#120 [ふたり-橙-]①


 彼の目前に広がる光景に反して、流れる風はいつも以上に穏やかだった。

 今はもう村とは言い難い空間の中心で一人、空を仰ぐ義希の金髪が揺れる。少し前までは美しかったその景色を瞼の裏で思い描き、同時に幼かった頃の自分自身を配置する。

 義希が今よりずっとやんちゃだったあの頃も、母親の病気は着々と進行していた。夏芽が言っていたように、日を追う毎に近い過去の記憶が消えていく。


 そんな母さんを見ているのは辛かった。


 何故か、何故って…


 義希は心の中で繰り返す。

 あの優しかった母親に、忘れられた時の記憶を。


 いつも温かい手で頭を撫でてくれた。

 いつも柔らかい声で名前を呼んでくれた。

 いつも、優しさに溢れた笑顔で接してくれた。


 そんな母親に、ある日突然言われたんだ。


「あなた、だあれ?」と。


 心臓が止まるかと思った。

 母さんの病気の事は親父から聞いていて、幼いながらに理解していたけれど。それでも、やっぱり辛かった。

 その時既に、親父は旅に出ていて…家にはオレと母さんの二人だけ。必死の説明もでしか理解して貰えず、だけど弱った母親を残して家を出るのも、このまま終わってしまうのも嫌で。いや、それ以前に一人になるのが、母さんに捨てられてしまうのが怖くて…

 オレは、その日から一歩も外に出られなくなった。

 それを知って尋ねてくる村人達すら、母さんは覚えていない。毎日来てくれていた隣のおばさんも、次の日には忘れてる。


 そう、つまり…オレは毎朝聞かされてたんだ。

 胸を突き刺すあの台詞を。

 それなのに…


 不思議なことに、母さんは一度たりとも親父の事を忘れたことがなかった。

 いつでも、毎日でも、同じ事を聞かされる。親父への愛、親父の凄さ、親父がどれだけ母さんを愛しているか、昔の思い出、一緒に村を創る夢…

 どこからが本当で、どこからが母さんの幻想なのか…オレはそれを疑って止まなかった。


 ただ一つ、母さんが親父を愛している真実だけを除いて。


 オレは、親父の事が信じられなかったから。どれだけ愛していたとしても、病気の母親を置いて家を出る父親なんて…

 信じられるわけ、ないじゃないか。

 母は最後まで、全てを失うその時まで、父の名前を呼び続けたのに。

 ずっと信じ続けていたのに。

 どうして、なんで…


 だけど。


 親父を責めたところで、母さんは戻ってこない。全ての記憶も、想い出も、失ってしまった母親の為に。

 オレがしてあげられるのは一つしかない。

 親父に会って、母の思いを伝えること。

 だけど、小さなオレの決意は日を追う毎に薄れてしまう。村の外に出て、生き続ける自信がなかったからかもしれない。


 そうしてあの日。

 オレは全てを失った。


 焼けていく村を背に、それでも生きたいと願ったオレは、なにもかも亡くした筈なのに…まだ、生きている。

 人は全てを失った時、死に至るのだと思っているオレが…

 どうしてか。

 答えは、簡単だ。

 母のように、自分の中にある想い出が全て消えてしまったわけではないから。

 それなら伝えなきゃ。なんとしても生き延びて、オレしか知らない想い出を生かし続けなければ。


 それから、そうやって、みんなに出会って、もう一つだけ。思ったことがある。


「オレ、決めたんだ」


 脳内で繰り返していた言葉を空に上げた義希は、次に手元のアネモネに寂しげな笑顔を注いだ。

「もう、誰も恨まないって」

 義希だけに見える真っ赤な妖精は、彼の言葉にただ瞬きを返すだけ。

「話せば、わかり合えるかもしれない…一方的に拒絶するのだけは…絶対にしないって、決めたんだ」

 決意の表情、それは嘗ての幼い義希のものとは違う。アネモネは瞳を揺らがせて、諭すように問いかけた。

「それは、あなたが思っている以上に…辛く、厳しい事だと思うけれど?」

「分かってる」

 即答。震える掌で握り締めるのは、両親が残してくれた大きな真実。

「痛いくらい、分かってるよ…」

 消え入りそうな声で呟いて、義希は頭の中で繰り返す。


 数日かけて、アネモネが語った真実を。


「…それがアナタの答えなら。私はあなたに力を貸しましょう」

 アネモネが呟く。義希は躊躇いがちに頷いて、色褪せていくアネモネに返答した。


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