#1 [プロローグ]②
沢也がフラスコを火にかけてから数分の間、緩やかな沈黙が続いていた。蒸気が上がった事により、徐々に音も広がっていく。
「ミルクも砂糖もないからな」
「大丈夫、いらないから」
沢也からコーヒーを受け取った有理子は短く礼を言い、一口飲んで長い息を吐く。
「ホントにお茶が出てくるとは思わなかった」
有理子の皮肉に、沢也はため息で答えた。
「お前は気付いてたんじゃないのか?こうなること」
「そうね」
唐突な問いを、有理子はすぐさま肯定する。
「逃げを選ばなかったのはとどのつまり」
「そうよ。お金。こんなとこに住んでるくらいだから、あんたも事情は分かるでしょ?」
「なるほど。アテが外れたわけか」
「ほーんと。嫌になるわ」
返された皮肉を苦笑いで受け止める有理子を前に、沢也は小さく息をついた。
「で?こいつはいつまで寝てる気だ」
「さぁ。大したことしてないのにね」
有理子は名残惜しそうにコーヒーを置くと、床に放置されたままの義希の顔をのぞきこむ。
「良く見るとやたら整った顔してんな」
「顔だけはね…」
遠目に呟く沢也に鼻で答え、有理子はその綺麗な顔をグニャリと変形させた。沢也は白衣のポケットに両手を突っ込み、二人の様子を上から見下ろす。
「うーん…」
異変に気づいたのか、義希が短く唸った。有理子が手を放すと同時に、彼の目がパチッと開く。続けて体を起こしては二人の顔を見比べた。
数秒の沈黙。
義希はポンと手を打って、短く一言。
「財布」
「ほらよ」
虚しい音を立てて手元に落ちたそれを、彼は恐る恐る確認する。目的のものは直ぐに見付かったのだろう。安心したように財布ごとポケットに収めた。
「で?どう落とし前つけてくれる気だ?」
「そうよ。嘘ついて迷惑かけたんだから、あんたがなんとかしなさいよね」
「いやいやいやいや、確かに嘘はついたけども!だからって盗んじゃ駄目じゃん?おねーさんにも責任あると思うけど??」
言葉の合間、睨み合う二人の旋毛を見下ろしたまま、沢也は静かに耳を塞いだ。
「責任?馬鹿ね。盗まれるようなことするほうが悪いのよ」
「仕方ないじゃん、おねーさん綺麗だし。そう簡単に諦められるわけなくね?」
「なに開き直ってるのよ!褒めたら許されるとでも思った?残念でしたー、わたしにそんな心の広さはありませんから。四の五の言わずに弁償しなさい?」
「別にそんなつもりじゃ……ってか、ナンパしたら財布盗まれるの当然なん?正直納得できないんだが…そりゃ、戻ってきてくれて助かったけどさ…」
「そうよ。迷惑料取ろうとしただけなのに、とんだ災難だわ」
「迷惑料って酷くない?!別にまだなんもしてないし!じゃあせめてワンタッチくらいさせてくれても……」
「いいわけないじゃない!馬鹿なの?ちょっと!近寄らないでよこのヘンタイ!」
「だから!まだ触ってもないのにヘンタイとか言うな!」
「顔がヘンタイじゃない!あと手の動きが無理、ほんと無理!」
ぐるぐると、くだらない戯れがエスカレートしてゆく。しかし一向に話は進んでいない。寧ろ後退しているようにすら思えてくる。声も、足音も、小さなアパートの一室には耐え難い程大きくなっていた。
「お前らいい加減にしろっ!」
耐え兼ねた沢也が大声を出す。それは二人が生み出していたものを軽く凌駕する音量で響いた。
二人は沢也の怒りを真っ向から受け、互いに責任を擦り付ける。
「「だってこいつが」」
声がハモったその時、廊下の端から豪快にドアが開閉する音がした。続けて鈍い足音が聞こえてくる。沢也の顔色が、赤から青に変わった。
「やっ…べ…」
義希も有理子も、頭の上に?を浮かべながら足音の主を待つ。数秒後、取れんばかりの勢いでドアが開いた。騒音と同時。赤ら顔の体格のいい人物が、奇声に近い怒声を叩き付ける。
「いい加減にするのはあなたもです!荷物まとめて今すぐ出ていってください!」
一息に言い放ち、そのまま出ていこうとする大家の背中を、沢也の声が追いかける。
「今すぐ?」
彼の声は驚きを隠せずに裏返っていた。大家は振り返り、低い声で繰り返す。
「今 す ぐ です!」
有理子は沢也の青ざめた顔を横目に、どっちの声量が本当の迷惑かをグルグル考えていた。その隣で呆然としていた義希が突然すっと立ち上がり、大家に向かって歩き出す。
「まぁまぁ、そう言わずに…。お嬢さん」
微笑み近寄った義希は彼女の肩に手を乗せて、ゆったりと優しい声を出した。
様々な沈黙が訪れる。
輝かしい笑顔を見て、歯が浮くような台詞を聞いて。固まる沢也は開いた口が塞がらず。有理子は春なのにも関わらず寒さのあまり震えが止まらず。
そして…
「まぁ…。お嬢さんだなんて…」
大家は赤らめた頬に両手をあて、嬉しそうに義希をみつめていた。
「今日はもう遅いし…せめて明日の朝までとか」
義希がにっこり提案すると、彼女はウットリと頷いて見せた。
「まぁ…。そうよね。そうしましょうね」
そして振り向く過程で恐ろしい表情に変形を遂げ、沢也に向き直る。
「窓代だけ、今貰いましょう。それで明日の朝までいることを許します」
ハッとした沢也が急いで提示された金額を支払うと、大家は義希に笑みを浴びせ、スキップで去っていった。
「……」
静かにドアを閉める義希の背に、二人の冷ややかな視線が刺さる。振り返った義希は、どこかひきつりながらも誇らしげに親指を立てた。
「でも、これで寝る場所は確保できたろ?」
「元はお前のせいだけどな」
「まぁまぁ、とりあえず寝ようぜ」
「仕切るなよ…っつうか」
溜め息をつき、沢也は顔を上げて睨みをきかせる。
「なんで泊まる気でいるんだ!」
「だって、外出たらオレ、逃げるぜ?」
沢也はニヤニヤ顔の義希に呆れた視線を送るが、一向に引きそうにない相手に絶望して、再度ため息をついた。
「床に寝ろよ」
その返答を聞いて、義希はとび跳ねがてらガッツポーズをする。そして次に、思い出したように天井を見上げた。
「そーいや、名前…」
「いい。知ってるから」
言葉を遮った有理子に義希の不思議そうな顔が向く。それをスルーして有理子と沢也が自己紹介をすると、彼は大袈裟に頷いて片手を挙げた。
「じゃあ、明日からヨロシク!」
言いながら倒れる義希は、その言葉を最後に一瞬にして眠りに落ちてしまう。
「凄い特技…」
「つか明日からって…なんだよ…」
「まぁ、返す気はあるってコトでしょ?」
大の字で眠る義希を横目に、二人はあからさまに苦笑いをした。
「で、お前はどうするんだ?」
「わたしも残念ながら宿無しなのよね」
肩を竦めた有理子に、肩を落とした沢也がため息を返す。沢也は義希にタオルケットをかけると、そっぽを向いたまま。黙ってベッドを指差した。
「ありがと」
言いながら伸びをして、有理子はゆっくりベッドに向かう。その途中でチラッと沢也を振り返り、意地悪そうに笑って見せた。
「一緒に寝る?」
「ばっ…アホか!」
沢也は一気に青ざめて、強い口調で言い返す。
「あはは。冗談よ~」
有理子は過剰反応にニヤけながら布団に潜り「オヤスミ」と呟いた。
沢也は一通り辺りを片付け、眠っている二人を見て一言。
「ほんと…災難だな…」
乾いた笑いと共に、義希の隣にうつ伏せになる沢也の表情は、表現しがたい複雑なものだった。
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