#120 [ふたり-橙-]②


 すっかり水色に戻ったアネモネをしまうと、不意に背後から枝を踏む音が響いてくる。振り返る義希の目に映ったのは、美しい赤だった。

「…やっぱり、ここだったのね」

「…有理子」

 動揺の隠せない声で名を呼んで、彼は彼女の元へと足を進める。

「どうしたんだ?こんなとこまで…訓練は?」

「…あんた、言ってたでしょう?」

 首を傾げる義希に向いたのは、有理子の真剣でいて怯えた眼差しだ。彼女はため息の後、静かに問いかけを続ける。

「真剣に聞いたら、答えてくれるのか?って」

 お互いの胸が高鳴り、交わる眼差しに緊張が生まれて。義希は固く頷くことで聞く決心を固めた。

 有理子はそんな彼を見詰めたまま、瞳に鋭さを混じえて息を漏らす。

「答えてあげるわよ。だから、先にわたしの質問に答えて」

 どうして有理子がこうまで緊張しているのか、それを理解した義希は微笑む事で緩和しようとした。しかし彼女は震える声で言葉を繋ぐ。

「…あんたは、どうして私のことなんか…」

 好きになったの?飲み込まれた台詞を悟り、有理子の憂いを受けて、義希は大きく首を捻った。

「うーん…理由ってさ、大事だとは思うんだ」

 枕詞に頷いて、有理子は義希を見詰め続ける。

「だけど、人を好きになるのに理由なんていらないんじゃないかなって」

 底抜けの笑顔が告げた言葉に不服を覚えたのか、微妙に顔をしかめた有理子に義希の肩が上がった。

「まぁ、どうしても知りたいってんなら、いくらでも上げられると思うけど。お前、それじゃあ納得してくれなさそうだし」

 言いながらも緩まない有理子の眼差しに負けて、義希は困ったように空を仰ぐ。彼はそのまま人差し指で頬を掻き、再び有理子の視線を受け入れた。

「…一番いい言葉探すなら…有理子だから、かな」

 義希の上手く回らない頭が出した結論は、有理子を俯かせてしまう。焦った義希がそれを追うと、彼女は小さく呟いた。

「…信じて、いいの?」

 聞き取れなかったのか、固まる義希を見上げ、有理子は言葉を繰り返す。

「わたし、あんたのこと…信じてもいいの?」

「…分からない」

 躊躇いがちに注がれた返答。義希は有理子の揺れる瞳に寂しげな笑みを返す。

「今のオレに、それだけの価値があるのか、分からないから」

「…なによ、それ…」

「それでも、信じてくれるなら…オレはお前の為にも頑張るよ」

「なに、を?」

「ん?ああ。まぁ、色々」

 曖昧な答えと共に、不自然に後ろを向いた義希の背中。有理子は瞳を歪めて強く問いかけた。

「…あんた、なにか悩んでる?」

「やっぱしバレちゃうよなぁ。オレってホント、隠すの苦手」

「なにを?」

「そうだなぁ。まぁ、一つは今解消したし」

 問い詰めても問い詰めても口を割らない義希に痺れを切らせ、有理子は彼の正面に回る。

「それだけじゃないんでしょう?一体どうしたって…」

「…信じてくれなくてもいいよ」

 不意に響いたのは裏返った言葉。声を遮られた有理子は、固まったまま義希を見上げた。

「今そうやって、オレを心配してくれるだけで…十分嬉しいから」

 涙目で伝えられた思いに、嘘偽りはない。だけど、それでは答えになっていない。

「また、そうやって誤魔化すの?」

「…そう、かな。でもな?」

 有理子の悲し気な問いに対し、はにかんで俯いた義希は、次に顔を上げるまでの間に真顔を製作した。

「今回はふざけてるわけじゃない。分かって、くれるか?」

 いつになく、大人びた眼差しが有理子を貫いて。貫かれた彼女は、不安に駆られながらも深く頷くことしかできなくなった。

「…分かったわよ」

 そう言うと、言っただけなのに、自然と目頭が熱くなる。

「信じてあげる。だから…」

 言葉に詰まって、俯く有理子に。

「だから…」

 俯いた先で、義希の爪先が動く。

「大丈夫だって。誰も、死んだりしないよ」

 義希は彼女の頭をふわりと撫でて、当たり前のように言ってのけた。

「誰も死なせたりするもんか、って…みんなが、そう思ってるんだから」

 頭に置かれた義希の掌は、いつも通り…温かい。それと同じように温かな言葉が、きっとホントウになると信じて。

「…うん」

 掠れた同意。合わせて雫が地に落ちる。

「…大丈夫だよ」

 義希は不安に押し潰されそうになる有理子の思いを、彼女の複雑な心境を、彼女の全てを受け入れるように。

「…大丈夫」

 そっと抱き締めて、微かな風の中。魔法の言葉のように、呟き続けた。





 みんなの過去や思いに触れて、自分自身が感じたこと。それはずっと、オレの中で生き続ける。そして、その全てがオレを生かし続けてくれる。

 そうやって繋がっていく。そうやって支え合っていく。みんなが、教えてくれたこと。


 オレは、絶対に忘れたりしないから。


 だから大丈夫だと思う。これで、いいんだと思う。そう思わないと、いけないんだと思う。自分を信じないと、駄目なんだと分かってる。


 だけど。


 こんなこと、有理子には話せない。直接話す勇気がない。

 だけど、伝えないと駄目だよな?それだけは、分かってるんだ。

 分かってる。分かってるんだ…けど。





「…アネモネの事か?」

「へ?」

 窓際でぼんやりと考え事をしていた義希の隣。いつの間にか佇んでいた沢也が小さく問いかけた。

 もう空は真っ黒に染まり、疎らに星が瞬いている。それでも出ない答え。

 義希は曖昧に頷いて、沢也のため息を受け止めた。

「…なぁ、沢也……お前、後悔したことって…あるか?」

「…ああ。山ほどな」

「…その後って、どうしてた?後悔して、その後…なんかしたか?」

「後悔に後悔を重ねて、今の結論に至った…って言っても、分からないだろ?」

「…全くもって」

 即答に微笑んで、沢也はわざと大袈裟に説明を続ける。

「後悔したっていいんだよ。失敗なんて、結局は取り戻せるものじゃない。それから先、どうするかを決めるだけ。そこでまた失敗しても、また次を選ぶ。ずっと、その繰り返しだ」

 息を呑み、半端に頷く義希を見て、沢也はふっと息を漏らした。

「俺がただ一つ理解したのは…後悔した数だけ、色んな事が分かるってこと。それだけだ」

「…失敗したら、それで終わりってことは…ないか?」

「あるかもな」

「…そうならないようにするには、どうしたらいいんだ?」

「自分自身と戦うしかねえな」

 揺らぐのは義希の瞳。その波に合わせて、沢也はゆっくり語りを続ける。

「…その瞬間でしか出来ない選択なんて、沢山あるだろ?その一つ一つ全てを、じっくり考えるわけにはいかない。だからって、無責任に決めると…後で酷いことになる」

 頷き、俯く義希から視線を逸らし、沢也は窓越しに星を見上げる。

「…どこまで自分の決断を信用出来るか……自分との戦いだ」

 静かに告げられた結論は、義希に複雑な笑顔を呼んだ。

「…辛いな」

「お前には、そうかもな」

 沢也は乾いた笑みを鼻から漏らし、独り言のように呟く。

「孤独が好きな人間には、そう苦でもねえよ」

 それを聞いて。彼の遠い眼差しを見て。義希は思う。


 本当はそんなことないって、オレは知ってる。


 沢也はいつも、前を見てる。いつも、本当を…真実を探してる。

 だから、沢也はいつもオレに教えてくれる。本当のこと、これから先の事、誰かの想い、オレが気付かずにいる想い。

 全部、的確で鋭い。どうしてそこまで見えるのか、オレには不思議で仕方がない。

 だけど。その分きっと、寂しいんだろうと思う。その寂しさを、ずっと我慢してきてるんだろう。

 そんなこと、オレには出来ないから。きっと苦しくて潰れてしまうから。

「なぁ、沢也…」

 沢也に教えてもらって、分かったことが山ほどあるから。

 だから、これからも…頼らせて貰うよ。それで少しでも、お前の気が紛れてるなら…オレも嬉しいから。

「ありがとな」

 義希がそう呟くと、沢也は彼の思考を呼んだように、殊更嬉しそうに微笑んで見せた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る