序章

第1話

 夢を見ていた。

 長い夢だった。まるで誰かの過去を俯瞰しているような感覚だった。自分の体験したものではない、全く知らない誰かの記憶。だがどこか親近感があった。

 その理由はすぐに分かった。夢に登場した少年が、昔の自分とよく似ていたからだろう。臆病なところも、奥手なところも、まるで鏡写しにでもしたみたいにそっくりだったから、彼の気持ちはよく分かった。そして興味はすぐに、少年から少女へと移った。

 夢に出てきた少女。もちろん見覚えなどない。ショートヘアでやや肌が焼けている。肌の色とは対照的に、青く光る美しい瞳の色が印象的だった。にっと笑う屈託ない笑顔が似合う、ごく普通の少女。特にタイプなわけではないのに、なぜか後ろ髪を引かれた。

 まるでーー。

「お父さん。お父さん、起きて。起きてってばあ」

 ゆっくりとまぶたを開ける。娘の顔が、鼻と鼻がくっつきそうなくらいの距離にあった。

「あ、起きた。お母さん、お父さん起きたよー」

 娘は父の目が覚めたのを知ると、すぐに母親の元へと駆けていった。娘が腹に飛び込むのを受け止めてから、母親は夫の方に顔を向けた。

「あなた、そろそろ出掛けるわよ」

「……どこに?」眠たい目を擦りながら聞く。

「どこにって……ねえ、綾音」母親は呆れたような声で娘に促した。

「りょこーだよ、りょこー。皆で行くんだよ。お父さんも行くんだよ」

 娘は満面の笑みで答えた。それでもなお父親がぽかんとしているのを見るに見かねて、母親が一層呆れた声で言う。

「夏休みの間はわたしの実家で過ごすって、前に話したでしょ?」

 それを聞いてやっと思い出した。娘の喘息を療養するために、空気のきれいな田舎で過ごすのが良いと医者に言われたのだ。一ヶ月も療養すれば良くなるだろうということだったので、夏休みのちょうど一ヶ月を利用して妻の実家に居候しようということになった。

「ああ、そうかそうか。悪い、最近ちょっと疲れててな」

「あなたもゆっくり羽を伸ばすといいわ。わたしの地元は空気がおいしいのよ」

「そうさせてもらおうかな」

 そう言う夫の顔を、母親はじっと見つめた。まるで何かに勘付いたように。

「ねえ、今別の女のこと考えてるでしょ」

「はあ? そんなわけないだろ」

 少し声が上ずってしまった。嘘はついていないのに。ただ少し、夢の中の少女のことが頭に残っていただけなのだ。

 ちらりと娘の顔を覗き見ると、娘は真顔でこちらを見ているだけだった。視線に気付いたのか、ふと口を開いた。

「ハツコイだね」

 それには吹き出してしまった。

 それを図星と捉えたのか、母親は夫をじろりと睨んだ。

「そんな言葉、どこで覚えたんだい?」

 母親は依然としてじとっとした湿度の高い視線を夫に与えているままだったが、父親はその視線から逃げるように娘の方に話を逸らした。

「学校でね、お友達が言ってたの」

 甘酸っぱいんだよ、センチメンタルジャーニーだよ、などと娘は言った。友達から聞いたというのは本当なのだろう。センチメンタルジャーニーはともかく、センチメンタルカンガルーなんて懐かしい言葉が娘の口から出たのは驚きだった。音楽業界に韓国が侵攻してきている今日で、小学生が昭和の名曲を知り得ているというのは、日本音楽もまだまだ負けていないということだろう。娘がその場で歌い出したりしなかったのが、まだ救いだった。

 一方話を逸らしながら、心の中では、女房という生き物はやはり鋭いなあと舌を巻いていた。もう何年も一緒に暮らしているからというのは理由にはならない。妻が何かを企んでいたとしても、自分じゃあ気付かないだろう。では自分が特別、感情が顔に出やすいということだろうか。それも、違う気がする。恐らく女房というものは、主人の変化に敏感になっているのだろうと思った。

 とはいえ、妻に知られたらまずいようなことでもない。妻の言う通り、確かに別の女のことを考えていた。だがあの少女のことが少し気になったと言っても、自分よりうんと年下の、十五、六の少女にやましい気持ち、つまり妻に知られて困るような情を抱くなんてことは決してない。

 ではどうしてこんなに気まずい思いをしているのか。その理由は、今の娘の言葉を聞いてやっと解ったような気がする。夢で見た少女。一目見た時、なぜか懐かしかった。それを上手く言葉に出来なかったが、娘の言った言葉が、実にしっくりときてしまった。

 よくよく考えると、おかしな話である。少女にそんな気持ちは抱いていないし、よしんばそうであったとしても、それは妻の二の次のはずである。これでも、妻も娘も心から愛している。

 だがそれでも妙にしっくりときてしまった。どうしようもなく、そうだという気にしかなれなかった。とても不思議な感覚だった。これを初恋と呼ぶのならば、これは一体何度目の恋だろう。いやなに、だからといって妻子への愛が薄れたりはしないけれど。

 妻は執拗にこちらへ疑いの眼差しを送っていたが、何かを察したのか、すっと視線を逸らした。

「さ、あなたも早く支度をしてちょうだい」

 妻はからっと言った。本心を言えば、それはとても有難かった。妻に知られて困るものでは決してないが、それでもこれを上手く言葉で伝えられるかと言えば困り果てる他ない。

 妻はさっさと自分の支度に戻っていったが、娘はまだ興味をそそられたままのようだった。

「ねえ、お父さんのハツコイってどんなの?」

 娘の言葉に、妻は俊敏に反応した。

「それはわたしもちょっと興味あるわね」

 海水浴でもするつもりなのか、旅行鞄に日焼け止めなんか入れていた妻が、首だけこちらに向けて言った。

 これには思わず渋面になる。せっかく上手く話を逸らしたばかりなのに、これでは全て御破算だ。次も上手く躱せるほど、口が達者ではない。思い付く限り古い記憶を引っ張り出し、適当に答えた。

「母さんだよ。高校時代からの付き合いだからな」

 そう言いながら、頭の中ではあの少女のことを考えていた。

 妻はじっとこちらの目を見つめた。

「うそ。あなた嘘つくとき、必ず目を逸らすじゃない」

 無くて七癖。しまった、と思った時にはもう遅かった。それを聞いてどきりとしたのが、表情に出てしまっていたらしい。妻はにやりと口許に笑みを浮かべ、さらに詰め寄ってきた。

「ねえ、本当の話を聞かせてよ」

 妻に乗じて娘まで詰め寄ってきたので、妻子から逃れるように立ち上がった。

「さあ、そんなことより支度を済ませよう。お昼までに向こうに着きたいから、そんなに時間はないよ」

 無理やり話を逸らすと、妻はあからさまに不服そうな顔をした。娘もよく分かっていないだろうに、口を膨らませて不機嫌な演技をしている。

 それらを見ると、にわかに笑いが込み上げてきてしまった。不機嫌な人の前で笑うのは不謹慎なので、込み上げる笑いを堪えながら、二人を抱きしめることで誤魔化した。

「大丈夫だよ。今は二人を愛してるから」

 言いながら、これでは自白しているも同然ではないかと思ったが、言い直しはしなかった。何が大丈夫なのかは、自分でも分からない。別に正直に話しても、妻が怒らないことは分かっていた。妻が聞きたかったのは、小学生の頃に好きな人とかいなかったの、といったものだろう。誤魔化したのは、間違いなくあの少女のせいだった。

 妻子を抱きしめながら、そういえばあの子の瞳の色は、この二人と一緒だったなあと思い出した。あの少女が印象に残ったのは、それが原因だと思うことにした。

 各々、支度を始める。ボストンバッグに着替えを突っ込みながら、これから向かう妻の実家のことを考えた。あそこに行くのは久しぶりだ。特に遠いというわけではないが、なかなか行く機会のないところである。だが思い出深い場所だ。自分と妻が出会った場所であり、要するに初恋をしたところになる。自分が引っ越してきて、一ヶ月ほどそこで過ごした。その理由が喘息の療養だったのも、どこか運命めいたものを感じる。ただ単に、遺伝だから仕方のない事であるが。あそこで過ごした高校生活はいかにも青春といった言葉が似合い、懐かしく輝かしい思い出だが、どこか不確実で、うっすらとした霧が立ち込めたようによく思い出せない。昔のことだから仕方のないことだが、これから向かう先で何か思い出すかもしれないという期待が、ないこともなかった。

 ふと考えてみると、そういえば小学生の頃にも好きな人ぐらいいたような気もしてきた。だがそれでも、それが初恋かと言われれば違うような気がする。やはり自分の初恋は、あの高校二年の夏だろうなと思った。

 夢は目が覚めればいずれ忘れる。今のうちに、もう一度あの夢を思い返してみることにした。

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