分を引き取って、実子の兄と同じように育ててくれた感謝と、毒を盛った張本人かもしれない疑心がこんがらがった糸のように複雑に絡まっているのである。


「それがどうしてここにあるのかしら」

「わからない。父は、六年前の巡礼の途中に死んだ。夜野営地から離れて崖から落ちたらしい。胸には矢が刺さっていた跡があるから野盗か何かしらに襲われたんだって聞かされている。その時もこれは身に着けていたはずなんだ」


 遺族であるオリヴィエの元にエリックの遺品が引き渡された時にはなくなっていたチャーム、ずっと気にはなっていたが、まさかこうして再び手に取るとは思わなかった。それも瘴気の元となって。それが何を意味しているのか三人には全く見当もつかなかった。

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