第15話 無表情の原因
せっかくだし、ちょっと上がっていったら? ――そう言われてからの展開はとても速かった。
断る言い訳を考えるよりも先に、俺は小日向のお姉さんに腕を掴まれてしまい、まるで拉致されるかのように小日向の家にお邪魔することに。
別に小日向の家に興味が無かったわけじゃないが、いくらなんでも急すぎるだろ。
当事者の俺はもちろん、小日向もいきなりクラスの男子生徒が自分のテリトリーに入ってくることになったからか、ひどく動揺しているように見えた。
お姉さんはどうやら言葉より行動が先にきてしまうタイプのようで、俺自身もこのお姉さんが苦手なのかどうかよくわからない。鳥肌はたったけれども、吐き気は感じなかった。
リビングに案内され、促されるままにダイニングチェアの一つに腰かける。
小日向がお姉さんをポカポカと叩いて抗議しているようだったが、耳元でお姉さんが何かを呟くと、顔を真っ赤にしてリビングから出ていってしまった。階段を昇る足音が聞こえてきたので、おそらくは自室に向かったのだと思う。
「君は茶色の麦茶。私は金色の麦茶」
「どう見てもお姉さんのは麦茶じゃなくてビールでしょう」
俺の的確なツッコみにもまったく動じた様子はなく、お姉さんはヘラヘラと笑いながら俺に麦茶の入ったコップを手渡してきた。
「明日香にさ、『うっかり明日香の部屋に案内しちゃうかも』って言ったら、慌てて部屋に行ったよ。あの反応は初めて見るから、実に興味深いね」
「自分の妹で遊ばないでくださいよ……というか、俺は絶対に行きませんからね」
「おや? もしかして興味ない?」
「……………………ありませんね」
「ものすご~く間があった気がするけど、まぁそういうことにしておいてあげよう。お姉さんは優しいから」
どの口が言ってんだ! 優しい人は妹の同級生を拉致したりしねぇから!
などと、思わず心の中で悪態をついてしまうぐらいには、自由奔放すぎるお姉さんだ。
別に嫌いというわけじゃないが、話をしているだけでマラソン大会ぐらいには疲労を感じる。
はぁ……それにしてもなぜ俺はここにいるんだろうか。
その後、お姉さんは自分のことを『
びっくりするぐらいに名前と印象が合致していないけれども、気にしたら負けな気がする。
俺は静香さんに問われるがまま、学校での小日向の様子などを話す。そうしていると、リビングに話題の主役が戻ってきた。彼女が二階に上がってからそんなに時間は経っていないし、元々綺麗にしてあったのだろう。
「部屋には入らないから安心してくれ。女性慣れはしていないけど、デリカシーがないわけじゃないから」
そう言うと彼女は、俺と静香さんの間――ダイニングテーブルの前で立ったまま、ぎこちなく首を縦に振る。
心なしか不満そうにも見えるけど……さすがにこれは俺の読み違いだろう。だって今の俺の発言を小日向が不満と感じるのなら、それは自分の部屋に来てほしいという意味になってしまうのだから。いくら片付けた後だからって、それはない。
俺たちのやりとりを見守っていた静香さんは、どこか納得したような表情を浮かべて腕組みをしていた。
「明日香は滅多なことで喋らないけど、智樹くんからすれば話しやすいんだよね」
小日向、喋ることあるのか。
そのことに一瞬驚いたけれども、一緒に過ごす時間の多い家族ならば不思議はない。
「そうですね。どこまで話が伝わっているのかわかりませんけど、俺は基本的に女性と話すのが苦手で――明日香さんは特別ですけど」
俺が今まで出会った女性の中で、一番気楽なのは間違いなく小日向だろう。比較的話しやすい店長と叔母でさえ、たまに息苦しく感じることがあるし。
俺の発言を聞いた静香さんは、興奮した様子でテーブルを叩いた。
「聞いた明日香!? 智樹くんが明日香のこと特別だってよ! うひゃあ、これは青春の香りがしますなぁ!」
「そういう意味で言ったんじゃないですから! からかわないでくださいよ!」
この酔っぱらいめ――しかたない……小日向! やっておしまいっ!
そう思って、俺と同じ被害者である小日向に目を向けてみると、彼女はなにやら俯いて身体をもじもじと動かしていた。
照れている場合じゃないぞ小日向! 花畑が広がっているあの頭をポカポカと叩いてやってくれ! 身内のお前が頼りなんだ!
しかし残念ながら、俺の願い空しく小日向からは回復の兆しがまったく感じられない。現在はお腹の当たりで指をツンツンと突き合わせている。その指ツンを姉のこめかみにぶち込んでほしい。
まぁその仕草は、ずっと眺めていたいぐらいに可愛いのだけれど。
そんな感じで、お姉さんによる妹と俺いじりは続き、俺は一時間近く小日向家に滞在し、時刻が九時を過ぎる前に帰宅することになったのだった。
小日向と玄関で別れの挨拶をして、帰宅。
しかしなぜか静香さんも俺と同じく家を出てきてしまった。
「元々コンビニに行くつもりだったし」
俺のいぶかし気な視線を受け取った彼女は、手に持った財布をプラプラと振って用事があることをアピールする。そういえばそうだったな。
「そうですか。じゃあ俺は帰りますんで……」
「おおっと! か弱い乙女を深夜のコンビニに一人で行かせるつもりかね君は! というわけで付き合ってね」
「……わかりましたよ」
色々とツッコみたい部分はあったけど、急いで帰る用事がないことはすでに話しているので、俺は大人しく静香さんに連行されることにした。まだ九時前だぞ。
まぁせいぜい帰るのが十分弱遅くなるぐらいだし、彼女は叔母の朱音さんや店長と何処か似た雰囲気があるので、あまり息苦しくもない。散歩と思えば別にいいか。
で、コンビニでの買い物は一瞬で終わった。
静香さんは店内に入ると、迷うことなく缶ビールとおつまみを買い物かごに入れる。むしろ「飲み物奢るから持っておいで」と言われた俺のほうが時間をかけてしまったぐらいだ。
「……明日香はね、すごく恥ずかしがり屋で、昔から全然喋らない子だったけど、喜怒哀楽は割とハッキリしていたのよ。今みたいに無表情でもなかったし」
小日向家へと向かいながら、しみじみといった様子で静香さんが言う。
俺は沈黙を守ることで、彼女の話の続きを促した。
「うちは母子家庭――って言ったでしょ? うちのパパが亡くなってから、まだ二年とちょっとしか経ってないんだ。明日香はパパのことが大好きだったから、かなり堪えたみたい――もちろん私も悲しかったし、たくさん泣いたけど、明日香と比べれば立ち直るのは早かったかな」
二年とちょっと……ということは、小日向や俺が中学三年に上がったばかりぐらいということか。
うちも小日向と同じく片親だけど、俺の場合は記憶に残っていないぐらいの幼少期に母親が他界しているので、心へのダメージはまったく別物だろう。
「ことあるごとに――こう、ぐりぐりーってね。猫みたいにパパのお腹に頭を擦りつけるのよ。あぁ見えてめちゃくちゃ甘えん坊だったからね、あの子。たぶんパパが亡くなってから、明日香の中で『しっかりしなくちゃ』って想いが強くなってるのかな」
「……そうですか」
今の小日向からはあまり想像ができない。
無表情じゃない小日向も、甘えん坊の小日向も。
小日向が感じている苦しさを、なんとか頭の中で思い浮かべようとしたが、難しかった。表情を失うぐらいなのだ、容易に想像できる苦痛ではないだろう。それこそ俺のトラウマなんてものとは、比べられないぐらいに。
「でもね、最近はいい感じなんだよ。表情も戻ってきてる気がする。あんなに明日香が可愛らしい反応するとは思わなかったから、ついつい調子にのってからかっちゃった」
片目を瞑り、舌をチロっとだして静香さんがおどける。
「ようやく小日向――明日香さんも、心の傷が癒えてきたってことですか?」
二年とちょっと。その時間が長いのか短いのかは俺にはわからない。
だけど、小日向の心が良い方向に向かっているというのであれば、俺は素直に嬉しいと思った。
「違う違う! なんでわかんないかなぁ、君だよ君っ!」
ちょうど目的地である小日向家の前に辿り着いたころ、俺は静香さんにビシッと指を突きつけられた。いきなりのことで、俺は目を丸くして固まってしまう。
「あの子が『仲直りのお菓子が買いたい』って相談してきたときもそう、あの子が『友達の働く喫茶店に行きたいから』ってお小遣いを欲しがったときもそう、あの子がそわそわしながら『明日友達の家に行く』って言ったときもそう、さっきめちゃくちゃに照れて顔を真っ赤にしてたときもそう――あの子の表情の変化は、全部智樹くんのおかげなんだよ!」
犯人はお前だっ! なんて言ってきそうな勢いで、静香さんは言う。
俺は彼女が話す内容に気を取られてしまって、身体が拒否反応を起こすこともなかった。
「まぁ、野乃ちゃんとかの助けもあってのことだとは思うけど、間違いなく今の明日香には君が必要だと私は思うわけ。だから姉としては――」
そう言って彼女は、俺の正面へと移動する。
「これからも明日香と仲良くしてあげてくれると、嬉しいかな」
そう言って、彼女は穏やかで優しい笑みを浮かべた。
今の静香さんが言った言葉の数々――小日向が俺のことを『友達』と認識してくれていたことや、わざわざ俺の為にお菓子を買ってくれていたことなど、詳しく聞いてみたい気持ちはもちろんある。
だけどそれよりも前に、俺は静香さんに言わなければならないことがあった。
「そういうの、やめてくださいよ」
俺がそう言うと、静香さんは「えっ」と、戸惑ったような声をあげた。
それから眉を寄せて、みるみるうちに苦笑いのような表情に変わっていく。そんな静香さんの顔を真っ直ぐに見ながら、俺は言葉を続けた。
「俺は俺の意思で、明日香さんと仲良くしたいんです――親しくなりたいと思っているんです。誰かの頼みだからなんて思いたくありません」
そこまで言ったところで急に照れくさくなり、俺は無意識に頬を指で掻いた。
「……なんて、ガキが偉そうなことを言ってすみませんでした。だけど、静香さんが心配しなくても、俺は明日香さんと友達でいたいと思っていますよ」
俺は小日向と仲良くなりたいと思っている――その感情が、口に出すことでスッと胸に馴染んだ。
話しやすいから気が楽だとか、トラウマを刺激する心配がないからだとか、色々理由を付けていたけれど、俺はただ単純に、小日向と仲良くなりたかっただけなのかもしれない。
これが単なる友情なのか、保護欲なのか、はたまたまったく別の感情なのか、俺にははっきりとわからないけど。
このとき、玄関の扉が薄く開いていたことを俺が知るのは、まだ遠い先の話だ。
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