第178話 智樹、なんでもするって言った



 養護教諭が顎で示した方向にあるベッドへと向かい、視線を遮るために置かれた衝立を動かす。すると、そこには仰向けになってふてくされている小日向がいた。


 彼女は下唇を突き出して不満を表明しており、俺が来ていることにも確実に気付いているはずなのだけど、ちらりともこちらに視線を向けようとしない。他人に気遣うことができないほどダウンしている様子でもないから、八つ当たりみたいなものだろうか。


「やれやれ……」


 俺はため息交じりにそんな言葉を漏らして、ベッドわきに置かれたパイプ椅子に腰かける。


「身体はきついか?」


 そう問いかけると、彼女は目だけ動かして俺をチラッとみたあと、小刻みに顔を横に振る。これは嘘だろうな。相変わらず嘘は下手な様子。


「本当のことを言いなさい」


 そう言ってジト目を向けてみると、彼女はおずおずと布団の中から左手を出して、人差し指と親指の間にほんの少しの隙間を作った。ちょびっとってことか。


「ま、今日一日ゆっくりしていれば、明日には熱が下がっているかもしれないぞ? 帰宅するだけとはいえ、ずっと体調悪いよりはマシだろ?」


「…………(コクリ)」


 しぶしぶといった様子だが、小日向はたしかに顔を縦に振ってくれた。よろしい。

 普段より顔がやや火照っているように見えるし、熱があるのは間違いないだろう。どれだけきついのかは当人にしかわからないだろうが、体調が悪い時に動き回って悪化される方が怖いし、今日はおとなしくしてもらいたいところだ。


 俺も彼女にならって、今日一日はのんびりするとしよう。

 外に出ることがないとはいっても、いつもと違う場所に小日向と一緒にいるのだから、それだけでも十分に新鮮だしな。


 天井に向けていた視線をチラチラとこちらに動かし始めた小日向は、にょきにょきと布団の横側から手を出して、パタパタと動かす。試しに人差し指をその手に乗せてみると、まるで餌に食いつく爬虫類のようにがしりと掴まれた。こうなるだろうなと思っていたから、別に驚きはしなかったけども。


 俺はそのことについて特に言及せずに、指を握られたまま新たな話題を振る。


「何か眠くなりそうな童話でも朗読してやろうか?」


 もちろん修学旅行に絵本などを持ってきているわけではないが、今の時代ネットを探せばいくらでもそういったものは出てくる。有名どころからアマチュア作家のものまで多種多様だ。


 なんとなく小日向はあかずきんとか白雪姫みたいなメジャーな奴が好きかなぁと思っていると、彼女は目をぱちくりさせたのち、握っていた俺の人差し指を離してから、慌てた様子でスマホをポチポチ。


『今日観光するって言ってた』


「ん? あぁ、その予定だったけど俺は残ることにしたんだ。景一に縁結びのお守りは頼んでおいたから、そこは心配しなくていいぞ。小日向が欲しいって言ってたからな」


 俺がそう言うと、小日向は顔を大きく横に振る。


『私はいいから、智樹も行ってきて』


「……小日向といるほうが楽しいから、俺がこっちを選んだだけだ。お前がひとりだとつまらないだろうなぁと思ったってのもあるけど、これは俺の気持ちを優先した結果でもあるんだよ」


 こういうことをはっきりと口にするのは恥ずかしいのだけど、今回ばかりは熱を出して苦しんでいる小日向にサービスということで。いかん、俺まで熱が出そうだ。


 俺の言葉を聞いて、小日向は下唇を尖らせたまま眉尻を下げる。なんとなく泣き出しそうな顔つきになった。


『ダメ、行ってきて』


「行かねぇ」


『せっかくの修学旅行』


「行かないって言ってるだろ」


 もしも彼女が本気で俺がいることを嫌がっているのであれば、もちろん俺はこの場を離れるけれど、どう見ても俺に遠慮しているからなんだよなぁ。その証拠に、俺が行かないというたびに、彼女は頬を緩めている。目元だけは泣きそうなんだけども。


『智樹、なんでもするって言った』


 これでどうだ、とでも言わんばかりにぐっとスマホを見せつけてくる小日向。


 だけどその表情からは、「行かないと言って欲しい」――そんな感情が見て取れる。そして彼女がスマホを持つ手は、何かに怯えるようにふるふると微かに震えていた。怖がるぐらいなら言わなきゃいいのに――そうまでして俺に旅行を楽しんでほしいのか。


 俺はスマホを持つ彼女の手を布団へ押し返し、ペチンとおでこを叩く。


「それで俺がなんでも言うことを聞くと思ったら大間違いだぞ」


 腕を組み、小日向のようにふすーと息を吐いてから俺はそう言った。


 俺はこれまでに彼女のこの必殺技に何度も打ち負かされてきたけれど、俺が敗北を選ぶ条件として『小日向が喜ぶのなら』というものがある。今回はその条件が満たされていないから、負けを選ぶことはできない。


 対する彼女は、瞳を目いっぱいに潤ませて、ついに目尻から一粒のしずくを流してしまった。いますぐに女子に泣かれた時の対応マニュアルを誰か持ってきてください。


「あー泣くな泣くな。お前はニコニコしてたほうが可愛いぞ」


『智樹のバカ』


「急に罵倒!? まぁ別にバカでもいいけどさ」


『智樹のアホ』


「はいはい、俺はアホですよ~」


 苦笑しながら小日向の頭を撫でると、彼女は唇を尖らせながらも俺の手の平に向かって頭を押し付けてくる。可愛い。


 しばらくスマホを操作せずに、俺の頭なでなでを堪能した小日向は何かを思いついたようにハッとした表情を浮かべた。


『前に智樹が熱出したとき、身体拭いた』


「あー、そう言えばそんなこともあったな……」


 看病してくれたことについては忘れるつもりはないけれど、その部分はできれば記憶から抹消したかった。女子に身体を拭いてもらうとか、恥ずかしいですもん。


『私の身体、拭きたい?』


 口に手をあてて、小日向はむふふ――とニヤニヤし始める。


 普段ならばうろたえていたところだけど、残念――今の状況に限っては、俺の方が立場は上なのだ。お前の思い通りにはさせんぞ!


「そうやって俺をからかおうとするなら、やっぱり観光に行こうか――うぉっと!?」


 がしりと小日向に腕を掴まれた。そして彼女は身体を起こし、スマホを枕の上に置いて、空いたほうの片手で文字を入力する。


『行っちゃダメ。智樹は今日ずっとここ』


「はははっ、さっきまでと行っていることが逆じゃないですかね小日向さん?」


 俺が笑いをこらえながらそう言うと、小日向は上半身だけ身体を起こした状態でふすーと鼻から息を吐いてから胸を張る。


 そして、もう一度スマホを見せつけてきた。


『智樹、なんでもするって言った』

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