第21話

「ぼくはねぇ、恥ずかしながら55才なんです」



 辰さんはそう言いながら目を細めて、小さめの丸い眼鏡を指でひょいって上げた。



「だからね、正直、冴華さんたちとはあんまり長い時間を一緒に過ごすことはできないと思っているんです」

「………え」

「そんな顔をしなくても、今のところ悪いところはないし、健康です。でも、年相応にガタは来ているし、人っていつ何が起こるか分からないでしょう?」



 いつ、何が、起こるか。



 うんって僕は、辰さんの言葉に頷いた。それは、僕たちが一番よく分かっていることだった。



 たろちゃん。プロのキックボクサーだった僕のお父さん。念願の優勝を果たした次の日、たろちゃんが起きてくることはなかった。たろちゃんは永遠の眠りについた。



 思わず僕は、たろちゃんのネックレスを握った。



「もちろん、1分でも1秒でも長くこの世にしがみつく気ではありますが」



 僕たち3人が黙ったのを見て、辰さんはそう付け加えた。

 そして、テーブルの上に手を置いていた冴ちゃんのその手の上に自分の手を重ねて、握って持ち上げて、辰さんのもう片方のてのひらの上に置いて、そっとそっと両手で包んだ。

 びっくりする冴ちゃんに、穏やかに笑いかける辰さん。

 冴ちゃんの、強張っていた顔がふんわり、ゆるんだ。



「そのね、あんまり長くない残された時間を、人生最後に惚れた女性とその女性の子どもたちと共に過ごしたい。ぼくがその笑顔の元になりたい。ぼくはね、そう思っています」

「………辰さん」

「………」

「………」

「それにぼくはこう見えて、実はお金持ちなんです」

「………へ?」



 僕も冴ちゃんと同じように辰さんって思っていたのに、今の今までものすごく男らしい顔で、口調で言っていた辰さんが、がくってなりそうなぐらいの照れ笑いを浮かべて急な話題変更をした。



「そうなの?辰さん」

「大金持ちではなくて、小金持ち程度ではありますがね」

「………冴ちゃん」

「………はい。何でしょう」

「結婚を考えるならそういうところもきちんと知ってからにしないとダメじゃないの?」

「………ご、ごめんなさい。私貧乏ってたろちゃんで慣れてるから………」

「そういう問題じゃないよね」

「ご、ごめんなさい………」



 実くんの言葉に、冴ちゃんは身体を小さくした。

 僕はというと、突然のプロポーズみたいな言葉、次にうわって感動の言葉。からのお金持ち………小金持ち宣言に、辰さんが結局何を言おうとしているのか分からなくて、混乱し始めていた。



「家族になってくれたら、そのお金をね、ぼくが死んだあと、冴華さんにも明くんにも遺すことができる。もちろん、実くんにも。変な話お金はね、あればあるだけあった方がいいというのが、ぼくの持論なんです。お金があれば、ある程度自分と自分の大切な人やものを守ることができますからね」

「………辰さん。辰さんが死んじゃう話なんて………」

「縁起でもないってことは、十分分かっています。でも、ぼくの年齢を加味してきちんと話しておかないと」

「………」

「ぼくはキミたちのお父さんにはなれません。なれるとも思っていません。でも、家族になら、どうでしょう。なれませんか?家族の辰さんとして、冴華さんとキミたちを………そうですね、もらえませんか?」



 僕のお父さんはたろちゃん。だから、辰さんをお父さんではなく、家族に。



 辰さんのことは、僕はもう大好きだった。話し方や態度、冴ちゃんのことが本当に好きで、大切にしたいと思ってくれているんだろうなって分かるところ全部。



 ………でも。



 どうしたらいいんだろうって、僕は悩んだ。

 はいって答えたら、きっと僕の名字は山田から鍔田になる。そういうこと。そういう話。



 でもそれでいいのか。山田じゃなくなって。たろちゃんの名字じゃなくなって。



「辰さん。ボクはもう大人で社会に出ている身ですので、辰さんに守ってもらう必要はないです」

「そうですね。分かっています」



 どうしたらいいのか分からなくて黙っていたら、実くんがきっぱりと辰さんにそう言った。

 辰さんの横の冴ちゃんが、分かりやすく視線を落としたのが見えて、僕はますます自分がどうしたらいいのか分からなくなる。



「それに………」

「それに?」

「冴ちゃん、は辰さんに言ってある?」

「………え?実くんのこと?実くんのことは、16のときに産んだ上の子で看護師でしっかりしていて私の自慢の子ですって」

「それ以外には?」

「それ以外に何を言う必要があるの?」

「………」



 きょとんとする冴ちゃんに、実くんがはあああああって大きく息を吐いた。


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