035:白炎に燃ゆる
第一階層【鉱床樹海キムラヌート】階層主。ダンジョンイーヴル・ラスター。
腐食性の黒泥を纏い、その上に数多の鉱石で包むことでヒト型となった全長十数Mある巨人モンスター。
その体躯の通り鈍重だが、馬鹿げた力を持っている文字通りの化物。
そう、遅い。俺はそう思った。一度遭遇しただけで全容を知った気でいた。
だが。
ラスターの動きは速かった。
否、遅くはある。だが、その巨体故、一歩がとんでもなく大きく、たった数歩で俺たちの頭上まで迫り来ていた。
腕を振りかぶりながら。
「ぐっ」
「リム!」
ダフクリンとの戦いを終えたばかり。治療なんて全く済んでいない。酷使し続けた全身が悲鳴を上げて、まともに動いてくれない。
「エッセ、逃げ、っ!?」
言いかけた俺の服が思い切り引っ張られる。直後、閃光が【天蓋都市】を包むと同時にラスターの巨拳が轟音を響かせ大地を穿った。
しかし、そこに俺たちはいない。
「ふぅ、間一髪」
「サリア!」
ウルに跨るサリアにお姫様抱っこされるエッセが喜色立った声でその名を呼ぶ。
俺はというと、ウルに背中の服を噛まれて宙ぶらりんだった。
まぁ、サリアにお姫様抱っこされるよりは千倍マシか。
ウルが優しく俺を地面に着地させてくれる。礼の意味も込めてウルの頭を撫でて、湖を挟んで滝の影にラスターを見据える。
サリアが放った疑似アーティファクトの閃光玉に紛れて、姿を隠すことに成功したようだった。
「サリア、なんで階層主がここに来たんだ。【ヘカトンケイル】が討伐しに来てるんじゃなかったのかよ」
「いやいや、あたしが知るかっての」
「ごめん、リム。私の感知がさっきまで働いてなかった」
エッセの感知スキルをすり抜けてきたというわけじゃないらしい。確か、怪我してたりすると意識していないと発動できないんだったか。
「別にお前のせいじゃないだろ。何でもかんでも自分を責めるな。これからはそういうのはなしだ」
「……うん!」
が、現実問題どうするか。
再び注がれるようになった滝の影に入ってまだバレていないが、それも時間の問題だ。
「リム、とりあえずポーション飲んどきなよ。もう限界でも働いてもらうから」
「ん。わかってる」
受け取ったポーションを一本二本と飲み干しながら選択肢を模索する。
倒す? いやいや、無理だ。剣などの武器はあの腐食性の粘液で溶かされ、唯一効きそうな【
魔法。それもとびきり火力のでかい魔法がないと倒せる気がしない。
だから逃げる。それが一番現実的なんだが……あれ?
「なんでサリア逃げないんだよ。とりあえず、この【天蓋都市】から出ちまえば追って来れないだろ」
ウルも俺を加え、背中にサリアとエッセを乗せたままここまで移動できていた。この
だが、エッセはにんまり腹の立つ笑みを浮かべて、両手の人差し指をそれぞれ立てる。
「良い話と悪い話、どっちから聞きたい?」
「はぁ?」
「ほらほら早く、時間ないよ」
「悪い話から!」
「エッセは美味しいものは最後に取っておく派なんだね。おっけ、じゃあ悪い話から」
そうして、なんてことない風にサリアは絶望を突き付ける。
「【天蓋都市】の入り口全部塞がっちゃった。逃げ場なし!」
「……はぁああああ!?」
「百意図的。あの階層主、ここにいるあたしたち全員殺す気満々」
「なん、で」
「それ考えてる暇ある?」
ない。
「じゃあ良い方は?」
「この階層にはいま【ヘカトンケイル】がいる」
「! それはつまり」
「そ。あの化物を前にして、どれだけ生き残れるかっていう耐久戦ってわけ。お、まずはあっちの逃げ遅れたダフクリンの手下たちを潰すことにしたみたい。ラッキー」
ラスターがその巨体で【天蓋都市】を揺るがしながら、逃げられずに壁際で止まっていた手下たちに襲い掛かる。
蜘蛛の子を散らすように奴らはその巨腕から間一髪逃れたが、それも時間の問題のように見えた。バカげた攻撃範囲に威力。いつまで躱せるはずがない。
「リム!」
エッセが俺を迷いのない眼差しで見つめてくる。俺の名前を呼んだけど、もう意志は固まっているようだった。
「ちょ、ちょっと待って、助けに行くの!? あいつらを!?」
「悪いな、サリア。こいつ、根っからのお人好しだから。自分を襲ってたゴロツキ探索者を身を呈して助けたくらいだし」
「ごめん、行ってくる!」
「あ、ちょ!」
「さて、俺は気絶してる奴らが襲われないようにしとくか」
「待ってって! とにかく襲われないよう時間稼げば、【ヘカトンケイル】が来るかもしんないじゃん! あんな奴らのために危険を犯す必要ないって!」
俺の肩を掴むサリアに、「同感だ」と肩を竦める。
お、珍しい。呆気に取られたようなぽかん顔のサリア。可笑しくて、つい笑みが零れた。
「でも、俺はエッセの傍にいるって決めたから。それはあいつの想いに寄り添うってことだ」
「間違いかもしれないじゃん」
「そんときは正す。だけど、今回のエッセの選択は間違いじゃないって俺は思う」
助けられる人がいるのに見捨てるのは、助けられてここにいる俺が決してしてはいけないことだ。
「それに、そもそもここはダンジョンだぞ」
「……………………ぷはっ」
サリアが我慢できなくなったように吹き出した。
「あははははははっ! 確かに! 探索者が赤の他人を当てにして待ってちゃダメよねー」
サリアは腹を抱えてウルの背に顔を埋めて笑った。笑った、のか?
けど顔を上げるともういつものサリアだった。飄々とした、にやけ面の張り付いた顔。
「でも、そこまで言うからには手があるんでしょうね?」
「……確実とは言えないけど、ある。唯一あいつを倒せるものが」
「おっけ。じゃあ、あんたはそれやって。気絶してる奴らの回収と、階層主の足止め、あたしたちがやるから」
できるのか、という問いは不要だろう。
銀狼を駆る赤ずきんに怖いものはない。すると言ったからにはしてくれる。
そうして、サリアに背を向けると声が聞こえた。
「まっ、あいつとやる前のいい予行演習にはなるんじゃない。行くよ、ウル」
『ォオオオオオーーーーーーン!!』
ウルの遠吠えに乗って言祝ぐ声が耳朶をくすぐった。
「【我が猛りは其の咆哮。被覆せし賢者の隆盛。獣心の理を以て双駆と成れ】――」
神秘的な声音。いつものサリアとは違う。鈴が鳴るような、綺麗な声だった。
そして、宣言する。
「――【ウルティアスウェア】」
大地を蹴る音がした。振り向けば、そこにもうサリアの姿はなく、赤と銀と残影が別々に動いているのが見えるだけだった。
気づけばもう気絶している人の姿が見当たらない。もう回収したというのか。
異次元の速さ。ダフクリンのあのスキルの比じゃない。戦っていたときは同程度の強さだと思っていたけれど、間違いなくサリアのほうが強いだろう。
そしてエッセは触手を伸ばし、ラスターを引き付けてくれている。最初にラスターと交戦したときよりも動きに無駄がない。不意に生やしてきた岩の腕もきっちり躱している。
そんなエッセのおかげでダフクリンの手下たちはひとまず難を逃れられたが、突如文字通り降って湧いたモンスターたちがその逃げ道を塞いだ。
「ダンジョンの構造変化にモンスターまで湧かすとか、本当に殺しに来てるな!」
とはいえあいつらも探索者。あれくらいなら自分の身は自分で守れるはず。
だが雑魚モンスターまで出現するとなると、余裕なんてほとんどない。撤退できないこの状況だとジリ貧で全滅必死だ。
どこだ。あれは。ラスターが溜めていた水が一気に流れ込んだせいで滝周辺の水かさが上がっていて水没している。そのせいで目当ての物が見つからない。
考えろ。闇雲に探していても見つからない。
特徴。あれの特性は……。
「!」
茹った水。湯気を立ち昇らせている場所があった。
「あった」
水没した一本の剣。波打つ特異な刃を持つ剣。
炎を放つアーティファクト【フラムヴェルジュ】だ。
俺は服を千切って手に巻いた布越しに水没したフラムヴェルジュを握る。
フラムヴェルジュ周辺は熱湯の如く温度が上がっていて、それ自体が焼きごてのように高温を維持していた。あの冷やすための鞘が必要になるわけだ。
手の皮膚が焼かれるのを感じながら、肌には直接触れないよう布を巻きつけて持って走る。
「どうする、どっちに」
炎を吐き出すアーティファクト。これをラスターに使うか、それとも【天蓋都市】の壁に使うか。どちらが最善か、だった。
もしこれでラスターを倒せるなら、話は早い。撤退の必要がなくなる。
壁に穴を開けられるなら、そこから逃げられる。だが。
「サリアたちの早さでも全員逃がすのは無理か」
その間にまた階層主の力で道を塞がれれば、振り出しだ。次またフラムヴェルジュが握れるようになるまで、階層主の猛攻を耐えられる保証はない。
なら。
「エッセーーーーーーーーーー! サリアーーーーーーーーーー!!」
柄の下の方を持ち、フラムヴェルジュを掲げる。
二人とも俺が掲げるものを見て察してくれた。
エッセが俺とラスターの直線状から退避する。それと入れ違いで、赤銀の残光がラスターへ駆ける。
地を這う流星は岩窟の巨人に駆け上り、弾けた。二人とも速すぎる。完全にラスターを置いてけぼりにしていて、腐食性の粘液もサリアの片手斧の斬撃に追い付かず空を濡らすばかり。
ウルが体勢を崩し、サリアが岩の鎧を削っていく。破裂音と金属の砕ける音が重なるようにして響き、流星群の墜落を思わせた。
そして、赤銀の流星が黒曜の巨人の膝を穿つ。
『グォオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオ……』
ラスターが膝をついたのを確認して、サリアたちは射線上から離脱してくれる。
最高のお膳立てだ。
「ふぅー……」
チャンスは一度。タイミングはシビア。振り下ろしによって炎熱をラスターに集中させなくてはならない。だが、触れれば数秒ともたず暴発する。魔力は一気に流れてフラムヴェルジュを満たし、炎となって吐き出される。
外せない。
いや、外さない。三人が作ってくれた好機を逃したりはしない。
掲げたままフラムヴェルジュの刃をラスターへ。一刀の下に両断する。炎絶の刃をこの手に。
「【フラムヴェルジュ】――」
パス開放。全魔力左腕より抽出。指の先、皺、関節、掌へ魔力を圧縮、保持。
魔力で掴むが如く、その手をフラムヴェルジュの柄で満たす。
直後、力が両腕に圧し掛かった。
魔力、あるいはそれに類する力に重さがあると錯覚した。
全身に緊張が走る。もし一瞬でも気を抜けば、暴発し己ごと獄炎の渦がこの部屋一帯を呑み込むことが容易に察することができた。
だが、抑える必要はない。暴発してもいい。
「――【ヴォル】――」
ただ指向性を持たせ、眼前の敵を焼き払うのみ!
「――【テクス】!!』」
振り下ろした刹那。視界がオレンジ色の閃光に塗りつぶされた。両腕がそのオレンジ色に呑まれ、意識を刈り取りかねないほどの激痛が手から身体の中心にまで突き抜けるように走る。
「ぐっ、あっ!?」
熱風は俺の身体を煽り、体勢を崩した。切っ先が逸れる。焼き付く痛みに手の感覚は俺の元から離れ、フラムヴェルジュが浮いたその瞬間。
俺は爆風で後方に吹き飛ばされた。
「リム!」
エッセが受け止めてくれて間一髪壁への激突は免れた。だけど。
「あ、ああ……」
「くそ」
楕円に抉れ赤熱する大地の射線上。左半身が吹き飛び、炎熱に焼き切られた部位が煌々と赤熱する岩体を晒しながら、黒泥を垂れ流すラスターがいた。
フラムヴェルジュの一撃により湖の中心にまで押されたものの、その半壊した身体に滝を浴びて、水を蒸発させながらも立っていた。辛うじてではなく、不動然として。
ダメージはあっただろう。確実にラスターを倒しうる一撃であっただろう。
だが。
外れた。強すぎる威力に俺の身体が剣を支えられなかった。
倒しきれなかった。
「うぐっ!」
「リム! 待ってて、すぐにポーションをかけるから!」
ポーションをかけてなんとかなる傷じゃなかった。手の平は真っ赤に染まり焼け爛れていた。ポーションが掌を伝い、空気が動くそれだけで意識を手放したくなる激痛が走る。
『ォオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオ……』
異変が起きた。
熱せられた岩が滝の水に急速に冷やされたためか、ラスターの岩の鎧がボロボロと崩れていく。代わりに血液のように岩体の内を巡っていた黒泥が徐々に纏まり球体へと形を変えていった。
崩れた岩の山の頂上に鎮座する黒泥の球体。それが波打つ。
総毛立った。
「エッセ!」
「きゃっ!?」
エッセを押し倒した瞬間、球体が弾けるように無数の触手が伸びて、俺たちのいた場所の地面を抉る。
それらはこの【天蓋都市】全域に及び、壁と床、天井、湖、そして天蓋都市に至るまでまるで根を張るように伸びていった。
「いたた……なに、あれ?」
「ラスター……なのか?」
全天に伸ばされた黒泥の触手が脈動する。まるでドクンドクン、ゴクンゴクンと水を吸い上げる根のように周囲の壁や天井などから何かを啜っているように見えた。
事実、湖の水は見る見るうちにその水かさが減り、幾本もの黒泥の触手に貫かれた天蓋都市からは水がほとんど流れ落ちなくなっていた。
「まるで何かの繭みたい」
エッセが呟いた瞬間、脈動した球体から突起物が生える。人ひとり入りそうな穴の開いた突起物。その穴は俺たちに向いていた。
初めて見るもののはずなのに、何故か見覚えがあった。師匠との勉強であれに似たものが……。
砲塔――大砲。まずい!
ガコンと重々しい金属の音がする。砲塔の奥によりドス黒いナニカが見えた。
直後、爆発音とともにその砲塔から黒い球が放たれる。
「【無明の刀身】!!」
できるだけ巨大な剣をイメージし、その黒球へ突き立てた。腕の骨が折れかねないほどの加重が襲ってくるのも無視して腕を左に振るう。切っ先から巨大な翡翠剣の刃の腹を滑るように黒球をなんとか俺たちから左に逸らすことができた。
そして壁に激突したそれは、まるで壁を喰らうように壁と地面に沈んでいく。
固形化した腐食性の汚泥。
当然人体にも有害。というか、有害じゃなくとも当たれば普通にタダじゃ済まない。
さっき、エッセにポーションで手の傷を多少なりとも癒してもらえていなかったら、あの壁と同じ運命を辿っていたことだろう。
だけど次は……。
「ッ!」
「ま、また!」
また砲塔でガコンと音が響く。さっきは運が良かった。次は凌げる気がしない。
だが発射する直前、ラスターの繭が傾き、黒泥球は的外れな場所へ飛んでいく。
「あんなほっそいので支えてっからよ!」
苛立ちも隠さず、繭の根を斬るサリアが叫ぶ。その身体は所々が焼け爛れたようになっていた。
「ウルを傷つけた罪贖ってもらうから!」
「リム! ウルが!」
ウルが左手側、根により崩落した天井岩の裏側で倒れていた。生きてはいるみたいだけど、脚が黒いナニカに濡れていて、立とうにも立ち上がれないでいるようだった。
そして、その後ろにはダフクリンの手下たちがいる。あいつらを庇ったのか。
「ぼうっとしてんな、リム! さっきよりヤバイ! ヤバイのに“成ろう”としてる! こいつはラスターなんかじゃない! もっと別のナニカだ! いま倒せなかったらあたしたちは終わり!」
それは知識によるものではないのだろう。
けれど、サリアは確信めいた口調で言った。
俺よりも長く探索者として生きる彼女の本能が警告したのだ。
最大限に警戒すべきナニカが起きつつあると。
そしてそれは、さっきエッセが呟いた繭という言葉が全くの的外れでないことを意味していた。
「エッセ! もう一度フラムヴェルジュを使う!」
「で、でももうリムの手はボロボロだよ! また使ったら今度は」
「生きるためだ! 頼む、探してくれ!」
逡巡は一瞬だった。エッセは俺を信頼して頷き、目を閉じる。彼女の感覚が広がるような不思議な空気を感じ、直後、エッセが指を差した。
それほど遠くない。拾いに行ける。
「リム! そっちに砲塔が行った!」
「エッセ! フラムヴェルジュを!」
「うん!」
黒泥球が発射される刹那、【無明の刀身】をそのラスターの砲塔へ伸ばす。長さは十数M。ここまで伸ばせば、もう繊細な扱いなんてできない。斬ることすら無理だ。
だけど目的はそうじゃない。これはただ、砲塔を詰まらせるためのものだ。
『!!!?』
「ぐっぅぁ!」
当然、放たれるはずだった黒泥球と砲塔の間に挟まれ、【無明の刀身】は砕ける。それは俺に反動としてダメージが返っては来る。
だけど。
「はっ。自分の中で球が暴発して痛がってやがる……!」
「やるじゃん、リムぅー!」
ざまぁみろと言いたいところだけど、こんなの一時しのぎに過ぎない。
必要なのは。
「リム!」
エッセが触手を焼かれながら何度も持ち替えてフラムヴェルジュを持ってきてくれる。
まさしく焼きごてそのものだ。握れば俺の手は焼かれる。次、起動すれば腕が焼き消えるかもしれない。
それでも迷いはない。エッセたちとダンジョンから生きて帰るためなら、何だってする。いままでと一緒だ。
「…………」
フラムヴェルジュに伸ばしかけて、あの痛みを知る手が震えた。
怖い。決意は揺るがないとわかっていても本能は恐怖する。腕が無くなることがどういうことか。本当に腕だけで済むのかと。
「リム」
いまにも泣きそうなエッセを見て、俺は心底笑う。ぎこちなくてもいい。俺の内に芽生える恐怖なんて笑い飛ばしてやる。
エッセを泣かすためにするわけじゃないだろう。ここを出て一緒に笑うためだ。
「腕がなくなったらじいさんに良い義手でも作ってもらうさ」
「…………」
フラムヴェルジュに手を伸ばしかけたが、俺の指は空を切る。代わりにエッセの身体が解けた。
消えたんじゃない。自身を形作るいまの姿を触手へ戻していったのだ。
最初に花飾りが花びらを散らすように解けて長い髪が広がると、そこを起点にまるで羽化するように、触手と髪色が黒紫色から揺らめく玉虫色へと染まっていく。
ブラウスもスカートも擬態が解けてただの触手へと戻り、肌から直接生えて全身に巻き付く姿となった。
そして、玉虫色に幽玄に揺らめく翼がエッセの背に妖精の翅の如くはためく。
全身を泳ぐように肌が時折玉虫色に変わり、その身体に神秘を体現していた。
正真正銘、人ならざるエッセの本当の姿。
「私がリムの魔力を受け止める」
背中から抱きすくめるようにしてきたエッセは、触手を伸ばして俺の腕を覆うように巻きつける。二の腕から指の先に至るまで。
「フラムヴェルジュに注がれる魔力を私が調節して暴発を抑えてみるよ」
「そんなこと、できるのか?」
「……わかんない。でも、感知を高めればフラムヴェルジュの魔力のパスが見えるから。そこに流れ込む余分な魔力を私が吸収すれば」
「暴発しない」
まっすぐにエッセが見つめてくる。エッセは頷いた。
暴発しないなら、中途半端に魔力を注いで威力不足に陥らずに済む。
だけど。
「前みたいに意識が飛ばされたりしたら」
「私を信じて、リム。絶対にリムを支えるから。大丈夫。リムならきっと倒せるよ」
信じてくれる。
顔は見ずともそこ恐れなんてなくて、あの光のような笑顔があるのがわかる。
なら、俺もエッセを信じないといけない。
「やるぞ、エッセ」
「うん!」
眼前に差し出されたフラムヴェルジュを握る。手の皮膚が焼けて煙が立つ。肉の焼き焦げる嫌な臭い。そして、剥き出しの神経に剣山を押さえつけられているかのような激痛。
だけど、おかげで意識ははっきりしている。ありがたい。これなら最後までやり切れる。
「ふぅぅー……」
乱れ渦巻く力の源泉が絶え間なく熱を帯び、活性化して翡翠の魔力の奔流が全身を巡るのを感じた。
それらは両腕へと我先にと殺到し、フラムヴェルジュという力の頂点を目指して流れ込んでいく。
フラムヴェルジュの刀身が煌々と赤熱し始める。前と同じように暴発するかに思えたが、その色の変化は穏やかで緩やかだった。
代わりにエッセの俺の腕に巻き付く触手が火花を散らしながら赤く染まる。燃えるそばから再生しているのだ。辛そうに呻く声が背中から聞こえた。
「エッセ!」
「だい、じょうぶ! これくらいリムの痛みに比べたら!」
「っ!」
暴走は抑えられている。けど代わりに魔力の溜まりが遅い。いや、ダフクリンが使っていたときの威力ならもうすでに十分だ。だが、あのラスター相手ではそれじゃあ足りない。
最大火力と暴発の瀬戸際。そこを見極めないといけない。
そう思っていたときだ。
これほどの力の奔流。ラスターに気づかれないはずがない。
『…………』
目なんてない。けれど、目が合った気がした。
直後、ラスターの繭の表面が波紋のように揺れる。その中心が盛り上がったと思った瞬間、手が現れた。
細い腕の先に爬虫類を思わせる爪の生えた、黒塗りの手が。
まるで羽化に先駆け、這い出たかのように。
黒腕は嘔吐するように黒泥を垂らしながら再現なく伸びていく。先端が貫手を模ったかと思うと一瞬で加速した。
空気を破裂させる音を鳴らしながら生物的でない急角度で曲がって迫ってくる。その先端で俺とエッセを貫くために。
「はああああああああああああああああああああっ!」
「サリア!」
傷だらけのサリアが片手斧でその手を打ち落とす。だが、ラスターの黒腕はしなり跳ねて止まらない。
サリアは縦横無尽に泳ぐ黒腕を片手斧一本で叩き、かち上げ、薙ぎ払って捌く。
「お前らもこの腕捌け! 死にたいのか!?」
「くそったれええええええええええ!」
『!』
サリアだけじゃない。ダフクリンの手下の探索者たちも黒腕に斬りかかり、俺たちへ向かうのを阻止してくれた。
生存への打算があろうとも、ありがたいことこの上なかった。あと少し時間を稼いでくれれば……。
だが。
「!?」
「な、なんだこりゃあ!?」
サリアたちの手から武器が消失していた。いや、消えたんじゃない。
黒腕に喰われた。纏い滴る黒泥。あれも腐食性を有しているのだ。
そして乱雑にサリアを、探索者たちを横薙ぎ吹き飛ばしていく。
サリアの吹き飛ばされた先は壁だった。頭から激突する刹那。ウルが身を呈してサリアを受け止め一緒に地面に転がる。もう二人とも動かない。
黒腕は彼らに目もくれない。最大の脅威が俺たちなのだろう。
「っ!」
もう俺たちを守ってくれる人はいない。
あと少しなのに。赤熱した刀身はもう部屋全体を赤く照らすほどだ。
だが、奴の黒腕が鎌首をもたげて俺に向いた。もう数瞬もないとき、サリアの声が響く。
「ごほっ、エ、エッセ! 耳塞いで!」
エッセの触手が俺の耳を塞いで音を遮断した。同時に、ラスターの繭の足元に何かが転がっているのが見えた。
疑似アーティファクト。
球体のそれに亀裂が走って砕けると、天井から土煙を降らせるほどの激震轟く音の洪水が部屋を襲った。
それを真正面から直で浴びたラスターの繭は苦渋に揺らぎ、黒腕は酩酊するようにのたうち回る。
正真正銘最後の好機。
誰もが死力を尽くした。
エッセも、サリアも、ウルも、敵だった探索者たちでさえ。
この一撃のためにその身を呈して繋げてくれた。
眼前にいるのはただ一体。
ラスターだったナニカだけ。
「いい加減にしろよ」
腹が立つ。思い通りにならないこの身体に巡る力に。暴走を目指すフラムヴェルジュに。
「お前を使ってるのは俺だろうが! 力を使うのは俺だろうが!」
俺は天高くフラムヴェルジュを掲げた。赤熱の閃光が明滅し不規則に瞬く。
「いい加減俺の物になりやがれ!」
力が昇る。同時にさっきまでとは違って、全身の感覚が広がっていく気がした。
まるでダフクリンと戦っていたときに【無明の刀身】を使っていたときのような――。
意識の拡張。際限なく枝分かれする泡沫の世界。
もう知っている。あの光がそこにあることを。
それをこの手で握りしめる。
『!?』
赤熱する閃光はその輝きを増し、白熱の閃光へと変貌する。
黒泥の根すら塗りつぶす輝きが【天蓋都市】を白亜に染め上げた。
『ギィイイャアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア!!』
耳をつんざき大地を揺るがす悲鳴がラスターの繭から響く。悪あがきのように脈動し、腕が踊り狂う。砲塔が伸び俺へ向く。
もう遅い。
全て結実した。
この一撃はあらゆる障害を乗り越え、圧倒する踏破の極光。
「【フラムヴェルジュ】――」
新たな名を俺は咆哮する。
「――【オーバーライド】!!!!!!!!!!」
振り下ろした刹那、白熱の閃光伴う炎波が放たれる。
それは大地を焼き尽くしながら、放たれた黒泥球と黒腕を一瞬で蒸発させてラスターの繭を呑み込んだ。
根はその熱波で瞬く間に焼け落ち、白炎の奔流は直線状全てを灰燼に帰しながら、天高く炎の竜巻となって上昇。頭上の天蓋都市全てをその顎で噛み砕く。
白炎は天蓋都市に消える。いや、そこにあったのはもう天蓋都市じゃない。
上層と下層を繋ぐ大穴。
白炎に揺らめく日輪だった。
ラスターの影も形もない。
一切が灰に消えた。
「…………」
倒せた。俺たちは助かった。
そう安堵した瞬間、視界の端が黒く世界を侵食していく。いまだ白炎の残滓が天蓋都市に残っているはずなのに。
「リ……し…………目を」
エッセの声が途切れて聞こえる。その声が聞きたい。君の顔が見たい。
けれど、俺は世界に溶けるように、まどろみの底へ落ちた。
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