対を従えて

第1話

月のきれいな夜だった。

満月ではない。

刺さりそうな、三日月。


その、淡い光の中を、一人の男が駆けていた。

何かに怯え、何かに追い立てられ、その顔を恐怖で歪めながらどこへともなく駆けていた。

やがて男は小さな小屋を見つけ、そこへ逃げ込んだ。

恐怖と疲労で今にもはちきれそうになっている心臓を壁に寄りかかり、どうにか整えようとする。

「何で、だ、よっ」

乾いた口から怒りとも悲しみとも取れるような声が零れ落ち、男は思い切り、壁を殴りつけた。

つもりだった。

男のこぶしはだた、壁の埃を払ったに過ぎなかった。

刹那、月光を映してはらはらと零れ落ちる塵を引き裂いた一陣の風。

一瞬の閃き。

そして、壁を穿つ、音。

「ひ、」

男が息を飲み、壁についたその手のすぐ横に、一振りの刀が、突き刺さっていた。

男はゆっくりと震える手を下げ、青ざめた顔を刀が飛んできたであろう、その、先へと動かした。

男の目線が人影をとらえたその瞬間、顔の横に、別の刀が突き刺さった。

「はあい」

女の声が、月光の外から響いた。

「だ、誰だっ」

恐怖の色濃い誰何の声に相手は答えない。

「何のつもりだ!」

苛立ちが怯えを凌駕したのか、怒りを前面に押し出した声で、男はさらに続けた。

「言っておくがなぁ!おれは悪いことなんか何もしてないぞ!悪いのはあいつだ!あいつなんだからなぁ!」

徐々に狂気じみた響きとなり、最後の方には、嘲笑を含んですらいた。

明らかに正気ではない物言いに、闇の中で、静かに呆れたような嘆息が漏れる。

「知らないわよ」

そう、冷たく言い放って、声の主は月光の中に姿を現した。

女だった。

目に見えるその様相は、細身で、きゃしゃで、とても刀など振るえるようには見えない。

男は瞬時に他の人間の存在を疑ったが、誰の気配もない。

現状、丸腰の女と自分だけだ。

「は、」

男は安堵の笑みを漏らした。

「まぁ、そういうわけだ。おれに何を言っても無駄だ」

あからさまに優位に立った態度になり、壁から体を離し、女に向って突進した。

だが、女は逃げも隠れもせず、迫ってきた男の額に人差し指を向けて、触れた。

その瞬間、男の動きがぴたりと止まった。

「ヒナ」

彼女が小さく言うと、最初に刺さった刀が消え、次の瞬間、男の体を光が薙いだ。

「ツキナ」

続けざまに出された指令に残りの刀が応え、男の体を貫くと、男の体ががくりと力を失い、地面に這いつくばった。

いつの間に、現れたのか、彼女の両脇には、長い髪を結いあげた背の高いよく似た顔の二人の女が立っていた。

それぞれが手に刀を持っている。

「瑠璃様」

「うん」

瑠璃、と、呼ばれた女が頷くのを待って、二人は同時に、男の両肩に刀を突き立てる。

悲鳴が上がりそうになったが、瑠璃は男の頭を思い切り上から踏みつけて、声をつぶした。

「聞け」

先ほどまでとは違う、地の底から響くような声だった。

「過ちを犯した人間ほど、自分だけが正しく、誰かが一方的に悪いという。最早、そのことこそが、罪だ」

何かを言おうとする男の頭を、さらに強く踏みつけて、瑠璃は続けた。

「我らは別に、正義を振りかざしているわけでは無い。ただ、お前がしたことを、お前に返しに来ただけだ」

「因果の理の元に」

両脇の女が声をそろえる。

「お前は周りの声を聞かず、己の独断で強引にことを成した。それだけで十分だ。力づくで這いつくばらされる、その痛みを知れ」

瑠璃が男の頭から足をどけると同時に、刀も引き抜かれる。

男はすかさず反撃に出ようとするが、身体はすでに動かなくなっていた。

「その、心意気は立派だがな」

ため息交じりに瑠璃が言った。

「命は取らないよ。その責は負わない。だが、そのまま生かしもしない。お前の罪は今ひとつ」

瑠璃はそう言って唇に人差し指で触れた。

「助けが必要な者を放置した。その苦しみも、おまえに返る。ここは狭間の世界。誰も来られない。誰にも救われず、死を待つがいい」

そう言って瑠璃は二人を伴って歩き出した。

「ああ、言い忘れた」

そう言って、瑠璃は足を止めて振り向いた。

「一つだけ助かる方法がある」

男の瞳に小さな希望の光が浮いたのを、瑠璃は鼻で笑った。

かつて男が、「誰か」に対してそうしたように。

「お前がお前のしたことを、心の底から反省したら、助かるだろうよ。ただし、助けに来るのはお前が見捨てた相手だ。お前が先ほどそいつが悪いと叫んだ相手だ。その者に謝罪し、助けを請うることができるなら、助かろうよ。それができぬなら、最早お前が在る価値もあるまい」

迷惑だ、と、吐き捨てて彼女は歩き出した。

一度だけ、背後の闇の中から、彼の苦悶の声が聞こえた。


「終わったよ」

瑠璃は、小さな石の墓標の前に跪いた。

ぼう、と、鬼火が表れ、その中にこの世のものではない女の姿が浮かび上がる。

彼女が命を落としたのは、病が原因ではあるが、男はその病の原因にはなっている。

だが、それを認めようとはしない。

長い年月にわたり、男は彼女を苦しめ続け、病に至らせた上、見捨てた。

その報いが、今、男には訪れている。

「いずれ、奴も黄泉を踏もうが、閻魔の裁きに寄りて二度とあなたと顔を合わせはすまい。どうか、安らかに眠ってくれ」

女の目から、はらはらと零れ落ちた涙に、瑠璃はそっと手を伸ばし、触れる。

生前に受けた痛みごと、女の魂を優しく抱きしめ、光で包むと、彼女は瑠璃の腕の中で小さな光の珠となって空へと昇って行った。

それを見送る瑠璃の顔は先刻とはうって変わって慈愛に満ちている。

「良う、ございましたね」

瑠璃を覗き込むようにして、ツキナが言った。

「うん」

「次に生まれてくるときは、幸せな人生であるといいですね」

ヒナも加わる。

「そうだな」

瑠璃はそう言って頷いた。

(祈りを、)

彼岸に渡ったものには、もう手は届かない。

その先のことは、そちらの理にゆだねるほかない。

それでも。

他の誰が思わなくても。

(瑠璃は、思うぞ。そして、願う。優しき魂に幸いあれと)

その思いにこたえるように、東の空に明かりが差し、紫の雲が彼女の向かった空に浮かび始める。

明けの明星が輝き始めるのを、瑠璃は目を細めて見ていた。

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対を従えて @reimitsuki

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