第7話

 コンコンってノックのあと、実くんが湯気の立つマグカップを持って入ってきた。

 電気つけるよって、つけてから。



 僕はもぞもぞ動いて起き上がって、いつも着ているお気に入りのカーディガンを羽織った。

 暖房は入っているけど、寒い。



「熱は8度ぐらい?」

「………」

「当たりだ。寒気とかしてるんじゃない?」

「…………」

「してるね。明日は冴ちゃんが夜勤で午前中は居るから、冴ちゃんと病院に行こうね。ごめんね、あの時間だとバイクの方が早く着くからバイクにしちゃったのがやっぱりダメだった」



 さすが僕の面倒を15年みてくれてるだけあって、実くんは僕の体調のパターンを熟知している。

 その通りすぎて返事もできない。

 ごめんねに、かろうじてううんって首を振った。



「………冴ちゃん、夜勤なんてやって大丈夫なの?」

「本人は大丈夫って言ってるけど………。でも急な夜勤変更はなかなか難しいし。こんなこと言うのも、だけど、仕方ないっていうか」



 昨夜の今日で、僕は冴ちゃんにまだ会っていない。

 同じ家に住んでいながら会っていないってすごいことなんだけど、冴ちゃんと僕では週に何回かある、我が家のあるある。



 だから、会っていないから、まだ聞いていない。



『できちゃった』の真相。実くんが言っていた体調不良の真相。

 実くんに聞けばいいのかもしれない。実くんはもう知っている………はず。



 予想はできている。できているっていうか、それしかないように思う。

『できちゃった』って言っていて、たろちゃんのネックレスをしていなくて、体調不良。

 連想ゲームみたいに浮かび上がる言葉は、ひとつしかない。

 なのに聞けないのは、聞いたら、知ったら、この先どうなるんだろうって、こわいから。



 臆病なんだよ。僕は。



「熱いから気をつけてね」

「………うん。ありがとう」



 渡されたマグカップは、実くんがコレクションしている陶芸作家さんの、ちょっとゴツくて大きいマグカップ。

 アースカラーっていうのかな、自然の色味の、あったかい感じがするやつ。

 生姜湯はそれに半分ぐらい入っていた。



 明くんは鉄分も摂った方がいいんじゃない?って、やっぱりおばあちゃんがくれた、おばあちゃんがずっと使っていた少し錆びている鉄の小さいやかんみたいなので沸かしたお湯に、おろした生姜。

 そしておばあちゃんの知り合いのはちみつ農家さんから直で買っているはちみつが入った生姜湯。



 健康にいいっていう飲み物は、美味しくないものが多いけど、生姜湯は美味しい。美味しくて好き。



「明くん、冴ちゃんが明くんと話したいって言ってるけどどうする?」

「………え」



 一口、また一口と実くんがいれてくれた生姜湯を飲んでいたら、ベッドのはしっこに座って僕を見ていた実くんにそう言われて、どきんって、なった。



 冴ちゃんが、話。



 そんなのもう、考えなくても分かる。昨夜の話だ。



「明日にしてもらう?」



 実くんの声が、果てしなく優しい。

 優しいから。



「………実くん」

「ん?」

「………聞いたら、僕、どうなるんだろう」

「どうなるって?」

「………」



 どうなるんだろう。



『できちゃった』のは、きっと赤ちゃん。

 つまり、たろちゃんじゃない好きな人が冴ちゃんにできて、その人との子どもができて、一緒に住んだり結婚したりするのかもしれない。話ってそういう話だと思う。



 ………そしたら僕はどうなるんだろう。



 実くんはもう大人で、看護師って仕事もあるから何の心配もない。でも僕は。



 考えが頭の中をぐるぐるしている。

 


 ううんって思う。



 冴ちゃんは家事が壊滅的にできないし、ちょっと天然っていうか、昨夜みたいに僕の本命入試前に『できちゃった』カミングアウトなんてするようなところがあるにはある。『お母さん』っぽくないところが。

 でも、実くんの言う通り冴ちゃんは好きな人ができて、その人との子どもができたからって、実くんと僕を捨てるような人じゃ、そんなお母さんじゃない。



「どうにもならないよ。大丈夫」

「………」

「何がそんなに心配?」

「………」



 黙っている僕に、黙り続けている僕に、実くんが明くんって言った。



「明くん、ボクの趣味が何かって知ってる?」

「………え?」



 名前に続いた言葉が急すぎる質問で、え?って僕は実くんを見た。

 眼鏡をかけていないからちょっとぼやけて見える実くんは、何故か笑っている。



「趣味だよ。ボクの趣味は何でしょう?」



 趣味。実くんの。



「………家事」

「うん、正解。じゃあボクの夢は?」

「………専業主夫」

「うん。またまた正解。さすが明くん」



 ぱちぱちぱちって実くんが手を叩いているけど、僕にはよく分からない。

 どうして冴ちゃんの話から、実くんの趣味と夢の話になるんだろう。



 困惑している僕に、ふふって実くんの笑い声が聞こえた。



 実くんは笑って、ふんわり耳に髪をかけた。

 その耳。左側の耳たぶには銀色のピアス。



 そう。実くんの趣味は家事。

 冴ちゃんが壊滅的に家事ができないのに、我が家がいつもキレイで美味しいご飯なのは、午前中だけの勤務の実くんが家事を全部やってくれているから。



 そんな実くんの夢は専業主夫。

 素敵な『旦那さま』と将来結婚して、その『旦那さま』のお世話をするのが、実くんの夢。



 ………聞いてびっくりしたその夢を告げたときの実くんの顔が、僕は今でも忘れられない。



 目に涙を浮かべていた。無理なのは分かってるよって。諦めの。でも口元に一生懸命笑みを浮かべていた。



『冴ちゃん、ごめんなさい。ボクは男の人しか好きになれません』



 そう言って冴ちゃんに頭を下げた実くん。



 実くんは、身長が178センチと高め。プラスで合気道をずっとやっているから、はっきり言って強い。強いけど、見るからにむきむきという身体ではない。

 それは、筋トレなんか絶対しない‼︎むきむきはボクの敵‼︎って言っていっさいやらないから。



 中性的って言うのかな。こういうの。実くんのような人。男の人で背が高いわりに線が細い。声も柔らかい。

 イケメンで女の人のファンが多かったというたろちゃん似って言われる整った顔立ちは、優しい雰囲気と少し長い髪で、イケメンっていうよりキレイなお兄さん。



『私は実くんが幸せならそれだけでいい』



 実くんのびっくり発言への冴ちゃんの返しもすごいって思った。ここに生まれてきて良かったって、思った。



「明くんの身体が弱いのは、明くんにとってつらいことだし、つらい明くんを見るのはつらい。でもボクは、明くんの身体が弱いお陰で、仕事をそこそこにして家に居られる」

「………え?」

「それと同じように、冴ちゃんが家事が苦手なお陰で、ボクは趣味の家事が思いっきりできる」

「………」

「ただ、残念ながら『素敵な旦那さま』と結婚するっていう夢は無理でしょ?実現することは不可能。でもボクは、ふたりのお陰で趣味を満喫してほぼ夢を叶えてる状態なんだよ。感謝でしかない」

「………実くん」

「冴ちゃんは冴ちゃんで、ボクが居るから仕事に専念できるし、かわいいかわいい明くんが居るから頑張れる」

「………」

「だからね、変な心配はしなくて大丈夫。明くんは明くんが思っている以上に冴ちゃんとボクに愛されてるし、明くんが思っている以上にボクたちは明くんが居てくれるだけで幸せだよ」



 僕は。



 僕は小さい頃から『虚弱体質』というやつで、ちょっと何かあると熱を出す、風邪をひく、咳が止まらなくなる、貧血を起こして倒れる、お腹をこわす………などなどなど。書き出したらキリがないぐらい、とにかく身体が軟弱にできている。ただただ手のかかる子。



 身体が軟弱だからなのか、それはまた別問題なのか、僕は残念ながら心も軟弱。

 すぐ泣く、すぐ落ち込む、すぐ凹む。基本は弱気。後ろ向き。それが僕。



 実くんの言葉に涙が浮かんで、それがぽろんって布団に落ちた。



「どうにもならない。絶対ならない。心配は要らない。冴ちゃんとボクの幸せに、明くんは絶対絶対、必要なんだよ」

「………うん。ごめんなさい」



 かろうじてそれだけ言った僕の頭に、うんって言った実くんの手が乗った。冴ちゃんとちゃんと話そう?って。



 うんって僕は、頷いた。

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