第8話
「明くん、本当に本当にごめんなさい」
僕の部屋の、入ったすぐのところで冴ちゃんが正座をして、床に頭をくっつけた。
つまり土下座。
やめてよ冴ちゃんって、生姜湯を飲んだ後ベッドに横になっていた僕は、起きあがろうとして実くんに止められた。寝てなって。
「大事な入試の前に何してくれてるんだって、実くんにこっっっっってり怒られました。そんな大事なことをすっかり忘れてたことも合わせて、本当に本っ当に本っっっっっ当にごめんなさい」
一旦頭を上げてからの、また土下座。
ベッドの中からだからやめてよ冴ちゃんって言ったら、明くんに土下座するって聞かなくてって実くんが教えてくれた。
それからしばらく、冴ちゃんのごめんね攻撃が続いて、あまりにも続くから実くんが事情を話すんでしょって先を促した。
「冴ちゃん。明くん熱があるんだから手短かに」
「………はい」
実くんに怒られて、しゅんと肩を落としながら、何故か床に正座のまま、冴ちゃんは話し始めた。
「3年ぐらい前に私が勤めてる病院に
「つばたむねくん?」
全然聞き覚えがなくて、思わず聞き返した。
すごく仲良しだったなら、名前ぐらい覚えていても良さそうなのに。
不思議なぐらい、僕はその名前を覚えていなかった。
「僕の仲良しってあおちゃんだけじゃないの?」
「あおちゃんは途中から保育園に入って来たから。あおちゃんが来る前まで、明くんは宗くんと仲良しだったの。っていう話はまたにして、辰さんのことを話していい?」
「………あ、うん」
ここまで名前に記憶がなくて、しかもあおちゃんが途中から保育園に入って来たって、それにもそうだっけ?ってなって混乱した。
なのに『辰さん』のことを話していい?って聞かれて反射的にうんって答えた自分バカってなった。
何かすごく胸の辺りが………もやもやする。『宗くん』が気になる。何故か。
「本当に偶然ね、自転車で転んで足と頭を怪我してうちの病院に運ばれてきたのが、宗くんのお父さんの辰さんだった。鍔田って珍しい名字でしょ?それで宗くんのお父さんって判明して、話すようになって、退院のときにね、連絡していいですか?って言われたの。実はぼくも奥さんを………宗くんのお母さんを亡くしてるんですって」
「………え」
「それからね、少しずつ連絡するようになって、しばらくして時々会うようになって。………でも、ずっとそれだけ。お互い相手を亡くしてるから話も合うっていうか。私は宗くんのお母さんを知ってたし、辰さんもたろちゃんのことを知ってて、だからね、そんな話をしたりとか」
冴ちゃんはそこまで一気に話してから、正座をしている膝の上に拳を作って俯いた。
ベッドの傍に立っていた実くんが、すとんって床に座る。
もしかしたら実くんも、ここまで詳しくは聞いていなかったのかもしれない。
「………それだけだったんだけど、段々気持ち的にそれだけじゃなくなって」
「………」
「………」
「もう会うのはやめましょうって私から言ったの。『明くんの仲良しさんのお父さん』として見られなくなったのに、何もないように会うことはできないし、かと言ってこの年でお付き合いなんてできないって。………そしたら辰さん、賭けをして下さい。一度だけぼくにチャンスを下さいって。ぼくも冴華さんのことが好きです。とても好きです。なのに冴華さんの気持ちを知ってのお別れはつらい。でも冴華さんの気持ちも分かるし、その気持ちも大事にしたい」
そう言ってねって、冴ちゃんは黙った。
僕はもちろん何も言えなくて、実くんも黙っている。
長い、長い長い、沈黙。
「本当にね、辰さんとはずっとずっと清いお付き合いをしていたの。私はたろちゃんと患者さん以外の男に人に触ったこともなければ、触られたこともない。辰さんとは、ラインしたり時々電話したり、会ってもご飯を食べるぐらい。本当に本当にたろちゃんに誓って、それ以上じゃなかった」
「………」
「………」
「辰さんは言ったの。一度だけ、ぼくに冴華さんを抱かせて下さい。もしそれで冴華さんが妊娠したら、ぼくと結婚して下さい。もししなかったら………そのときは、それを思い出に、もう会うのはやめましょうって」
こんな話。僕は聞いていていいのかなって、思った。
こんな大人の話。真剣な話を、まだ子どもの僕が。
床に座る実くんを見たら、実くんはじっと冴ちゃんを見て、冴ちゃんの話を聞いていた。
僕の視線に気づいて僕を見て、少しだけ頷いた。
戸惑っている僕に、多分、大丈夫っていう意味で。
「私、返事をするのに3ヶ月ぐらいかかって、悩みすぎて10円ハゲができたの。私は元々生理不順だし、実くんを産んでから明くんが生まれるまで12年もあいてる。できなかったの。そしてこの年。絶対無理じゃない。そんなの賭けでもチャンスでもない。ただの終わり。お別れの儀式。私からもう会うのはやめましょうって言ったのに、辰さんのお願いを聞いちゃったら、本当にもう二度と会えないじゃないって」
ぐすって、静かな部屋に冴ちゃんの鼻を啜る音が響いた。
それからへへって、わざとらしい笑い声。
「………でも、いつまでもぐずぐずしてたって仕方ない。踏ん切りをつけよう。覚悟をしようって辰さんに会って………そして………そしたら」
「………」
「………」
「そしたら、ごめんなさい。できました。できちゃったの。赤ちゃん。私と辰さんの赤ちゃんが。絶対できないと思ってた。これでお別れって。でもね、だからってできたときのことを考えなかったんじゃない。もしできたら、ちゃんと産もうって決めてた。誰に何て言われても育てて行こうって。だから後悔は全然していないの」
ぐいって、冴ちゃんがセーターの袖で涙を拭いた。いつもちゃんとキレイにお化粧をしているのに、それが落ちる勢いで。
「たろちゃんは私の命だった。大好きだった。今も大好き。私の命だったたろちゃんが死んじゃっても私が生きて来られたのは、大好きなたろちゃんの血を受け継いだ実くんと明くんが居たから。………でもね、私、辰さんのことも好きなの。大好きなの。私の残された人生、たろちゃんも一緒だけど、辰さんとも一緒に居たいの。大好きなたろちゃんと、たろちゃんとの大事な大事な実くんと明くん。大好きな辰さんと、辰さんの息子くんたち、そして………この子と。居たいの。一緒に」
冴ちゃんがもう一回、ぐいって涙を拭いた。
そして、真っ赤な目でこっちを、実くんを見て、僕を見て、また頭を床にくっつけた。
「勝手なことを言ってるのは分かってる。ごめんなさい、こんなお母さんで。でも………お願いします。この子を産ませて下さい。この子を実くんと明くんのきょうだいにしてあげて下さい」
部屋は静かに静かになって、僕は何て言ったらいいんだろうって、ベッドから冴ちゃんの頭のてっぺんを見ていた。
冴ちゃんの頭は、僕の視界は、冴ちゃんにつられてと、冴ちゃんの言葉での涙で、ゆらゆら揺れていた。
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