第一章
第2話
思い返せば、小学生くらいまでだっただろうか。幼い頃は、よく笑う子供だった。中学校に入学したての頃も、まだ明るい性格だったような気がする。ただそれも、無意味な希望的観測に過ぎない。中学二年に上がる頃には、体育は見学するのが常となった。中学三年になってからは、授業中も保健室で過ごすことが多くなった。高校に上がる頃には、もうほとんど学校には行かなくなっていた。
それでも一年次はまだ良かった。担任教師が人が良く、出席日数の足りない自分に、あれやこれやと手を打ってくれた。そのおかげもあって、無事二年生に進級できた。とはいえ常習できるものでもない。二年次にはやはり、そうは問屋が卸さなかった。
そうしてほとんど出席しないまま一学期が終わり、今頃になって今まで何も言ってこなかった担任教師がしばしば家に来るようになった。このままでは進級することが難しい。一度出席してみてはどうか。オンライン型の高校に転校するなら早いほうがいい。どれもこちらの気持ちを全く考えていない、自己中心的な発言ばかりだった。むしろこちらの進級などどうでもよく、ただ仕事だから、言わなければいけないから言っているだけのようにさえ見えた。そしてそれはあながち間違いではないだろう。その男教師の、母に対する視線には甚だしく
とはいえその担任教師も、家まで上がってきたのは三日ほどだった。学校からの電話も、少し無視をすればすぐに勝手に切れた。その男の諦めの良さも、余計自分を苛立たせた。何もかも上手くいかない日々が続いていた。
そうした時、掛かり付けの医者から療養を提案された。学校のこともあるから、これ以上長引くようならば、空気の清潔な田舎で過ごすのが良いということだった。
一度試しに、この夏休みを利用して一ヶ月療養してみないかと言われた。一ヶ月後にまた診察の予約をして、その日は病院を後にした。別にこの土地を離れることには何も反対する理由はなかった。だから療養には素直に同意した。そうと決まれば、母はすぐに療養に良さげな場所を探し始めた。意外にも早くに見つかり、空き家を借りて一ヶ月間そこで暮らすこととなった。賃貸借の手続きが完了して三日と立たないうちに、我が家の引っ越しが決まった。これには、母の行動力に一泡吹かされた気分だった。父は仕事の関係上、一人家に残った。こうして高校二年の夏、自分はどことも知れない田舎で過ごすことになった。まだアブラゼミが鳴き始めたばかりの頃だった。
変な期待はするべきでない。ここに来たのは喘息を治すためであり、友達を百人作りに来たわけでも、旅行がてら遊びに来たわけでもない。喘息の療養も、駄目で元々、治ればいいなあといった希望的観測に過ぎないのだ。
母の運転する車に揺られながら、そんなひねくれたことを考えていた。経験から言えることだが、過度な期待は自らを滅ぼし兼ねない。期待さえしなければ、絶望することもないのだ。これは、今までの人生で唯一役に立つ情報でもあった。信条といえるほど、大層なものでもないけれど。
最悪の場合、地元民から「よそ者」扱いを受けることさえ考えながら、窓の外をぼんやりと眺めていた。高速道路を下りてからは、しばらくの間ずっと、左を見ても右を見ても木というような道をひたすら通り続けた。車窓の風景に飽きたので、暇潰しに持ってきておいた文庫本に目を通しているうちに、段々と
自分が寝てしまっていたことに気付いたのは、激しい車の揺れで目が覚めた時だった。
「あらら、起こしちゃったかなー」
バックミラーに映った母と目が合った。母は笑っていた。
「もうすぐ着くよ」と母は言った。
辺りを見回すと、すでに森を抜け、田んぼが遠く先まで続く小さな村まで来ていた。ここで暮らすのか、とだけ思った。
再び車体が大きく揺れ、助手席に頭を強打してしまった。この辺りは道がきちんと整備されていないのかと思って今通った道を振り返ると、これには驚いた。そこには大きな岩が並べられているだけで、コンクリートなど使った形跡すらない。どう考えても車の通るような道ではなかった。
田んぼのあぜ道を通り抜けると、車は丘へと続く道を上り始めた。坂の途中には郵便局と駄菓子屋があり、駄菓子屋の前では小学生くらいの子供らが
「ねえ、あの風車ってまだ使われてるの?」
母は風車の方には一瞥もせず、バックミラー越しにこちらをちらりと見て言った。
「ああ、あれね。もう何年も使われてないのよ。古くて足元が危ないから、あんまり近づかないようにね。それに……」
「それに?」
「それにあそこ、昔から出るって有名なんだよ」
母はそう言いながら、手を胸の前でぶらぶらさせて見せた。幽霊が出る、と言いたいのだろう。母はまた笑っていた。
「へえ」とだけ言っておいた。自分から聞いておいて返事もしないのはよくない。だが正直に言えば、あの風車への興味はもう消えていた。
丘を上り切ると、草本の生い茂る
「着いたよ」と母が言った。
家に人の気配はないので、ここが引っ越し先ということだろう。
車を家のそばの草叢に止め、降車する。
初上陸、と感動するほどでもないけれど、少し心拍数が上がっているのも確かだった。きっと空気がおいしいから、呼吸運動が活発になっているのだろうと思うことにした。
丘の端に立ってみると、眼下に家々や田んぼが広がっていた。恐らくここはこの村で一番高い場所らしく、村全体を見渡すことができる。一ヶ月の仮住まいには惜しいくらいの優良物件だった。
「いいところでしょ」後ろから母の自慢げな声が聞こえた。
「いいところだね」自分はそっけなく返した。
荷物を家の中に運ぶため車の中から引っ張り出そうとすると、母がそれを制した。
「まだ家の中の掃除が終わっていないから、また後ででいいよ」ということだったので、では掃除を手伝おうかとと言うと、これまた母は首を横に振った。
「いいよいいよ。それよりせっかくだからさ、村を見て回ってきなよ。そういえば、あんたと同じくらいの歳の子もいるみたい。さっそく友達になってきなよ」
ならまず友達の作り方を教えてくれ、と皮肉を言いたくなったが口には出さない。母が気を使ってくれていることが分かっているからだ。それはただ子供を遊ばせておくといった放任ではなく、喘息の息子に掃除をさせるわけにはいかないといった配慮である。
母の押しに負けて、結局村を探索することになった。去り際に振り返るには、家は予想以上に大きかった。平屋ではあるが、やけにだだっ広い。二人で住むには十分を超えて余分過多だ。母はその全てを、掃除するつもりだろうか。いや、きっとするだろう。それも、自分の喘息のために。そう思うと少しもどかしい気持ちになった。
ゆっくりと歩きながら坂道を下る。あの風車が目に入ったので、少し入ってみることにした。それに、ここぐらいしか暇潰しをできそうな場所はなさそうだ。田んぼを眺めたところで面白くも何ともない。それに比べてこの風車はとても魅力的だった。
中に入ると、床は一段下がっていて、浅く水が張っていた。雨水かと思いきや、奥の方でごぽごぽ小さく水の湧き出る音が聞こえた。とはいえ上を見上げてみれば、屋根の瓦は大部分が剝がれ落ち、ほとんど機能していない。雨宿りには使えなさそうだ。
半ばほどまで上ったところで、段板の一つがばきりと折れた。危うくバランスを崩して落っこちてしまいそうになる。小さい風車とはいえ、ビル二、三階分はある。落下すれば軽傷では済まないだろう。
上に上るにつれて、段々と段板の軋む音が大きくなっていった。よく見てみると、大分腐っている。上層部の方が雨風に
やっとの思いで上り終えると、ちょっとした踊り場に出る。ここは丈夫な木材で作られているのか、あまり軋まない。そばには木製の大きな歯車がいくつも連結されているが、押してみたところでびくともしなかった。年月が経ち噛み合わせが悪くなっている。使えそうにはない。風力ごときではもう回ることはないだろう。残念だとは思わなかった。
一通り風車の中を見て回ると、その構造が大体摑めた。恐らくこれは、揚水風車と呼ばれるものだろう。風力で歯車を動かし、地下水を汲み上げる。だからもう使われなくなった今、地面から水が湧き出ていたのだ。
風車から出る。階段を下りるとき、さっき壊れた一段を飛び越えなければならなかった。
外に出て、裏手に回ると、やはりコンクリートで作られた簡易的な水路があった。それが丘の下の田んぼまで続いている。今はもう水は流れていなかった。それを見て思ったのは、水路はコンクリートで作ったくせに、どうして道路はコンクリートで作らなかったのか、ということだった。
もっと坂を下りていくと、郵便局と駄菓子屋がある。今日は休日なのに郵便局は閉まっていて、かろうじて機能しているのは店の前のポストだけだった。
駄菓子屋は開いていたので、取り敢えず入ってみる。横開きの扉をがらがらと開けると、すうっと涼しい風が流れ込んできた。エアコンがよく効いている。扉には「開けたら閉める」と書かれた張り紙が張られていたので、素直に従う。外はまだ暑いというほどでもないが、この涼しさは心地良かった。どうせなら何か買ってこうかと思ったが、財布を車に忘れてきてしまったことに気付いた。店を出ようと扉に手を掛けたところで、後ろから声が掛かった。
「おいおい、見ねえ顔だな。万引きでもしようってか?」
振り返ると、さっきまで誰もいなかったカウンターには少年が一人立っていた。今まで奥にいたのだろう。同い年くらいに見える。だがそんなことは今はどうでもよかった。今自分は、万引きの疑いを掛けられているのだ。一大事である。
ところがよく見ると、彼の口許は笑っていた。どうやら冗談で言っているらしい。それに気付くと急に馬鹿らしくなった。田舎特有なのか、それとも彼が異様なだけなのか、まるで距離感がおかしい。初対面の人に対して冗談を言うなんて、あまり褒められたものじゃない、と思う。彼の第一印象は、あまり良いものではなかった。
一瞬目が合ったが、聞こえなかった
「ちょちょっ。返事もなしかよ」
彼が戸惑うのはもっともだ。自分は村に来たばかり。気になるのも無理もない。だが彼はまだ知らないのだろう。皆が皆、社交的だとは限らないということを。非社交的な人間にも声を掛けてやるべきだというのは、いささか小学生的である。相手が求めていなければ、ただのお節介になってしまうからだ。
「ごめんね、今ちょっと急いでるんだ」
あくまでフレンドリーにそう言ってやった。わざわざ敵を作る理由もない。当たり障りのないことを適当に言って、ここからおさらばしようという魂胆だった。だが。
「うそ言え。金もねえのに店ん中入ってきたやつが、急いでるわけねえだろ」
あっさりと見破られてしまった。まあ仕方がない。自分はあまり社交経験が多くはない。それは、あまりという言葉が適切かどうか
それにしても、無銭であることに気付かれたのは驚きだ。案外侮れないやつなのかもしれない。……とは思わない。店内まで入ったにも
可能性としてはそれくらいだろう。そして、外はまだ暑くはないので、エアコンの涼風が目的というのは考えづらい。また、もし万引きをしたとしても、無銭なことに変わりはないはずだ。金は持ってますけど万引きします、なんてこともやはり考えづらい。もっとも、万引きはしていないのだけれど。
自分は困っていた。嘘がばれたからではなく、彼がなかなか
「取り敢えずさ、駄菓子でも食って暇潰そうぜ。街の方から来たんだろ、いろいろ話も聞きてーしな」
自分が黙っていると、彼の方から提案をしてきた。もちろん駄菓子を食べながら暇を潰す気も、彼と色々お喋りをする気もない。そもそもの話、ここに居座る気がない。
「いや、でも……」
やんわり断ろうとすると、
「まあまあ、まずは座りなって」
彼はそう言いながら、カウンターから、そばの畳部屋に移動した。
こちらの言い分を聞く気はないようだ。行きの文庫本で読んだ受け売りだが、聞く気のない人をいくら説得しようとしても無駄である。諦めて従うことにした。
この駄菓子屋には、壁両側に駄菓子の棚があり、入口の正面にカウンターがある。そしてその右に、少し床が高くなっている畳部屋があり、テーブルがあった。買った駄菓子を食べるためのものだと推測できる。
彼は棚から「キャベツ太郎」やら「タラタラしてんじゃねーよ」やら、懐かしいものをやたらめったら持ってくると、テーブルの上に広げた。自分も靴を脱いで畳に座る。彼はキャベツ太郎の袋を開けながら聞いてきた。
「それで、まずはお前がここに来た理由を教えてくれよ」
彼はキャベツ太郎を口に三個、豪快に入れた。
「自分は療養に来たんだ」
「なんだ、病気なのか?」
彼はなぜか気の毒そうに、「ポテトフライ」を差し出してきた。パッケージに描かれたキャラクターの名前を何だったかなと考えながら、袋を開け一枚に
「喘息だよ。たまに発作が起きるだけで、それ以外は大したことはない」
「そっかー」
何に納得したのか、彼は腕を組んでうんうんと頷いた。
「実はウチも、小さい頃にお袋を病気で
そう言いながら、彼の顔に一瞬
「そんなことよりさ、療養しに来たってことはすぐには帰らないんだろ。お前はこれからここに住むってことなのか?」
彼は急に顔に笑顔を張り付けて言った。自分はそれを虚勢だと受け取った。まるでひねくれていると、自分で自分を自嘲した。
「夏休みの間、一ヶ月間だけね。あの丘の上の家に住むことになったんだ」
彼はそれを聞くと、大きく目を開いた。少し話して分かったことだが、彼は感情表現の程度が激しい。それは自分と比べてのことなので、彼が一際オーバーリアクションなのかどうかは分からない。よく言えば素直だとも捉えられるだろう。
彼は目を見開いたかと思うと、急に声を落として言った。
「あの家に住むんなら、気を付けたほうがいい。あそこの家は……」
そこで言い淀んでから、彼はごくりと唾を飲んだ。
「出るんだ」
と彼は言って、胸の前で手をぶらぶらさせて見せた。
それには呆れた。全く母と同じじゃないか、馬鹿馬鹿しい。まったく、本当に馬鹿馬鹿しい、だが。
仕草までが似ていて、彼は自分なんかよりもずっと親子のように思えた。そしてそう一瞬思うと、なぜか胸の奥がちくりと痛んだ。その理由は分からなかった。
「だが幽霊が出るってんのは本当だぜ。あそこの家で昔、死んだ人がいんだよ。ちょうど俺たちと同じくらいの、高校生だった気がする」
彼はそう言って、大袈裟にぶるりと体を震わせた。
それに引き替え、自分は平然を装っていた。装えていた、と思う。ふうんといった振る舞いで、いかにも
だが内心は態度とは裏腹に、
母よ、そんなこと一言も聞いていないぞ。確かにおかしなくらい馬鹿でかい家ではあったが、まさか事故物件だったとは。なぜそんな
頭の中でぐるぐると思考が交差し、危うく倒れ
「ところでさ、俺たちまだ自己紹介もしてねえや」
彼はもうすでにいつもの笑顔に戻っていた。いつもかどうかは知らないが、自分が出会ってからずっと、彼はその笑顔を崩すことはなかった。それが素なのか、それとも鉄の仮面なのかは分からない。もし後者であるのならば、自分と同じだなと思った。まあ、だから仲良くしようとかにはならないけれど。
「俺は大智だ。大きいに知るにお日様の日。よろしくな」
「自分は悠人。悠々自適の悠に、人。手に書いて呑むやつ」
「なるほどな。それで悠人は、もしかして俺とタメ?」
「自分は十六だよ。高二」
「俺も高二だぜ。だが十七だ。俺の方が一つ先輩だな。まあ、ため口でいいけど」
それから少しの間、駄菓子を食べながら彼と話した。彼がお互いに質問を三つずつしようと言い出して、自分は彼にどうでもいいことを聞いた。兄弟はいるのかとか、身長は何センチなのかとか、普段買い物はどうしているのかとか。元々聞きたいことなど特にはなかった。
それに比べて彼が自分に出してきた質問は、答えるのがなかなかに面倒なものだった。街での生活はどうだったのか。街にはコンビニなんていう何でも売っているものがあるらしいが、一体どんなものが売っているのか。
自分の答えはこうだ。一つ目の質問には、どれもまあそこそこ、特に楽しい生活なわけではない。生活するには便利かもしれないが空気は汚く遊ぶ場所もなく、おまけに物価がやたらと高い、と答えた。
次の質問には、何でも売っているわけではなく売っているものだけだ。具体的には文房具や駄菓子にケーキにおでんまで売っているがどれも品揃えは微妙と言わざるを得ない、と答えた。
最後に彼が言った質問は、ここでの生活は楽しみかということだった。それについて自分が何と答えたかはもう憶えていない。ただ憶えているのは、自分の答えを聞いた彼が、苦笑いをして見せたということだけだった。
三度目の初恋 @opai-hunter
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
フォローしてこの作品の続きを読もう
ユーザー登録すれば作品や作者をフォローして、更新や新作情報を受け取れます。三度目の初恋の最新話を見逃さないよう今すぐカクヨムにユーザー登録しましょう。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます