一限目 家庭教師は最強魔女 前編

 春ーーそれは出会いと始まりの季節。別れと卒業の季節。

 始まりがあれば終わりがある。相反する概念が循環する輪の中で出会うのが春という季節なのだ。

 それはここ、インセィズ魔法学園も例外ではない。


「学園長より祝辞の言葉」


 教頭、ツギニバン・サブンドの淡々とした声が風の拡声魔法に乗って広大な講堂に響き渡る。

 始業式に集った全生徒の視線が講堂の大舞台に注がれる中、その舞台に学園長、フィデラード・エデルバが現れる。

 校長という肩書きから思い浮かべるであろう年代より遥かに若く、ともすれば新任の教師に間違われかねないほど見目麗しい男は切れ長の目を開き、純金のごとき輝きを放つ黄金の瞳で講堂に集う生徒達を見据える。

 火の術式が刻まれた魔道具、火刻灯の照明を反射した銀髪は自ら光を放っているかのように輝き神秘的な空気を醸し出していた。

 一礼して舞台袖に引っ込んだサブンドと入れ替わったエデルバは講堂をぐるりと見渡し、全生徒に向けて祝辞を贈る。


「まずは新入生の皆様。入学おめでとうございます。今年も無事に新年度を迎えられたのは学園にいる皆様のおかげです。・・・本当であればもっと長くためになるような話をすべきなのでしょうが皆様もそれは望んでいないと思います。なので手短に済ませようと思います。・・・持てる力を尽くして善く学び、善く動き、その中で得られた経験を糧に己の未来を切り拓いて下さい。私が皆様に望むのはただそれだけです」


 聴衆に一礼して去って行くエデルバに惜しみない拍手が贈られる。

 新しい環境、新しい試練。

 良いも悪いも新しいことだらけな新天地に一歩踏み出したとしても・・・


「シェリンドル・ローレリア。不発により評価不能」

「あうぅ・・・」

「えっと・・・、勢いは満点だったよ!」


 できないものはできないのだ。



「はぁ・・・」


 シェリンドル・ローレリア、シェニーは冷めきった紅茶を流し込むように飲み干しがっくりと肩を落とした。

 普段は生徒達が食卓を囲みながら和気あいあいと談話を楽しむ食堂も今日ばかりはそうも言っていられない。

 全校集会で校長先生からエールを贈られて早一週間。シェニーの前途には早くも暗雲が立ちこめていた。

 次学年に進むための進級試験は毎年新年度の挨拶後に行われるのが慣習となっている。

 新年度が始まったその日に進退が決まるなどたまったものではないのだが昔からの伝統なので文句は言えない。

 そして一週間後の今日、その結果が返却された。

 結果に一喜一憂する生徒は後を絶たずシェニーもまたその結果に頭を悩ませていた。

 結果は合格。

 入学から一度も留年することなく四年生に進級できたがその顔は浮かないものだった。


「シェニーちゃん」


 目の前に広げた答案とにらめっこをしていると一人の少女が声をかけてきた。

 大きな丸渕のメガネと背中まで伸ばした亜麻色の髪で編まれた大きな三つ編みが特徴的な小柄な女の子だ。


「ルジーちゃん!」

「隣いい?」

「もちろん!」


 ルジーと呼ばれた少女、ルジェッタ・ドワルホルンはシェニーの隣に腰掛ける。


「試験お疲れ様。どうだった?」

「受かったよ。シェニーちゃんは?」

「ばっちり合格!・・・実技以外は」

「今年も駄目だったんだ」


 その言葉に目を伏せる。視線の先には返却されたばかりの試験結果があり、魔法学の実技欄に書かれた採点不能という文字が嫌でも目についた。


「魔法が使えないなんてわたしくらいだよね・・・」

「うーん、そうかも」

「あぅ・・・」

「でも座学だけで進級なんてすごいよ。私じゃ無理かも・・・」

「すごくないよ。毎年ギリギリなんだから」


 毎年の苦労を思い出し心の中でため息を吐く。新しいことを覚え知識を蓄えることはとても楽しいがやはりできないことがあると気が滅入る。


「ごめんね。つきっきりで教えてもらったのに・・・」

「気にしないで。私も教わってるからおあいこだよ」

「あ、ありがとうっっ!!」


 親友の優しさに感極まり飛びつくように抱きつく。突然抱き締められたルジーは慣れた様子でそれを受け入れた。


「ふふっ・・・」

「よーし!来年には絶対できるようになるから待っててね!」

「今年じゃないんだ・・・」


 それから試験問題の話をしていると鐘を突くような音が食堂に鳴り響いた。

 音をより広範囲に届ける風の魔道具、風刻音器による昼休み終わり十分前を告げる予鈴だ。

 二人は揃って立ち上がってカップを返却すると授業に使う参考書や道具を保管している保管室に向かう。

 次の授業は魔法薬学の課外授業。学園から少し離れたところにある森に行って魔法薬に使う薬草を採取するというものだ。

 インセィズ魔法学園は十三歳から入学が認められ留年しなければ十八歳で卒業となる六年制の学園である。

 授業は必修科目と選択科目の二つに分けられ、最初の二年で必修科目から各選択科目の知識を広く浅く学び三年生から選択科目を取ることになる。

 二人が取っている魔法薬学は後者だ。

 備え付けのロッカーを開け、手慣れた手つきで参考書や採取用のナイフを鞄に詰める。

 漏れがないか確認していると横で準備をしていたルジーが話しかけてきた。


「・・・あっ、そうそう。引率の先生が変わるって話聞いた?」

「えっ!?そうなの!?」

「うん。ドラシィ先生が今朝階段でこけて足を捻挫したんだって。代わりにイーベルジュ先生が行くって言ってたよ」

「そうなんだ。大したことなくてよかったよ・・・」


 大事に至らなかったことにほっと胸を撫で下ろす。

 ドラシィ先生は課外授業の引率を担当するはずだった魔法薬学の教師だ。


「ん?イーベルジュ先生って考古学の先生だよね?魔法薬のことわかるの?」

「採点は後でするから引率は誰でもいいんじゃないかな?」


 そんなものかと心の中で納得し、課外授業に備えて必要な道具一式を鞄から取り出す作業に戻った。



 課外授業の地、ラーサの森は魔法学園の北東に広がるそれなりに大きな森で学園からは馬車でおよそ三十分ほどの距離にある。

 昔から魔法薬の材料となる薬草が豊富に採れる場所として知られ、薬草を摘みにくる魔法使い等が数多くいることから今回のような課外学習等によく用いられている。

 馬車に揺られて到着した頃にはもう昼を過ぎており、日がわずかに傾きかけていた。

 馬車を降りた一同を春ののどかな陽光が出迎える。

 目の前に広がる広大な森林に期待を膨らませ談笑する生徒達とは対照的に引率の教師、エレノアール・イーベルジュは感情の読み取れない無表情で淡々と招集をかけた。

 指示通りに集まったところで事務的に要項だけを述べる。


「今日の授業は採取だ。どんなものでもいいから薬草を摘んでくればそれでいい。薬草の量や質で点数が変わることはないが森を穢したり荒らすような行為を行った者、学ぶ意欲がないと判断した者は即減点。毒物を採取した者も後日減点とする。何か質問は?」


 質問の手が挙がらないことを確かめるとイーベルジュは淡々と続ける。


「今から一時間後にここに集合だ。森は鬱蒼として迷いやすいからあまり遠くには行かないでくれよ。もし魔物が出たらすぐに逃げて僕に報告してくれ。以上だ」


 必要なことだけを告げるとイーベルジュの興味は生徒達から近くにあった切り株へと移った。


「ふむ。この木は比較的新しいものだな。樹齢は・・・」


 神妙な面持ちで切り株を観察するイーベルジュに声をかける者はいない。

 このイーベルジュという教師は考古学を履修していない生徒でも知っているほどの変わり者なのだ。

 曇天の雲のような灰色がかった青い髪と黒檀のような深い黒を湛えた瞳という類い稀なる容姿を持ってはいるもののそれを活かす気は微塵もなく、洒落っ気がなく機能性のみで選んだような眼鏡がそれを雄弁に物語っている。所々枝毛が生えた肩まで伸びた髪を無造作に縛り、服も着て動けるならなんでもいいのかいつも野暮ったいロングコートを羽織っている。

 唯一お洒落と言えなくもないのが右手の薬指にはめられた指輪。

 宝石等がついているであろうところに何もない変わった指輪だがそこに刻まれた翼を広げた鳥の紋章は雄大な気品を感じさせる。

 結婚指輪かもしれないと噂されているが真相は定かではなくその他にも外国の学園を飛び級で卒業した、校長先生から直々にお呼びがかかっただの様々な噂が飛び交う謎多き存在だ。

 そして自分の事を僕と言うがれっきとした女性である。


「さて・・・」


 鞄を背負い直して辺りを見渡すと採取は既に始まっていた。

 と言っても真面目に薬草を採取しようとしている生徒は少数派で大半はピクニック気分で友達と談笑していたり男子とデート気分で採取する者までいる。

 ここで採取して適当に時間を潰すのが一番楽なのだがそれだと取れる素材も被ってしまう。

 なにより今は一人でいたい。

 少し奥に入って採取しようかと考えているとルジーが採取用の革袋を片手に近づいてきた。


「シェニーちゃん。一緒に回ろう?」

「うーん・・・ごめんね。今日は一人で回りたいの」


 申し出を断わられたルジーは少しの間きょとんとしていたがすぐに笑顔を浮かべた。


「そっか。頑張ってね!」

「うん!ルジーちゃんもね!」


 ルジーと別れて森に入っていく最中、シェニーは小さく呟いた。


「気、遣わせちゃったかな?」


 シェニーが知るルジーという少女はとても聡明な子だ。あの短いやり取りで一人になりたがっていることを理解してくれたのだろう。

 付き合いの長さに甘える形になってしまったがそれでも今は一人でいたかった。

 少し歩いたところで歩を止め、いつでも集合場所に戻れる地点で薬草を探し始める。幸いなことに他の生徒の姿はなく思う存分一人で作業できそうだった。

 ローブのポケットからメモ帳を取り出して開く。そこにはシェニーが今まで見聞きしてきた魔法薬の知識がびっしりと書き込まれていた。


「タイカラの木の下に・・・あった。アマハクサ。解熱薬の材料。こっちはツキヨタケ・・・?ツキノヒガサだったら減点だし・・・うん。キノコはやめよう。あっ!カタミール!お湯で煮出せばおいしいお茶にもなるし精神安定薬の材料にもなる優れものだね」


 メモを頼りに付近にある薬草を少しずつ採取し、あっという間に採取を終えたシェニーは近くの木に背を預けて座り込んだ。


「はぁ~、取った取ったぁ・・・」


 持参した袋は薬草でいっぱいになり、胸にはやり切った充実感が満ちている。

 それもつかの間。

 すぐに心に暗い雲がよぎりシェニーの笑顔が曇る。


「どうして使えないんだろう・・・」


 掌をじっと見つめて静かに呟く。思い出すのは進級試験のこと。そしてこれまでのこと。

 ローブのポケットから二十センチほどの木の棒を取り出して立ち上がる。先端にシェニーの髪と同じ色の黒曜石がはめ込まれた魔法の杖だ。

 意識を杖の先に集中させ、その先端を目の前の木に向ける。

 目を閉じて思い描くのは頬を撫でる風。一陣の爽やかなそよ風から始めて頭の中でその風力を強めていく。木々を揺らす程度だったそれが木を折り岩をも吹き飛ばす暴風になったところで呪文を詠唱する。


旋風の嚆矢せんぷうのこうし!」


 局所的に風を起こして旋風の矢を作り標的へと飛ばす風魔法。発動すれば旋風の矢が放たれ眼前の木を抉り穿っただろう。だが、それは発動すればの話だ。

 旋風どころかそよ風一つ吹くことなくシェニーの詠唱は鬱蒼とした森に虚しく木霊する。


積土の礫せきどのつぶて!」


 ならばと魔法を変えてみる。

 土の塊を操って飛ばす土の魔法。発動すれば木目掛けて土の塊が殺到し叩き折っていただろう。だが、やはり発動しない。


「はぁ・・・」


 失意のままに木にもたれてずり落ちる。

 一年生からずっと魔法を習っているにも関わらずこの様だ。知識や理論は頭に入っているもののいざ実践となると何も起きないのだ。

 杖を振って呪文を唱えても火は起こせないし水も動かなければ風も吹かない。

 何年頑張っても一向に使える気配がなく今日まで使えた試しはない。

 それ以外の科目で点を稼いでどうにか進級だけはしてきたが魔法を使えない魔法使いという事実がシェニーの心に暗い影を落としていた。


「やっぱり才能ないのかな・・・?ずっとこのままだったら、みんながっかりするかな?信じてくれるのに応えられないなんて・・・そんなのやだよ・・・!」


 嫌な考えというものは一度溢れ出せばとめどなく押し寄せてくるものだ。内から湧き上がる弱音を小さく溢して空を仰ぐ。

 森の中から空は見えず、そびえ立つ壁を思わせる分厚い葉を茂らせた木々が視界を塞いでいるだけだった。

 膝を抱えて空を見上げること数分。視線を戻し、両手で頬を数回軽く叩く。


「うん!もう大丈夫!ルジーちゃんだってエミーちゃん先生だって信じてくれてるんだもん!こんなことで諦めたくない!よーし!帰ったらまた特訓だー!」


 勢い良く立ち上がって両手を高々と掲げる。その最中、視界の端に煌く何かを捉えた。


「うん?」


 光が見えた方に歩み寄ってしゃがみ込む。そこにあったのは大きな虫の羽だった。


「綺麗・・・!」


 拾い上げたそれを太陽に掲げる。透き通った透明な羽は太陽の光を反射して宝石のように煌いていた。


「何の羽だろ?こんな虫いたっけ?」


 羽をじっくりと眺めながら知識を掘り起こす。

 生物学を履修し生物にはそれなりに明るいシェニーだがここまで大きな羽を持つ虫など見たことがない。

 その大きさは虫というより鳥と言った方がしっくりくる。

 考えたところで答えは出ず、後で図鑑で調べてみようと一旦保留にする。


「・・・うん!いい栞になりそう!ルジーちゃん喜ぶかなぁ?」


 試験勉強のお礼にこの綺麗な羽をあげよう。そう思いながらローブのポケットに羽をしまう。

 その時だった。

 シェニーの耳に聞こえてくるはずのない音が流れ込んできた。


(て・・・けて・・・)

「えっ?」


 それは紛れもなく人の声だった。

 慌てて周囲を確認したが先生も生徒もいない。聞き間違えかと首を傾げていると再び声が響く。


(お願い・・・誰か助けて)

「・・・っ!!誰かいるんですか!?」


 今にも消え入りそうなか細く弱々しい声の主が助けを求めていることに気づいたシェニーは即座に声に問いかける。


(私の声が、聞こえるの・・・?)

「はい!助けてって聞こえました!どうかされたんですか!?」

(案内するわ。ついてきて)

「待ってて下さい!今先生呼んできます!」

(一人で来い!!)

「はいぃっ!?」


 訂正。全然弱々しくなかった。

 声に促されるままシェニーは森の奥へと駆け出して行った。


(次右)

「はい!」

(そこの切り株左!)

「はい・・・!」

(行き過ぎ行き過ぎ!ため池のとこ戻って!)

「はいぃ・・・」


 声の主はシェニーをどこかに連れて行こうとしているようで方向を指示してくる。

 だが指示をするだけで手助けしてくれるわけではない。

 生い茂る背の高い草を掻き分け、地面に張り出した太く大きな木の根を越え、ぬかるんだ地面に足を取られながら歩き続けるうちに体力は限界に達していた。


「はぁっ・・・!はぁっ・・・!」

(ヘバるの早過ぎ。基礎がなってないわ)

「ちょ、ちょっと休ませて下さい・・・」

(その必要はないわ。もう着いたもの)

「えっ?」


 その言葉に辺りを見回すと森の中にも関わらず草木の生えない開けた平地があり、その中心には辛うじてそれが屋敷だったとわかる程度にしか原型が残っていない朽ち果てた建物があった。

 一体いつからあるのか分からないが相当長い間ここにあったのだろう。

 風雨で屋根と壁はほとんど剥がれ落ち、錆びて折れた骨組みが露出したヒビだらけの柱が風に揺られてミシミシと悲鳴のような音を立てている。

 触れただけでも崩れてしまいそうなほど荒れ果てた屋敷だが、シェニーはそこにあるものに違和感を覚えた。


「ここだけすごく綺麗」


 それは屋敷の床だった。

 当時の面影を察することすら不可能なほど崩れ去り、床材の木もほとんど腐ってはがれ落ちているにも関わらず煤も埃もついていない部分があった。

 近づいて指でなぞってみるとまるで新築の木のように柔らかく、少し抵抗は覚えるものの指がなめらかに滑っていった。


(そこを押してみなさい)

「こうですか?・・・わぁっ!?」


 言われた通りに床を掌で押してみると床は深く沈み込んだ。

 突然の事に驚いていると沈みこんだ床は上に滑るように開いていき、その下にあるものの全貌を少しずつ暴いていく。


「すごーい!」


 床の下にはシェニーが容易に通れそうなほどの大きさの通路があり、階段が地下へと繋がっていた。

 階段の両脇では等間隔に置かれたカンテラの灯が揺れており、地下だというのに足元が見えるほどの明るさが確保されている。


(降りなさい。そこに私はいるわ)

「はいっ!」


 壁に手をつきおっかなびっくりといった様子で階段を降りていく。

 階段を降りきるまでさほど時間はかからず、降りきった先には小さな木製のドアが待ちかまえていた。


「すみませーん。どなたかいませんかー?」


 ドアノッカーを軽く叩いて声をかけるとドアはひとりでに開いた。

 薄暗いながらも明かりがあった階段とは打って変わって部屋の中は荒涼とした暗闇が広がっている。

 一寸先も見えない闇に怯えて身じろぎしていると唐突に目も眩むような強烈な光が部屋を照らした。


「・・・っ!」


 あまりの眩しさに思わず目を背ける。

 その間に光は少しずつ弱まっていき、やがて部屋全体が見えるほどの光量に落ち着いていった。


「わぁ・・・っ!」


 光に照らされたその部屋は朽ちかけた屋敷の地下とは思えないほど広大なものだった。

 目を引くのは壁一面を埋め尽くす本、本、本。

 シェニーの背を優に越える本棚に収められた大量の本にそれを読むために設えたであろう大人一人が横になって眠れそうなほど長い文机と玉座のように豪奢な椅子。

 本や家具にあまり詳しくないシェニーでもそれが大層な値打ち物であるとわかるほど気品溢れる物ばかりだった。


「ルジーちゃんが喜びそうだなぁ」

(ちょっと!私のこと忘れてない!?)

「ひゃあっ!?」


 声に急かされてここに来た理由を思い出す。


「えっと、わたしは何をしたらいいんでしょうか?」

(ぼさっとしてないでこれ書いて)


 声がそう言うと一枚の紙が本と本の間をすり抜けるようにして飛び出し文机に舞い降りる。

 手に取ってみるとそれは年代物の羊皮紙だった。

 見たこともない言語で書かれていて何が書いてあるのかさっぱりわからない。


(一番下に空欄あるでしょ?そこに名前書いて)

「ここですか?」

(そうよ。血で書いてね)

「血!?」


 思わぬ要求に声が裏返る。

 躊躇いはあったが声の主が助けてと懇願するほどに困っているのだからと己を奮い立たせ、鞄から採取用のナイフを取り出して人差し指の先を軽く裂いた。

 指に走る鋭い痛みに顔をしかめる間にも傷口からは血がにじみ出る。垂れてきたそれをハンカチで拭い指で名前を書いていく。


「シェリンドル・ローレリアっと。これでいいですか?」

(えぇ。上出来よ。次は棺を開けて頂戴)

「ひ、棺!?」

(左の本棚を横にずらしなさい。そこにあるわ)


 頭の中では疑問符が渦巻いていたが指にハンカチを巻いて止血しながら次の指示に従う。

 言われた通りに左側の本棚の縁を持って動かすと本棚は戸のように滑り出した。本が所狭しと収められている割には手応えが軽いそれを開くと確かにベッドがおけるくらいの空間があり、棺が横たわっていた。


「・・・っ!?」


 異様な姿の棺に気圧され本能的に後ずさる。

 多くの場合黒で構成されることが多い棺だが、その棺はまるで流れ出して固まったどす黒い血のような赤一色で構成されていた。

 人を見送ったことが数えるほどしかないシェニーでもそれがまともなものではないということは理解できた。


「えっと・・・開けなきゃダメ、ですか?」

(ダメよ。じゃないと私が助からないわ。私を助けにきてくれたんでしょ?なら最後までやり遂げなさい)

「は、はい・・・!」


 声に後押しされ震える手で棺の蓋に手をかける。


「んぅっ・・・!」


 シェニーは全力でこじ開けようとするが固くて重い蓋は中々開かない。

 ぴくりとも動かない蓋と格闘すること数分。

 ようやく蓋が動き始めた。

 一度開くと先程までの頑強さが嘘のようにするりと動き、ついに棺の蓋が開かれる。

 恐る恐る覗き込んだその中には・・・誰もいなかった。


「空っぽ?」


 中身のない棺に首を傾げた次の瞬間、突如棺が赤い閃光を放ち始めた。

 あまりの眩しさに腕で目を覆っていると今度は棺を中心に強い旋風が吹き荒れる。


「わぁっ!?」


 その衝撃で隠し部屋から飛ばされたシェニーは盛大に尻餅をついた。


「いったぁ・・・」


 打った尻をさすっていると先ほど名前を書いた羊皮紙にも変化が訪れる。

 羊皮紙に書かれた文字が赤い光を放ちながら宙へと舞い上がったのだ。

 羊皮紙は部屋の中央で浮遊するように止まり、棺の中から出てきた何かが羊皮紙を目指して集まってきた。


「えぇっ!?なになに!?」

(契約ありがとう。間抜けな奴隷ちゃん♪)


 それは赤い霧のような何かだった。部屋中から集まってきたそれらは形を変え、やがて人の形を取る。

 全身が血のような深紅の霧で構成された人型の何かは羊皮紙を両手で持つと目にも止まらぬ速さでシェニー目掛けて突っ込んできた。


(さぁ!身も心もご主人様に明け渡しなさい!!)

「きゃああああっっ!!!」


 赤い霧とシェニーのシルエットは重なり合い、そして一つとなった。




 シェニーが謎の声に導かれ廃墟を訪れていたちょうどその頃。

 集合時間はとうに過ぎ、生徒達は皆集合場所に戻っていた。

 イーベルジュが点呼を取るがそこにシェニーの姿はなく、生徒達に動揺が走る。

 何かあったのかと口々に話し合う中、ルジーは無数の木々が生い茂る森の向こう側を心配そうに見つめていた。


「誰かミス・ローレリアを見た者は?」


 全員が首を横に振る。

 口元に手を当てて何かを考える素振りを見せた後、今度はルジーに問いかけた。


「ミス・ドワルホルン。君はミス・ローレリアの友人だったな?」

「はい・・・」

「こんなことを聞くのは失礼だと思うが、ミス・ローレリアは授業の合間に昼寝をしたり勝手に帰るような所謂不良というやつなのか?」

「そんなことありません!」

「そうだよ先生!あの子超真面目なんだから!」


 ルジーが否定するとシェニーの人となりを知る生徒達も同調する。

 シェニーが素直で真面目な人間だということは幼い頃からの付き合いで身に染みている。だからこそ授業をサボって帰ったり怠けたりするような人間ではないと断言できる。


「そうか・・・。だとすれば、彼女の身に何かあったのかもしれないな」


 何かあったのかもしれない。

 その言葉にルジーの鼓動は瞬時に跳ね上がる。どこまでも広がる緑の迷宮のようなこの森で起きる何かなどろくなものではない。

 奥に行きすぎて迷ったのかもしれない、採取中に魔物に遭遇して襲われたのかもしれない。

 悪い考えばかりが次々と浮かび、無理にでもついていけばよかったという後悔がギリギリと胸を締め上げる。


「彼女を探してくる。君達はここで待っててくれ」

「私も行きます!」

「駄目だ」

「どうしてですか!?」


 イーベルジュは捜索に志願しようとしたルジーを一蹴し、日が傾いてきた空を指差して淡々と言う。


「春とはいえまだ寒く日没までの時間が短い。慣れてない者が夜の森を歩けば迷う危険性が高く最悪凍死する可能性もある。何より、夜は魔物や野獣の動きが活発になる。彼らの縄張りに踏み込めば餌食になるかもしれない。どちらにせよ森に入るのは危険だ」

「でも・・・」


 それが合理的な判断だということは理解できる。

 ひどいことを言うようだがいないのがシェニー以外だったら大人しく待っていただろう。

 だが、今森の中で迷っているかもしれないのは長年連れ添った大事な幼馴染なのだ。

 理解できても心は納得できない。

 イーベルジュはそんなルジーと向かい合い、体を屈めて視線を合わせる。


「友人を案じる気持ちは分かる。だが君まで遭難しては目も当てられない。すぐに見つけて戻る。それまで待っててくれ」


 まっすぐ向けられた瞳はとても真摯でこの事態を解決したいという気概を感じられるものだった。

 小さく頷くとそれを見たイーベルジュは空を見上げて指笛を吹いた。

 すると近くの木に止まっていた一羽の鷹が横に伸ばしたイーベルジュの腕に止まった。


「すぐに戻る!」


 そう言うと鷹が乗っている腕を大きく振り上げ鷹を放り投げるようにして空に飛ばした。

 空からの捜索を鷹に任せ、イーベルジュ自身も日没が近づき茜色に色づき始めた森の中へと消えていく。その背中を見送るルジーはローブの裾を強く握って俯くことしかできなかった。


「・・・っ!!」

「大丈夫だよルジー!先生が探してくれてるだもん!」

「でも、あの人考古学の先生だろ?大丈夫なのか?」

「ちょっと!嫌なこと言わないでよ!」

「確かに・・・。細いし全然強そうじゃないよね」


 男子生徒の不用意な一言で残された生徒達に不安が伝播する。

 課外授業に参加している生徒達の大半はイーベルジュの顔と少しの噂くらいしか知らない。考古学を履修し顔馴染みになっているルジーから見てもこういった荒事に向いているようには見えないのだ。

 何も知らない生徒達が不安に思うのも無理はない。だが、知っているからこそ安心して待っていられる。


「それは大丈夫、だと思う」


 イーベルジュへの不安を口々に挙げ連ねていた生徒達をやんわりと制す。

 全員の視線がこちらに向いたところでゆっくりと根拠を説明する。


「よく遺跡とか秘境の探検に行ってるみたいだから」

「そうなの?」

「授業でよくその話をしてくれるの。遠い国の話とか探検した遺跡のこととか」

「あの先生が?想像つかねぇなぁ・・・」

「なら大丈夫・・・かな?」

「うん。だから先生を待とう」


 ルジーの言葉に不安を募らせていた生徒達はそういうことならと納得を示し始める。

 本音を言えば今すぐにでも探しに行きたい。だが、イーベルジュが言ったように今ここで皆がバラバラに動くことが何よりも危険だということも理解できた。

 だからこそ待てと言われたなら全員をここに待たせなければならない。


「シェニーちゃん・・・」


 今はただ友人の無事を祈ることしかできなかった。


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