第一話 私は聖職者じゃありません
クリスは焦っていた。
家からただまっすぐ、どこにも寄り道もせずに、大聖堂の前を通ってから敷地内の訓練所に行くだけの道のりは彼女にとって険しい。特に最近の大聖堂は身体の不調を訴えて困っている人々が朝から晩まで駆け込んで長蛇の列をなす。クリスが駆け足で大聖堂に向かう大通りにも列に並ぼうと多くの民衆がよぼよぼと歩いていた。
今日は一段と多い気がする。人の隙間を縫って前へと進むが、人の波に幾度か阻まれた。このままでは遅刻してしまう。できるかぎり速足で抜けて行こうとしたが嫌な予感は的中した。
「どうか助けてください。孫が穢れにあたってしまったんです」
急に手をとられたクリスは振り返ると、小さな老婆と四、五歳の子供が立っていた。漸く見つけたとでも言うように老婆の皺くちゃな手はクリスの手を離そうとはしなかった。力なく握られる手を振り払うことは容易だ。しかし必死に縋りつく老婆を置いていくことは躊躇われた。
「おばあちゃん、ごめんなさい。私聖職者じゃないんです」
「そのようなことを仰らず、どうか、どうか…」
手を添えて離すように促しても老婆は首を横に振った。そこから一歩も動かないぞと言うように身を屈める。それにつられるように膝をつきながら本物の聖職者がいないかとあたりを見渡した。
(困ったな)
クリスはもう片方の手で一つに縛った昨晩洗い立ての柔らかい髪を撫でた。そう、全てこの白銀の髪のせいだ。毎日この聖堂を通るたびに聖職者に間違われてしまう。 聖職者はクリスのように色素の薄い人間が多い。初代聖女アナスタシアを思わせる眩いほどの美しい髪は何度も誤解させてしまっていた。そしてその度にがっかりされるのである。聖職者のようにほんの少しも穢れを祓うことのできないクリスには美しい髪も無用の長物であった。
現在の聖女ローズはその座につき十二年の歳月が過ぎていた。各地で瘴気が現われているので聖女自身が瘴気にあてられたのではないかと噂になっている。噂は民衆の不安を増大させた。仕舞いには次の聖女を待ち望む声も大きくなっている。
ここ王都にも穢れの兆候が表れるようになってしまい、噂は真実のように駆け巡り、そのため連日穢れにあたったと騒ぐ民が大聖堂に駆け込むようになっていた。大聖堂にいる聖職者だけでは事足らなくなり各地から聖職者が呼び寄せられた。それでも追いつかない程事態は深刻な状態である。
その様子をスカーレットも気にしており、困った時のためにクリスは薬を持たされていた。穢れを祓うことは出来なくても薬で症状を抑えることは可能だ。
クリスは老婆の手をそっと放して子供に向き合った。頼りなさげに老婆の服を掴んで項垂れている子供のおでこに手を当てると熱があった。高熱とは言わないまでもしんどいようでぼんやりとしている。
クリスは鞄から薬の瓶を取り出して老婆に差し出した。
「これ、熱さましだから飲ませてください。一時的にでも症状が軽くなるから」
「薬、ですか?」
「ごめんなさい。私本当に聖職者じゃないんです。この後もし聖職者の方に逢えなかったらこの薬を飲んでみて。この薬は私の母…魔女が調合したちゃんとした薬だから安心してください」
魔女の薬はよく効く。反面それを信じていない者も少なくない。この国にとって聖女は国王に並ぶ権力者で、また神の如く崇められる存在だ。聖職者は聖女力には及ばずとも聖女と同じように瘴気を払える存在だ。聖女のの代理とも言われている。
そんな彼らは薬には頼らない。薬は魔女の代名詞であり、魔女は疎ましき存在だ。狂信的な聖女信者でなくても『魔女』とつくだけで忌避される傾向にあった。何か変な物でも入っているのではないかと疑う者もいる。瘴気を払える聖職者がいれば魔女の薬に頼る必要がないのである。
とはいえ聖職者は数多くはない。聖なる力の恩恵をいつでもうけられるわけではない。そのため体の不調は医者や魔女に頼ることも珍しくなかった。それはあくまでも聖職者に見限られたり、恩恵にあずかれない場合に限るのではあるが。
老婆は孫の辛そうな様子をみて懐疑的にそれを受け取った。
「あなた本当に聖職者の方ではないんですか?そんな立派な御髪なのに…」
老婆は少し離れた大聖堂入口を見上げた。そして大聖堂の真上に装飾された聖女アナスタシアのモザイクとクリスと見比べた。クリスは肩をすくめて苦笑いを向けるしかなかった。
「こうみえて騎士見習いなんです」
◆◆◆
整列させられた騎士学校に所属する騎士見習いの中でオリヴィエは心中穏やかではなかった。もうすぐ見習いを卒業し正式に騎士になる叙任式が近いので、誰もが残りの時間で自らの実力を誇示しようとお互いをライバル視してるせいかピリピリとした空気が漂っていた。
(あいつまた…)
無駄な音をたてるのも躊躇われる程、緊張感で空気が張り詰めている。こんな大事な時期に遅刻などもってのほかだ。無慈悲にも時間は刻刻と進み、また教官は号令を止めることはない。クリスとオリヴィエの名前が呼ばれるのも、直ぐ傍まで差し迫っていた。
「オリヴィエ・レスター」
「はい!」
ああ、もう終わりだ。次に呼ばれるのは相方の名前だ。相方のクリスは十二度目の遅刻が確定していた。
「クリス・ノーブル。ノーブル、いないのか」
「まだ…来ていません」
正直に答えると教官はあからさまにため息をつき次の名前を呼ぼうとした。
「クリス・ノーブル!ただいま参上しました!」
クリスの声に一同が振り返る。走って来たのだろう。クリスは頭の上からだらだらと流れる汗もものともせずに姿勢正しく教官が怒鳴る時以上に声を張り上げた。
「遅刻だ!叙任式も近いと言うのに弛んでいる!」
「申し訳ございません!」
「貴様は騎士に相応しくない!ノーブルとレスターは訓練に入る前に運動場を十周だ!直ぐに!」
「はい!!」
レスターはため息が出るのを抑えて返事をする。隣の騎士見習いに肘で突っつかれた。そして「ご愁傷様」と嘲笑いながら耳打ちしてきた。これも十二度目の蔑みである。
列から外れ教官の横を通る前に深くお辞儀をしてから目の前にある運動場へと駆けだした。
「全く…最後までこれかよ…」
「ごめんね」
運動場の中央では他の生徒が素振りを始めている。その様子を視界にいれながら息を弾ませて走る。最初の頃は走り切るだけで精一杯で会話をする余裕なんて全くなかった。今では慣れたものである。こうして並んで走るのも今日で最後だと思うとオリヴィエは清々しい気持であった。
騎士学校では聖女の騎士に倣って入学時からペアを組む。その日から二人は一心同体であり、訓練中は必ず一緒に行動する。お互いにそれなりの成績を修められたことは良かったが、クリスの遅刻魔はオリヴィエには二年間悩みの種だった。遅刻をする度にこうして訓練前に走らされ、時には目をつけられたことで教官からお遣いと称した面倒事を押し付けられることも度々だった。それもこれもクリスの美しい白銀色の髪のせいである。
「どうせ今日も聖職者に間違えられたんだろ」
「まあね。王都にも瘴気が広がっているんだから仕方がないよ。皆不安なんだろうね」
「そっか…」
「なに考え込んじゃって」
「いや、最近王都でも噂になってるんだけど、召喚の儀式をやるんじゃないかって話が出ているようなんだ」
「それって次の聖女を呼寄せるってこと?」
王都の騎士が国中で次の聖女に相応しいものを探していることを聞いたことがあった。今の聖女の力が弱まってるというような公式———つまり国王からの発表はないが、これほどまでに騒がしいと噂も本当ではないかと国民が疑って、結果大聖堂に押し掛ける騒ぎにまで発展している。
「お義父さんはなにか仰っているの?」
「あまり帰ってこないからわからないな。まぁ…例え居たとしても教えてくれないだろうし」
オリヴィエはあまり家のことは語りたがらない。聖女の騎士である父親との仲が上手くいっていないと零したことがあった。実の子ではないことをオリヴィエ自身が卑屈に思っている節があるとクリスは思った。しかしそれはデリケートな話題で指摘するにはあまりにも不躾ではないかと思うと口にすることも憚られる。
「それが本当なら、聖女様は本当に体調が思わしくないのね…」
聖女は元々短命だと言われている。この国の寿命は大体六十から七十歳だと統計にも表れている。それに比べ聖女は三十から四十歳だそうだ。それにはあらゆる仮説が提唱されているが、有力な説として誰にもない稀なる力を持つ聖女は自分の命を削りながら世界を守って下さっていると言われている。先代は四十二歳で亡くなった。比べてローズはまだ二十八歳である。急激に公務が減り、民衆に姿を表さなくなったことで、代替わりも近いのではないかと噂されていた。
もし新しい聖女が迎え入れられれば世界も安定するだろう。それは同時にローズの死を意味する。そういう仕組みなんだから仕方がないと判っているものの、容易に受け入れられない。
(今はそんなこと考えてもどうしようもないよね)
邪念を払うように首を横に思いっきり振って足を進めた。
「お、おい!そんなにペースをあげるなよ。この後通常訓練だぞ」
追い風と共にオリヴィエの言葉が流れていった。
罰マラソンを言い渡された後は、他の見習い騎士に合流して同じだけの訓練をこなす。ランチの時間も軽食をつまむくらいしかできず、皆が家や宿舎に帰った後も日暮れまでみっちり扱かれる羽目になった。
◆◆◆
「レスター、ノーブル、これを」
すっかり草臥れて今にもその場に寝ころびたい気持ちを抑えて、教官から手渡された紙とペンを受け取った。最後に行った素振りの影響で肩から腕、掌も指先もまだじんじんと痛む。
「希望を書くように」
受け取った用紙には叙任式の前に各自の働き口の希望が問われている。
大聖堂に遣える聖騎士、城勤めの王都騎士、各地の領地で雇われる地方騎士、そして騎士以外が選べる。余談ではあるが、騎士の道を自ら閉ざす者も少なくはない。理由は家業を継いだり、ただ向いていないと諦める者もいる。
「希望通りになることの方がまれだが、どういった方面に勤めたいか統計をとるアンケートみたいなものだ。偽りなく書くように」
オリヴィエは迷わず用紙に書き込んで教官に返す。クリスは暫く考え込んでから書いた。教官は返された用紙を見て眉間に深い溝を作る。
「おまえたちは己の技量が解っていないとみえるな」
「はあ…」
間抜けな声が出た。
「二人そろって地方騎士とはな」
クリスはオリヴィエを思わず見る。代々騎士の家系であるレスター家は殆どの男児が聖騎士か王都騎士になっている。養子とはいえオリヴィエもそう望まれているはずだ。
「レスターは言わずもがな、ノーブル、何故地方騎士を選ぶ。二年前の入学時に聖騎士になりたいと言っていただろう」
「確かに聖騎士は幼い頃からの憧れで夢でした。でも大聖堂を通って訓練所に来るたびに、聖職者に間違われるんです。私は聖職者じゃないって言うとがっかりされてしまう。その顔を見ていると辛くて…」
「貴様は遅刻以外の素行も悪くないし、これまでの訓練や成績も同期の中でもトップクラスだ。入学時は正直愚かだと思っていた。それでも貴様はめきめき剣の才能を伸ばし、周りも、俺も認めざるを得ない程に腕を磨いている。たかが間違われるくらいで棒に振るとは、あの時よりも愚かだ」
それほど気にかけてもらっていたとは知らなかった。素直に嬉しいと思う反面、それに見合うような人物ではないと思うと申し訳なくなる。
「そしてレスター、貴様はなんだ。地方騎士になるなどお父上に顔向けできんぞ」
「その父が認めていないので」
オリヴィエはその理由を薄々解っているような様子だった。クリスも事情を踏み込まないようにしていたが、教官同様に勿体ないと感じていた。
「非常に残念だ。各騎士団長が集まる協議では貴様たちの希望も目を通される。領主の目に留まることを願うんだな」
教官は背中を向けて足早にその場を離れた。残された二人は互いに訊きたいことはあったが、深入りしないと言わんばかりに口を閉ざした。
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