第9話

「冴ちゃん」

「………はい」



 長い長い沈黙の後、実くんがいつもより低い声で冴ちゃんを呼んだ。



 何を言うんだろう。いつもの実くんの声じゃない。



 冴ちゃんの返事も、少し怯えるみたいに小さい声だった。



「確認させて」

「はい」

「ちゃんと好き?本当に好き?辰さんのこと。単に昔の話ができるとか、寂しいだけとか、同情とか傷の舐め合いじゃない?」

「………うん。最初はそうだったかもしれない。でも今は違う。辰さんだから、なの」

「じゃあ、妊娠しやすいタイミングを狙ったとかは?」

「………っ‼︎それはない‼︎絶対ない‼︎それを証明できるものは何もないけど絶対ないの‼︎さっきも言ったけど私本当に昔から生理不順だし、基礎体温もはかってないし、この何年かなんかそもそも月に1回どころか3ヶ月に1回ぐらいしか来てなくて、このまま閉経かしらって思ってたの‼︎それに会おうって約束してから4、5回予定変更してて、その日も急に決まったの‼︎だから違う‼︎たろちゃんに誓って違う‼︎」



 たろちゃんに誓って。



 さっきも冴ちゃんは言った。

 普段でも時々、冴ちゃんは言う。身の潔白を主張するときに、たろちゃんに誓ってって。

 だから多分、そうなんだろう。………って、僕は思う。本当に偶然、奇跡的に冴ちゃんは。



 はあって、実くんが息を吐いた。入ってた身体の力を抜くみたいに。

 それから、長めの髪を掻き上げて少し乱暴にそのまま掻き回した。



 僕はまだだった。抜けない。すごく力が入っている。身体に。

 保育園のときの仲良しだったっていう、なのに初めて聞いた名前。鍔田宗くん。

 覚えてないと思うけどって、冴ちゃんの言葉が気になった。その言葉通り、冴ちゃんの言う通り、本当に全然、覚えていないから。



 不思議。謎。僕が覚えていないことを、何故冴ちゃんが知っている?



 でも今はそれよりも、覚えていないその仲良しだった宗くんのお父さんの辰さんが、冴ちゃんのお腹の赤ちゃんのお父さん。

 たろちゃんと同じぐらい、冴ちゃんの好きな人。



「………分かった」

「………実くん?」

「分かったよ。ボクはいいよ。冴ちゃん本気みたいだし、何より赤ちゃんに罪はない。だからとりあえず、反対しない」

「本当⁉︎」

、ね。明くんは?入試や熱の上に、びっくりな話でびっくりしてると思うけど………」

「………うん」



 びっくり、している。

 冴ちゃんはずっとたろちゃんと仕事と僕たちだけだったから。それしかしていないように見えていたから。

 それを、いいのかなって思っていたから。

 僕がもっと普通の身体なら、もっと冴ちゃんは、実くんもだけど、もっと自分たちの好きなことに時間を割けるんじゃないかって。

 でもそれは、趣味とか友だち付き合いとかを想定して、冴ちゃんにたろちゃん以外の人とか、赤ちゃんとかは、完全に………想定外。



「明くんの正直な気持ちを言えばいいよ?」

「………うん。………あの、冴ちゃん。ひとつ聞いてもいい?」

「いいわよ。何でも聞いて。何個でも聞いて。何でも何個でも答えるから」

「………最近たろちゃんのネックレスをしてないのは何故?たろちゃんを忘れたいから?」



 ベッドの中で、僕はたろちゃんのネックレスを握りながら聞いた。



 これはたろちゃんの、遺髪になった髪から作ったダイヤモンドがはまるネックレス。

 冴ちゃんと実くんと僕で持っている、お墓や仏壇のかわりのもの。

 冴ちゃんのネックレスは、赤の一粒ダイヤネックレス。

 実くんと僕のは、僕たちの名前が刻まれたプラチナのネームプレートに冴ちゃんのより小さめの緑のダイヤが埋め込まれたネックレス。



 ………僕のはプレートとダイヤだけで、僕の名前はけど。



「………明くん、ごめんなさい」

「………っ」



 ワントーン落ちた冴ちゃんの声に、僕はさらに身体に力を入れた。



 ごめんなさいってことは、そうなんだ。

 たろちゃんを忘れたいんだ。



 その言葉が次に来るんだと、身体が勝手に身構えた。



「去年の11月の終わりぐらいに留め具を壊しちゃって付けられないの‼︎直そう直そうって思ってるうちにどんどん日が経っちゃって、その間に色々あったからさらに日が経っちゃって、今朝辰さんに赤ちゃんできました報告した時に直した?って聞かれてまだですって答えたら叱られました‼︎気になってたよね?本当にごめんなさい‼︎」

「え?」

「………え?」



 実くんよりも聞き返すのがワンテンポずれたのは、身構えたのに全然違う言葉が返って来たことに、頭がついていかなかったから。



 ただ壊れただけ、に、安心して。

 それから。



「妊娠報告がまさかの今朝?」

「………今日辰さん仕事お休みだから、今日の方がいいかなって」

「なるほど?で、ネックレスを直してないのを、何で辰さんが叱るの?」

「何でって………。それが辰さんだから。辰さんはそういう人だから。太郎くんの想いは、どんなときも奥さんである冴華さんがちゃんと持っていないといけませんって」



 今日は平日。

 なのに休みって辰さんは何者なんだろうって疑問は、実くんと同じネックレスへの疑問もあって完全に聞きそびれた。

 さらにその、ネックレスへの辰さんの言葉に感動して、疑問に思ったことも忘れた。

 うわぁって。たろちゃんのネックレスをそんな風に思ってくれているなんて。

 僕はてっきりふたりして………冴ちゃんと辰さんで、たろちゃんを居なかったことにしたいのかな、なんて。



「僕は………好きとかって全然分からないけど………。そこまで言ってる冴ちゃんと、たろちゃんのネックレスをそんな風に言ってくれる人に、反対って言える人が居たら、その人は鬼だと思う」

「………明くん」

「僕はこんなだから、あんまり手伝うことはできないかもしれないけど、せめて熱や風邪の回数を減らせるよう頑張るよ」

「え………じゃあ、明くん」

「赤ちゃん、おめでとう。冴ちゃん」

「明くん‼︎明くんありがとう‼︎実くんも‼︎私………本当に本当に、ふたりのお母さんで良かった。良かったよおおおおお………」



 僕たちの返事にほっとしたのか、冴ちゃんはうわあああああんって、小さい子みたいに泣いて、そんな冴ちゃんは初めてで、どうしようって実くんと顔を見合わせて、笑った。






「それにしても………まさかこの年で弟か妹ができるなんてね。ボク今27だよ?」

「………それは僕、15でそう思うよ」



 15才。今年16でお兄ちゃん。そんなこと、想像もしていなかった。

 僕でさえそうなんだから、実くんはもっとだろう。



「あら、大丈夫よ」



 やっと落ち着いて泣き止んだ冴ちゃんが、僕たちの言葉にけろっとして言った。



「辰さんとこの息子さん。宗くんのお兄ちゃんのまさくん、今35才だから」

「え⁉︎」

「35⁉︎」

「うん。辰さんもうちと一緒で早くに子どもを作った人だから。ふたり息子で、政くんが35で、宗くんが明くんと同じ」

「兄弟で20才差⁉︎………う、上には上が………」

「冴ちゃん、辰さんって何歳なの?」

「53。18でひとり目、38でふたり目、そして53で3人目」

「………あの………実は全員お母さん違うとか、言わない?」

「言わない言わない。そこは大丈夫。うちと同じでふたり目は長くできなかったって。間に何回か流産もしたって辰さん言ってた」



 もしそうだったらさっきのおめでとうを撤回もありかも、なんて思ったけど、そこは大丈夫そうだった。良かった。



 それにしても、兄弟で20才差で、今35。それで弟か妹。

 きっと相当びっくりしているだろう。






 たろちゃん。

 ………たろちゃん?

 冴ちゃんに赤ちゃんができました。悲しい?嬉しい?びっくり?

 僕はとにかくびっくりしていて、不思議な気持ちでいっぱいです。



 名前のないネームプレートを握って、声には出さず、たろちゃんに報告した。

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