第27話 小日向さんは焦る
ちっちっち――と、静かになった人間たちの代わりに壁に掛けた時計が騒ぎ出す。
音が鳴るほうへ目を向けると、長針がちょうど数字の9を指示していた。どうやらこの耐久レース、あと七十五分も続くらしい。これを幸と捉えるか不幸と捉えるかは俺のみぞ知るというということで。
「…………軽いな」
少し冷静になってきて、床に手をついたまま小日向の後頭部をぼんやりと眺める。そして、自分の太ももにかかる重さと体温を改めて実感する。家族でもなく、恋人でもなく、ほんの少し前に知り合ったばかりのクラスメイトの体温。猫や犬を飼っている人はこんな温かさを日常的に感じているのだろうか。
小日向が喋らないのは、静香さん曰く照れ屋であるから。
そして小日向が無表情なのは、父親を二年前に失ったことを原因としている。
一見関連性がありそうな無口と無表情だが、元となる部分はそれぞれ別物らしい。その事実を俺が知るということは、きっと必要なことだったのだろう。
「小日向は俺を父親みたいに見ているのかもな」
彼女は無意識に、ぽっかりと空いてしまった心の穴を埋めようとしているのではないか。俺はそんな風に考えた。
「もしかしたら俺の口調や雰囲気が、小日向のお父さんと似ているとか」
もしくは、説教じみたことを言ったのが彼女の琴線に触れた可能性もあるか。
そんなことを真剣に考えていたら、俺の中にあった恥ずかしさや緊張が、少し和らいだ気がした。
小日向が父親を求めているというのに、俺が彼女を異性として意識してはダメだろう――そう思ったからだ。
もちろんこれは俺の勝手な想像による判断で、俺ひとりでは正誤判定もできないわけだけど……家族を亡くし、傷ついた小日向に俺はこれ以上嫌な気持ちを味わってほしくないのだ。
可愛くて人気者の小日向が俺を異性として意識している――なんて天文学的確率の事象が起きているのであれば、この判断は完全にミスなのだが……それは考えるだけ無駄だろ。俺はそこまで自意識過剰な人間ではない。
「時間になったら起こすか。……アラームだとか寝たふりだとか、変な小細工しなくても、小日向は別に俺のことなんてなんとも思わないだろ」
俺は彼女の保護者になった気持ちで、そっと小日向の髪を梳いた。いっさい指に絡むことなく、さらさらとして触り心地の良い髪の毛だ。
異性としての好意に変化しつつあった保護欲を、俺は意識的に元に戻す。
もし俺の好意が原因で小日向の関係が悪化したりしたら、改善の兆しがある彼女のためにならない。俺に期待を寄せている静香さんを裏切ることにもなる。
「安心しろよ。どうせ俺はそんなにすぐ異性と恋愛なんてできると思ってなかったし、小日向の心の穴が綺麗に埋まるまでぐらい、傍にいるからさ」
俺も彼女のおかげで女性への苦手意識が薄れていっているから、お互い様なのだけど。
いったいこの関係は、いつまで続くことになるのやら。
続いて欲しいのか、早く終わって欲しいのか……当事者である俺にも、その結論を出すことはできなかった。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
「おーい、起きろ。十五分前だぞ」
太ももの上でスヤスヤと寝息をたてている小日向の耳元で、俺は声をあげる。
それに反応して、小日向は猫のように身体をギュッと縮めた。そして俺はしびれている足を刺激されて、「んぁっ」という謎の発声をした。誰にも聞かれたくない声である。
そんな風にして何度か声を掛けていると、太ももの上をごろごろと転がったりして俺を無意識に攻撃した小日向は、もぞもぞと身体を起こす。寝ぼけ眼で俺の苦悶の表情を見た彼女は、不思議そうに首を傾げていた。ちなみに瞼は通常時の半分も開いていない。
「家まで送る――けど、ちょっと待ってくれ。足がしびれた」
いまだピリピリとする足を顎で示すと、彼女は薄い目で俺の太ももを見る。そして俺の顔を見て、また太ももを見た。
そして、ぼっ――という効果音が鳴るような勢いで、小日向の顔が真っ赤に染まる。瞼は限界まで上に持ち上げられた。
「…………っ! っ!」
小日向はめちゃくちゃ慌てた様子で手をわたわたと動かしているが、それでも声は出さない。しかもそれで無表情というのだから――って、今の小日向、本当に無表情か……? 俺の目には申し訳なさそうな顔をしているように見えるんだが。
「別に気にするなよ。誰にも言わないし、太もも貸すぐらいどうってことない。それに、あの映画の内容じゃ寝てもしかたないさ」
俺が苦笑しながらそう言うと、小日向は顔を俯かせて、小さく頷く。それから彼女はチラッと壁に掛けてある時計を見て、ピシリと固まった。
あぁ、そういえば小日向は一時間延長のことも知らなかったな。
俺が静香さんから延長願いのチャットが来たことを伝えると、再び小日向がわたわたと焦りだす。自分が予想以上に熟睡してしまっていたことを知ったからだろう。
「気にするなって。あと、別に恥ずかしいとも思わなくていいぞ。小日向はずっとこたつのほうを向いていたから、俺は寝顔も見ていない。だから、その、振り回した手がペシペシと俺の足に当たってるのをどうにかしてくれませんかね?」
そう言うと、彼女は驚いた様子で身体をのけ反らせた。そして何を思ったのか、なぜか俺の太ももを両手で撫で始める。どうしてそうなった。
「それもくすぐったいから止めてくれ! というかそっちのが辛いかもっ!?」
俺の言葉を聞いて、再び慌てた様子になる小日向。またペシペシと手が太ももに当たる。
こうして俺は小日向の荒療治により痺れを回復させ、彼女を無事家まで送り届けたのであった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます