029:エッセ
俺は壁に背を預けて動くことをやめていた。
エッセが去って何分、何十分、何時間経ったのか。とても長かったような気がするし、短い気もする。
探索者はおろかモンスターすら通りかからない。遠くに戦いの音すら響かない。時折、ダンジョンの構造が変化する地鳴りが響くだけだ。
身体が気怠い。手足の末端から深部へ続いていく感覚がある。恐らく侵食だろう。あとどれくらい自分の身体はもつのだろうか。
「このままダンジョンに消えても、いいか」
ダンジョンに呑み込まれても、そこにエッセはいない。でももうそれでいいかと思えた。
生き永らえる理由はもうない。エッセは自分を必要としていない。
今日までの日々は、村が滅んだ日に死ぬはずだった自分の寿命を先延ばしにしていただけのことなのだから。
「こんなとこで何してんの?」
聞き覚えのある声だ。誰だっけかと締まらない意識の紐を手繰り寄せると、サリアという名前が浮かぶ。
「お前か」
「なに数週間ぶりに会ったみたいなこと言ってんのよ。あたしにしては珍しく結構心配してあげたのに」
「俺じゃなくて、エッセのほうだろ」
「いいえ、あんたのほうを」
意外な言葉で俺は顔を上げる。
いつものにやけついた不遜な表情はそこになくて、サリアは大真面目にさっきの言葉をかけてくれたことがすぐにわかった。
「悪い」
「いいわよ、別に。それで、エッセは?」
「行った」
「行ったってどこに」
「わからない。でも多分、国に帰るんだと思う」
「国、ね」
「……お前は知ってたのか? エッセがシェフィだってこと」
サリアは肩をすくめる。
「エッセがシェフィだってことは知らないわよ。ただ、あの槍捌き。体裁きをあたしは一度見たことがある。その家伝来の槍術で、極一部しか扱えないはずだから」
「なんでお前が……いや、別にいい。もう」
もうエッセとの関係は終わったのだ。だからこれ以上エッセのことを知ってもただ虚しくなるだけ。自分にできることはもう何もない。
だけど、サリアは「で?」と聞いてくる。
「なんで追わないの?」
心底不可解と言いたげに、顔の構造を左右非対称にこれでもかと歪めて、半ば脅すように言ってくる。
「……エッセがそれを望まなかったんだ。俺はただの隠れ蓑に過ぎないって」
「それ鵜呑みにしてここでぼうっとして、ダンジョンに取り込まれるの待ってるの?」
「……もう助ける必要なんてないだろ。ダフクリンとエッセは仲間同士なんだから」
「あれだけ泥臭くダンジョンを捜しまわっておいてあっさり諦められるんだ?」
「……もう見つかった。それに、俺がエッセにしてやれることはないんだよ」
「あんたを身を呈して守ってたあの子に随分と冷たいじゃない。嘘つきはいらないって?」
「仕方ないだろっ!」
押さえつけられる胸の苦しみが言葉をせり上げた。
必死に抑えようとしていた感情が、どうしようもないくらい発露してもう止まらない。止められない。
俺はサリアに詰め寄って壁に押し付ける。その肩を揺する。
「言ったんだ! エッセは俺の仇だって。俺の村が滅んだのは自分のせいだって! 言って、そんな自分に何をしてくれるのですかって聞いてきたんだ! ……言えなかった。何も! わからなくなったんだ、自分の気持ちが……! 助けたい。見たかった。ずっと諦めた顔をして本心を隠すエッセの本当の笑顔を見たかったんだ! その笑顔が俺を、あの闇から掬い上げてくれたから。だから、そのために捜して、捜すために生きて来て……でもエッセが言うことが本当なら仇なんだ! 恨まなくちゃいけないんだ! だってダフクリンのことは我も失うくらい憎むことができたんだから! そうじゃなきゃおかしいだろっ! でも、でも、でも……自分の気持ちが、わからないんだ……何が本当で何が嘘で、ぐちゃぐちゃで、俺は、どうしたら、いいんだよ」
全て言い切って俺は俯く。嗚咽に塗れる自分を恥じる余裕すらない。
もう自分に残されたものはない。
「で?」
だけど、サリアは俺の手を肩から払う。そして興味なさげに小首を傾げるのだ。
「どうすんの?」
「だからわからないって」
「わかってるでしょ」
「……え?」
何を言ってるんだ?
サリアの緋色の瞳は、さっさと気づけと訴えてくる。
それでも気づけない。わからない。だけど、次のサリアの言葉は俺の止まった胸の鼓動に跳ね上げさせた。
「あんた、ずっとあの子のこと、エッセって呼んでる。シェフィじゃなくて」
「…………」
シェフィじゃなくて、エッセ……。
あれ、なんでだ、どうして俺はシェフィのことをエッセって。
サリアが俺の胸を人差し指で突いてきた。
「確かにシェフィールド・オブシディアン・マルクトは嘘をついていた。あんたを騙し続けてきた。本心を語ったことなんて一度もないんじゃない?」
でも、とサリアは続けた。
「エッセは? あの子はあんたにとって嘘だった?」
「俺にとって」
「命を懸けてまであんたと一緒にいたいって言ったエッセのことも嘘だと思うの?」
エッセの言葉。
『サリアはさ。リムの探してる女の子が、いまのリムを見てどう思ってると思うかな?』
『そんなの喜ばないに決まってるじゃん。どういう関係か知らないけど、本当にリムとそいつが親しいんならね』
『うん。きっと、リムをここまで苦しめて、悲しんでる。自分のことなんて忘れて欲しいって思ってるよ。でもね……女の子って酷いんだよ? こんなにも想われてることを嬉しく思っちゃうんだ』
『エッセがその娘の気持ちを代弁するの?』
『うん。だって、白馬の王子様が助けに来てくれるのって、女の子にとってのロマンでしょ?』
心臓が跳ねた。胸に溜まった汚濁を吐き出させるように。
光が全身を駆け巡るようだった。あの日、シェフィが自分を闇から掬い上げてくれたときのように。
「悪い、サリア、俺行かなくちゃ」
「ん。ウル貸したげる。白馬なんかより速いよ、あたしの銀狼は」
にぃっと笑うサリアに、俺も笑う。
ああ、確かに。
ウルに乗ると、すぐにもう目的地はわかっているとでも言いたげに駆け出す。
サリアと一緒に居たときには見たことのない速さ。風に乗るが如くだった。
見る見るうちにサリアが遠くなっていく。
「サリア! ありがとう!」
その声が届いたかどうかはわからないけど、初めてサリアに言えた心からの感謝だった。
―◇―
脇道に消える直前に聞いた「ありがとう」という感謝の言葉。
その言葉を反芻して、サリアは肩を竦めた。
「らしくないっての。それに、目当ての奴は釣れたわけだし。報告すればお仕事完了。さーて、これからどうしよっかなぁ」
ウルにはリムを送り届けたら戻ってくるよう言ってある。
ここから先はサリアには無関係なところで、余計なリスクに過ぎない。取り巻きはともかく、ダフクリンを真っ向から相手にするのはリスクマネジメントの点から言って、絶対にありえない。
それほどあのアーティファクトは危険なのである。
「……でもま、乗りかかった舟だしね」
エッセにあらかじめ取捨選択はできていると言っておきながら、結局甘い自分に呆れつつ、サリアは歩き始めた。
いまからモンスターを探すのは骨が折れそうだ。
―◇―
鼓動が身体の熱を上げる。身体の深部から末端まで気怠さが押し出され、力が戻ってくる。
侵食なんてなかった。全部自分の気持ちだ。
自分にできることはないと。もう何もしたくないと。
エッセに会うのが怖くて逃避していただけ。拒絶されることを恐れていただけ。
だけどもう大丈夫だ。俺は俺が何をすべきかもう知っている。
いつも通りだ。
ただひたすらに、闇雲に、泥臭く、障害なんて気にも留めず、何と揶揄されようともやると決めたことを為す。
そのために最初から俺は在る。
轟音がした。ダンジョンではまず聞かない音。その先へウルが向かっている。これが意味するところは。
「ウル!」
『バウッ!』
ウルが速度を上げてくれる。岩場と岩場を飛び移り、壁を蹴って最大速度でエッセの元へ駆ける。
一陣の風とともになりながら、俺は静かに目を閉じた。身体は昂揚しきっていたが頭の中は驚くほど明瞭で平静だった。
多分今日が、いままでで最高のコンディション。
力が巡る。
身体の中心から、全身へ駆け巡る魔力の流れを左手へ。
翡翠の粒子が左手へ集中する、満たしていく。身体の熱も想いも全て引き連れてそこへ溜めて留めていく。
粒子に形はない。液体。何にでも変わる。何にでも成る。俺がするのは型を作ることだけ。
頭にイメージした型へ、その粒子を注ぐことだけ。
強く、硬く、鮮明に。全てを知る必要はない。ただ、そう在ると思うだけでいい。
何も無い空を、象らない型を握り、その空想を現実へ引きずり出す。
「【
振り抜けば、翡翠の粒子を纏う剣が俺の手に握られていた。
そして、眼前に赤い光が見える。大地を焦がす残火に二つの影。一人は倒れ、一人は立ち剣を振り上げていた。
「ウル!」
振り下ろされた剣。いま命を奪おうとする凶刃。突き刺さる刹那、ウルの加速ともに振り抜いた俺の翡翠剣がそれを弾き飛ばした。
甲高い金属音は部屋の中央の滝の音にすぐさま掻き消える。
けれどこの一瞬、この場にいる全員、全ての音が止まって聞こえたことだろう。
少なくとも、俺にはもう何も聞こえない。ただの一つ、眩しいものを見るように俺を見上げてくれる、エッセ以外の声は。
「悪い、待たせた」
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