anemone
あさぎそーご
第1章「旅立ち」
#1 [プロローグ]①
「まてぇぇー!泥棒おぉーっ!」
慣れない街で、人混みの中を縫うように走る。
大通りを歩く人々を押し退けながらの追跡は、既に数分続いている。しかし騒ぎになるでもなく、過ぎ行く群衆は義希にも、泥棒にも無関心だ。これだけ人が居るのだから、誰かが捕まえてくれやしないかと期待した渾身の叫びも無駄だったらしい。
助け舟を諦めた義希は、前をゆく人影を見失わぬよう必死に足を回転させながら、切れた息の合間に呟いた。
「くそっ、あれだけは、取り返さなきゃ…」
まるで自分に喝を入れるように。
数秒後、前方で泥棒の赤髪が揺れる。追って角を曲がると、狭く暗い路地の中央に彼女の後ろ姿があった。
「い、行き止まり…だな…」
息も絶え絶えな義希の指摘に、女が振り返る。バツが悪そうに歪ませていても、彼女の綺麗な顔立ちは崩れない。
「てなわけで、悪いんだけど、それ、返してもらおうか」
ワキワキと義希の手が動く。女は盛大に息を吐き、偉そうに腕を組んだ。
「財布ぐらいで必死に追いかけてくるなんて、小さい男ね」
あまりにも堂々とした物言いを前に、義希は自分が被害者であることを忘れそうになる。
「うぐ…う、うるさい。早く、返せって!」
疲労と混乱で頭が回らない。財布目掛けて手を伸ばす義希と、握った財布をひらひらと逃がす彼女と。続く攻防は泥棒女が積まれた木箱に乗り、壁を背にするまで続けられた。
身長差が義希を手助けする。追い詰められた女は、目一杯上げていた腕を顔の横まで下ろした。そして。
「そんなに返して欲しいなら、返してあげるわよ」
「まじ?」
義希に向けられる眩しい笑顔。
美しさと台詞も相まって、安堵を隠せなかった義希に向かって勢いよく…
財布が飛んだ。
「うわっ…」
義希が間一髪で避けたそれは、派手な音を立ててアパートの一室に突っ込んでいった。
静けさにガラスの散る余韻が交じる。
「「あーあ…」」
部屋を見上げる二人の、気の抜けた声が綺麗に重なった。それに伴い互いを再認識し、互いに現実に舞い戻る。
「あんたのせいだからね」
「いやいやいや、投げたのおねーさんだし!?」
「避けたあんたが悪いのよ」
「そんなことある?!」
「あるのよ。常識よ?」
「嘘だ!!騙されないぞ…」
そんな間抜けな言い合いは、上方からの声により中断された。
「これ、君達の?」
二人が見上げると、割れた窓の内側で財布をはためかせる男が一人。窓を割られた部屋の住人であろう、丸いモノクルの彼は怒るどころか笑顔だった。
それを見た義希はすかさず挙手で所有権を主張する。
「オレのでっす!」
「そうか。なら、二人とも上ってこいよ。茶くらいだすぜ」
それは助かるー!とご機嫌の義希とは違い、当然警戒する女であったが、笑顔の男の圧に負けて渋々了承した。女の諦めを確認すると、彼は大通りを指して室内に消える。
「優しそうな住人でよかったな」
脳天気な感想に返す言葉もなく、女は逃げるべきか従うべきかを秤にかけていた。一方、通り沿いに入口を見付けた義希は、彼女の腕を取り引率する。
いよいよアパートの入口を潜ったことで、女は覚悟を決めた。色んな意味で。
古い階段を上り、踊り場から顔を出すとその先で男がドアを開けて待っていた。2人は笑顔の男に軽く挨拶を浴びせ、促されるまま中に入る。
シンプルなワンルームを、複雑怪奇に彩るのは謎の機械群。大小様々な用途不明の真ん中、大きいとも小さいともいえぬテーブルの上でフラスコが炙られていた。中の水がお湯に変わる様をぼんやり眺めていた二人は、背後で響いた金属音で我にかえる。振り向くと、家主の手に握られたリボルバーの銃口が、間違いなく二人に向けられていた。
「逃げようとしたら、ぶっ殺すからな」
宣言した男は、先の優しげな笑顔の代わりに凶悪な引きつり笑いを浮かべていた。声も出ない二人は、安全装置が外されたことで、両手を挙げて膝を付く。
「それでいい」
降参を認めて真顔に戻った男は、銃を弄びながらテーブルに向かった。
「だ…騙された…」
「そんなことだろうと思った」
「硝子、弁償してもらうからな。金貰うまでは帰さねえぞ」
項垂れる二人を他所に、家主の男はフラスコからビーカーにお湯を注ぐ。透明が黒くなるにつれてコーヒーの香りが立ち込めた。
そうして一人、息を付いた彼は二人に正座を促す。黙って従う赤髪と金髪を、銀髪眼鏡が見下ろす形になった。
「で?」
「へ?」
「言い訳くらい聞いてやるってんだよ」
「それは…だから、そもそもこのコが俺の財布を盗んだから…」
「あら、全部わたしのせいにするつもり?へーふーん。そもそもあんたがしつこくナンパしてきたせいなんじゃないの??」
「つまり、お前等二人は初対面で、金髪が赤髪をナンパし、そのしつこさにキレた赤髪が財布を盗み、なんやかんやあってその財布が俺の部屋に投げ込まれたと」
「あはは…そう…なるかな??」
「話が早くて助かるわ」
「ふざけるな」
経緯にも、態度にも。呆れ果てた男の口から盛大なため息が漏れた。ビーカーとモノクルで表情がうかかえない彼の背後を指差して、女は言う。
「お金ならソコにあるでしょ?それじゃ足りないの?」
「これか…?」
やりとりに、義希の身があからさまに跳ねた。家主はそんな彼を横目に財布を摘まみ上げる。
「この財布、空だぞ?」
無造作にテーブルに投げられたそれを、キョトンとした女の目が追いかける。はたりと落ちる財布。溢れ出す殺気。
「空ってなに……」
慌てて飛び退いた義希には、彼女の体から湧き出す黒い渦がハッキリと見えた…ように思えた。
「『お金なら一杯あるから遊ぼうよ』とか、ほざいてたくせに…」
「ま、まぁまぁ…」
わなわなと震える女を震えながら宥めようとするが、そうやすやすと宥められるはずもなく。
「これじゃあ完全に盗み損じゃない!」
激昂が響いた。
部屋の主は呆れるままに片手で顔を覆い、溜め息をつく。その間にも女は義希の胸ぐらをつかんで揺さ振り始めた。
「わ、ちょ!やめ…ひえっ」
前後左右、脳をミックスされて慌てふためく義希を前に、彼女はふと疑問に思う。手を止めると、義希は既にのびていた。
「それ、そんなにいい財布?」
女の問いに、男はコーヒーを飲みながら首を傾ける。
「いや、ただの財布」
返答を受けた女は「ふむ」と頷いて義希を開放し、テーブルに歩み寄る。反動で床に打ち付けられた義希の頭上にくるくると星が舞った。
「それなら、なんであんなに必死で追っかけてきたのかしら…」
呟いて、女は財布に手を伸ばす。
「人のもん、勝手に開けるのかよ…」
「あんたも見たんでしょ?」
「残金だけな」
女は躊躇いもなく二つ折りの財布を開いた。確かに残金は0に等しい。他に金目のモノでも入っているのかと、捜っていた女の動きが数秒後に収まる。小銭入れの裏側のポケットから一枚の紙きれ…いや、古い写真が出てきたのだ。ぼんやりと眺める女の手から写真を攫い、男は肩を竦める。
「…母親…か」
「でしょうね…悪いことしたかしら?」
「知るか。一番の被害者は俺だ」
軽く呟く女に対し、男は皮肉り舌をうつ。女は聞こえないフリをして、財布の中からカードを引き抜いた。
「ふーん…よしき、か」
「お前は?」
「先に名乗るのが礼儀じゃない?」
男は満面の笑みで振り向く女を前に、勝ち目が無いことを瞬時に悟った。
「沢也(さわや)」
「わたしは有理子(ゆりこ)」
「で、どうやってガラス弁償する気だ?」
口元を引きつらせ、沢也はため息混じりに問いかける。満足気に頷いた有理子は一つ唸り、面倒くさそうに足元を指差した。
「この義希とやらに聞いて」
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