第92話 ちゅー



『おやすみのちゅー』


 まさか恋人でもない同級生にせがまれることになるとは思わなかったけど、これまでの小日向の行動を考えるとさほど不思議に思えないから困ったものだ。


 まだ手も繋いだことがない時期だったなら「何を言っているんだアホ」と頭上に手刀を振り下ろしていたところだけど――じわじわと、ボディタッチに始まり、胸に頭突きして、手を繋いで、抱き着いて、一緒に寝て……まるで城壁を崩しにかかるように、小日向は俺のプライベートスペースに侵入してきている。


 まぁそれを嬉しく思っている時点で、すでに攻略されてしまったようなものだけども。


「……俺、まだ病み上がりだから、風邪がうつるかも」


 心の中で「拒否するなんて勿体ない!」と叫びながらも、身体は羞恥心に負けて最後の抵抗を試みる。

 すると小日向は、口を開けて一瞬ポカンとした表情になり、暗がりの中でもわかってしまうぐらい頬を真っ赤にさせた。次いで、顔を俯かせながら俺の鎖骨あたりをぺチペチペチと叩き始める。


 えぇ……それはどういう反応? キスをせがんでおきながら、なぜ小日向が照れているんだ?

 そんなことを思っていると、小日向は両手の人差し指を自分のおでこに置く。

 なんだ、ビームでも出すつもりか?


「――あぁ! はいはい、理解した。おでこにちゅーしろってことね」


「…………(コクコク)」


 危ない。ワンクッション挟まなければ小日向の唇にキスしてしまうところだった。いくら親密になったとはいえ、小日向でもさすがにそれは要求しないか。たしかにおでこならば風邪がうつることはないだろう。


 俺が納得したことを確認して、小日向はずいっと俺の顔におでこを近づけてくる。

 そもそも他人に自分の唇を付着させる行為というものを一切したことがないために、どのような口の形をすればいいのか、どれぐらいの時間くっつけておけばいいのか、どれぐらいの強さで押し付ければいいのか、さっぱりわからん。


 一見、唇じゃなかったからハードルは下がったように思えるけど、でこちゅーでも十分すぎるぐらいに高いんだよなぁ。ドアインザフェイス的なやつか。


 小日向が催促するように上目遣いでこちらをちらっと見てきたので、「いまするから」と早口で返事をする。心の準備は完了していないが、度胸がないと思われるのも嫌だからな。


 それから数秒後――俺は気合を入れてから、小日向のおでこにキスをした。


 ちょこんと触れる程度の軽いモノだけど、ゼロかイチかと問われたら間違いなくイチなのだ。やったことはやった。


「――――。はい、これでいいな?」


 速度を上げる心臓のせいで、じゃっかん肩で息をしながら小日向に言うと、彼女は顔と身体を左右に揺らしながら楽しそうに口角を上げて、ピシッと人差し指を立てる。もう一回らしい。


 ここまで来たら一回も二回も対して変わらん! やってやる!


「――。これでいいか?」


 二回目のでこちゅーを完遂させてから俺が問いかけると、小日向は俺の胸に頭をこすりつけ、嬉しそうに身体を揺らし、ふすふす息を吐きながらまた人差し指を立てる。


「……小日向さんや、いつまでやるつもりですか」


 苦笑しながら俺が言うと、彼女はまるで「これで最後!」とでも言うように立てた人差し指をグイッと近づけてくる。はいはいわかりましたよ小日向様。


「――。おやすみ、小日向」


「…………(コクコク)」


 まったく……幸せそうな顔しやがって。

 こんなことされて、惚れない男がいるわけがないだろうが。このアホ天使。



☆ ☆ ☆ ☆ ☆



 翌朝。

 目を覚ますと小日向はすでに起きていて、隣で俺の顔をジィーと眺めていた。体温計を渡されたので、半分寝惚けたまま脇に挟む。


 ピピピと音が鳴ったので確認してみると、平熱だった。小日向はその数値を見て嬉しそうにふすふすしている。


「――ふあぁあ……熱は下がったみたいだけど、今日は家で大人しくしてるよ。小日向も、無理して看病する必要はないぞ?」


 あくびをしてからそう言うと、小日向は不満そうに唇を尖らせる。

 これまでも彼女はそんな表情をすることはあったが、今の彼女の表情は小日向マイスターとなりつつある俺以外の人が見たとしても、「不満そうだ」ということが理解できるぐらいにわかりやすい。また小日向の治療が一歩進んだようだ。


 まぁそれはいったん置いておいて、いまはこのご機嫌斜めの天使様を宥めなければならない。たぶん追い返すような発言をしたことが原因なのだろうけど、こっちだって申し訳ないんだから仕方ないじゃないか。


 そんなことを思っていたのだが、


『智樹、おはよう言ってない』


「――あぁそっち? わるいわるい。おはよう小日向」


 違った。どうやら朝の挨拶をすっ飛ばしたことがご不満だった様子。


『おはようのちゅーは?』


「……なにを当たり前のように言っているんだ……」


 まぁ、別に減るもんじゃないしいいけどさ。

 俺は苦笑しながらも小日向の要求に従い、彼女の綺麗なおでこに唇を付ける。

 まだ頭がきちんと働いていない今だからこそ、躊躇いなくできたのだと思う。たぶんあと五分もすれば拒否してしまっていたかもしれない。


 それから小日向は何度も俺にでこちゅーを要求し、結局――昨夜と同じく三回おでこに口づけをすることになってしまったのだった。


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